邦訳の『フィンランド駅へ』の帯には次のように書かれている。
「1917年4月、レーニンはペトログラードのフィンランド駅に立った。ミシュレのヴィーコ発見から百年、この瞬間に向かって構築された「社会変革の思想」とは?」
ミシュレは革命家でもなければ革命思想家でもない。同じフランス人のバブーフやサン=シモン、フーリエなどとも違って、実際に社会変革のための活動を実践した人物ではない。しかし、帯が語っているようにミシュレの存在は19世紀から20世紀にかけての「社会変革」にとっては重要なメルクマールなのであって、ウィルソンがミシュレからこの書を始めたことには大きな意味があったようだ。
ではミシュレのヴィーコ発見にはどのような意味があったのだろうか。とにかくこの書はその場面から始まっているのだし、私もまたそのためにこの本を読む気になったのだから、そのことを知らないではいられない。。イタリアの貧乏学者で、ミシュレよりも一世紀前に活動したジョバンニ・ヴィーコは、歴史と哲学とを相互補完的に融合することを目指したという。ウィルソンはヴィーコの主張を以下のように要約している。
「人間の歴史は、これまでつねに、偉人たちの伝記の連なりとして、顕著なできごとの年代記として、あるいは、神の演出する野外劇として記述されてきた、しかし、いまやわたしたちは、社会の発展がその起源に影響され、またそれをとりまく環境に影響されてきたことを知る。そして、社会も個人と同じく、一定の成長過程を経てきたことを知るようになる。」
つまり人間の社会や歴史は、英雄たちが活躍する神話の世界であるのでもなく、神が造り上げたものでもない、それは「確実に人間によって作られたもの」だというのがヴィーコの考え方であり、またある出来事はかならずその要因となる起源を持っているということ、そのような考えに啓示を受けたミシュレは、ヴィーコを読むためにイタリア語を独学で勉強し、ヴィーコから多くを学んだのであった。
とにかくよく勉強する人であったようで、朝四時に起きて一日中、執筆したり、教えたり、読んだりという生活を送っていたらしい。ウィルソンによれば「ミシュレ以前にはだれ一人、実際にフランスの古文書に分け入り、それを探求した者はいなかったと言えよう。これまで歴史は、たいてい、他の歴史書をもとにして書かれてきたのである。」という。
『魔女』を読む者は誰しも、その文学性、まるで小説を読んでいるかのような臨場感に驚きを感じ、このような〝歴史書〟というものがあり得るのかといった感慨を抱かずにはいられないが、そうしたよくできたフィクションのような歴史書が、一時資料への徹底した参照に裏付けられていたということを知るのである。
ウィルソンはミシュレの『フランス革命史』についても「彼は、革命のさまざまな主体にかんする一時資料にもとづいてフランス革命史を書いた最初の人間であった」とも書いていて、そうした禁欲的な方法がミシュレの歴史書の基本にあったことも確認することができる。
しかしそれだけであったなら、ミシュレの歴史書は学術的なスタイルに終始していたであろうし、あれほど熱狂的に読まれるということもなかったであろう。ウィルソンはミシュレの歴史記述について二つの特徴を挙げているが、一つは今言ったこと、一時資料を精査しそこから歴史の物語を構築していくことであり、もう一つは〝歴史を生きる〟ことであった。このもう一つの方法について、ウィルソンは次のように書いている。
「普通の歴史家は実際に起こったことがらについて知っており、自分の歴史物語のなかでこれから起こることについて知っている。しかしミシュレは歴史の時間の上流にわたしたちを遡らせるので、わたしたちは過去の人々とじかに触れ合い、彼らの英雄的信念をともにし、予期せぬ破局に狼狽し、後で起こるできごとを知っているにもかかわらずまるでそれらについて明確に知らないかのような感覚をいだくのである。」