玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

エドマンド・ウィルソン『フィンランド駅へ』(1)

2019年05月04日 | 読書ノート

 一か月ほどご無沙汰してしまった。この間スーザン・ソンタグの「ハノイへの旅」について書こうと四苦八苦したのだったが、結局考えがまとまらず断念した。私には歴史への認識や政治に対する考え方が、きちんと備わっていないことを改めて自覚してしまった。「ハノイへの旅」はベトナム戦争真っ盛りの時でもあり、アメリカだけでなく全世界的にベトナム反戦運動が高まりを見せた時でもあって、1968年について考えるには欠かせないテーマであったのだが……。

  その反省もあって西川長夫の『パリ五月革命私論――転換点としての1968年』も読んで、ずいぶん有意義な刺激を受けたのだが、これについても考えがまとまらずに放置してある。とても団塊の世代に対して1986年の総括をきちんとやれなどと言えた義理ではない。そうこうしているうちに「北方文学」79号の締め切りが迫ってきたため、そちらの方に時間を割いていたため、一か月のブランクとなってしまった。

  で、今度はまたしても苦手な歴史・政治に関する本、エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅へ』を取り上げることにする。年齢から来る健忘症のせいだろうか、どうしてこの本を知ることになったのか、自分で思い出すことができない。エドマンド・ウィルソンは、ヴィリエ・ド・リラダンの戯曲『アクセル』を基軸に据えて、象徴主義文学が20世紀文学に与えた影響について分析した『アクセルの城』を読んでいる。なんと言ってもマルセル・プルーストとジェイムズ・ジョイスの文学が何故に偉大であり、何故に20世紀文学の潮流を決定づけたかについて分析した大変な名著であることは確実である。

  そして私はこのアメリカの批評家が『フィンランド駅へ』という、革命家列伝のようなものを書いていることを何かで知り(それが思い出せない)、しかもそれがジュール・ミシュレの項から始まることを知らされて、どうしても読みたくなったのである。ジュール・ミシュレは昨年暮れに『魔女』を読んで強い感銘を受け、私があまり読むことのない歴史書の概念を覆されたという思いがあった。 『魔女』を読んだ私は、私の「建築としてのゴシック」で、ヨーロッパ中世というものを考える時に、中世礼賛論者たちへの反論として利用しようと思ったのだが、充分活用したとは言えない。独立して『魔女』そのものを書いてみたい気持ちもあったのだが、やはり歴史音痴のためにそれすらできないでいる。

  しかし、ミシュレの『魔女』は強い呪縛力を持っていて、歴史ということについて考える時に、私をその方向に誘導する大きな規範の一つとなったような気がする。『魔女』を読んで私は、19世紀の古典と言われるような書物がいかに多くの示唆を与えてくれるかということを身に沁みて感じたのだった。この先どれだけ生きられるか分からないが、そのような本を中心に読んでいきたいと思った。

  まずこの本『フィンランド駅へ』のタイトルは、1917年のロシア革命勃発に際して亡命先から帰国したレーニンが降り立った駅の名前からきている。したがって、フィンランド駅というのはフィンランドにあるのではなく、ロシアにある駅名なのだ。ここでレーニンは革命後最初の演説を行ったわけだが、それがウィルソンによれば「人類史上はじめて歴史哲学の鍵が現実の錠にぴったり合う瞬間」であったのだ。

  だからこの『フィンランド駅へ』という一書は、ヨーロッパの革命思想の鍵が現実の歴史の錠をこじ開けていく、その道程を描いたものだと言える。またこの本の副題は「歴史を書くことと演じることについての研究」(A Study in the Writing and Acting of History、邦訳では「革命の世紀の群像」)となっていて、ミシュレ以下取り上げられる歴史家・思想家・革命家たちについては、その著作と同時に現実の活動が批評の対象となる。つまり書いたものについての批評と、彼らの実践への批評という二重のテーマを自らに課しているわけだ。

  文学作品の場合にはテクスト・クリティックがあくまでも基本となるが、革命家の場合にはテクスト・クリティックだけではなく、彼らの実生活や人柄、そして実践的活動が批評の対照となる。革命家がすべて著術家であることはないし、そのカリスマ性は書かれたものだけによってではなく、その人柄や伝記的事実によって多くは達成されるものであろうからだ。  だからそのことはテーマ自体に難しい課題を与えている。著作物は動かぬ証拠としてそこに現前するが、人格や伝記的事実に関しては問題はそう簡単ではない。それらは革命家自身が書いたものであるにせよ、関係者の証言であるにせよ、必ずしも信用に足るものとは言えないからである。

  エドマンド・ウィルソンの『フィンランド駅へ』は、テクスト・クリティックとしては非常に優れた著作と言えるが、そうではない部分でそうした弱点をさらしている部分があり、そのことはレーニンの項で指摘しておかなければならない事実となる。  しかし、まずジュール・ミシュレの場合について見ておかなければならない。

エドマンド・ウィルソン『フィンランド駅へ――革命の世紀の群像』上・下(1999、みすず書房)岡本正明訳

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