玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

エドマンド・ウィルソン『フィンランド駅へ』(3)

2019年05月08日 | 読書ノート

 ジュール・ミシュレは読者をして歴史を遡行せしめる。そして自分自身をも歴史を遡る旅へと連れ立っていく。過去のそれぞれの地点は、ミシュレ自身や読者にとって、現在として現前することになる。ミシュレの歴史書の持つ臨場感はそこから生まれてくるのである。

 つまりこの方法は歴史小説の書き方と共通している。歴史小説は設定された時代というものを現在として描くことなしには成り立たないからである。ためしにミシュレを愛したヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』を参照してもよいが、そうするまでもなくこの共通性は歴然としているように思う。

『魔女』は小説として読むこともできる作品であり、『魔女』をそのようなものとしているのは、過去へと遡行する想像力なのに他ならない。ただし、ロマン派の作家たちの作品のように、野放図に想像力を膨らませるのではなく、きちんとした資料に基づいた上での想像力をミシュレは働かせたのだ。だからウィルソンが言うように、ミシュレの作品はロマン派の作品とはまったく違ったレベルのものになり得たのだった。

 ところでミシュレが駆使した、自在に過去へと遡行するという方法は、ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」における二番目のテーゼを思い起こさせる。その重要な部分を引用するとすれば次のようになる。

「過去にはひそやかな索引(インデックス)が付され、解き放たれるようにと指示されているのである。過去の人びとを包んでいた空気のそよぎが、わたしたち自身にそっと触れているのではないだろうか。わたしたちが耳を傾けるさまざまな声のうちに、いまや黙して語らない人びとの声がこだましているのではないだろうか。」

 このテーゼはロッツェ(ドイツの哲学者)の「人間の気質に特有な点のうち、とくに注目に値する点のひとつは、個々人はじつに多くの我欲に満ちていながらも、一般に現在がみずからの将来に対して羨望の念をおぼえることはない、ということだ」という言葉に導かれているものだ。そこでは〝羨望〟ということがキーワードになっていて、人間の現在は過去に対して羨望することはできても、未来に対して羨望することはできない、だからこそ過去というものは我々にとって重要なものだと言っている。

 しかしもっと重要なことは、人間は未来を所有することができないということ、未来に対して羨望したり、悔恨したりすることができないということではないだろうか。だから人間の現在は過去にのみ立脚していて、未来を行動の根拠とすることができないということ、ひいて言えば人間は歴史(未来の歴史などというものがあり得ようか)的な存在である他はないということを意味することになる。

 ベンヤミンにとって過去は想起の対象であり、一方ミシュレにとってそれは遡行の対象である。そこにどういう違いがあるかといえば、それは現在の位置のとらえ方に還元されるのではないか。

 ベンヤミンが過去の想起ということを我々に付与された「メシア的な力」に関連させているところを見ると、過去は想起されることによって現在を改変する力を持つと、彼が考えていたことが分かる。一方ミシュレにとっての過去は『魔女』に見られるごとく、汚辱にまみれたものであり、暗黒の時代そのものであった。

 ミシュレの歴史観からすれば、中世は啓蒙の時代へ向かう歴史の通過点であり、人間は暗黒時代を経てしだいに自由の時代へと進んでいくのであり、現在は過去への批判的検証によって、改変されるものだという認識であった。

 ただし私はまだ、『フランス革命史』を読んでいない。フランス革命とその裏切りの歴史は、ミシュレによってどう捉えられたのか知らなければならない。またベンヤミンの考え方はマルクス主義者として、その史的唯物論とは矛盾しているように思われるが、そのことも検証してみなければならない。

 

・ヴァルター・ベンヤミン『[新訳・評注]歴史の概念について』(2015、未来社)鹿島徹訳・評注