ルイ・ランベールのような青年の極端に観念的な精神性が、ある種の幼稚さに支えられていることは、バルザックが言うまでもなく自明であり、それは極めて危険な状態である。本人は自らの観念性を自分の偉大さを証明するものと思っているかもしれないが、それは彼が観念によって、観念というもの自体の高みへと引きずり上げられているだけであって、決して彼の偉大さを証明しない。
どこかで必ず破局がやってくる。破局は現実に直面した時の敗北という形で訪れることもあれば、自らの先行きに恐怖を感じて撤退するという形でやって来ることもある。彼が分裂病者でなければそうした破局は致命的なものとはならないが、ルイのような分裂者の場合、破局は致命的なものとして訪れる。
ルイの場合それは恋愛と結婚ということをきっかけとしてやって来る。ユダヤ系の資産家の娘ポーリーヌ・ド・ヴィルノワへの恋が、ルイに自身の肉の激しい官能への衝動を意識させる。精神と物質の二元論の中で、思惟と意志によって物質的なものから遠ざかり、精神的な純化によって天使に至ろうというような目論見は、大きな壁にぶち当たり、当然もろくも崩れ去ることとなる。
結婚を直前にしてルイは、精神と肉体との分裂に曝される。精神が命ずるものと肉体が命ずるものとの間のダブルバインドの状態に陥り、カタレプシーの症状を呈することとなる。そして自らの性器を切り落とそうとする自傷行為に及んで、人格崩壊に至るのである。
この衝撃的な結末は、この作品がいかに特異なものであるかを示しているが、しかしよく考えてみれば、あるいは自分の経験によく照らし合わせてみれば、それは必然的な帰結であり、論理的な終局とさえ言えるのである。
小説はこの後、ポーリーヌとの結婚が解消されることはなく、彼女が人格崩壊したルイの面倒を看るというように進んでいき、ほどなくルイが28歳で早逝するという結末を迎える。ルイにとっては最後の救いがポーリーヌであったということになるが、ルイの崩壊した精神にとって、それが何ほどの救いであったというのだろう。
さらに小説は、ルイ・ランベールが残した37の哲学的断片を付しているが、それらのほとんどは狂気の身振りを示していて、読むものに憐憫の情をもよおさせるものとなっている。だが、そこには天才的な慧眼を秘めているものも含まれている。たとえば以下のような一節は、政治的な煽動についての予言的な言葉ではないだろうか。
「われわれの熱狂的な表現はすべてそうだが、怒りも人間の力の流れで、電気的に働く。怒りが爆発すると、その衝撃はその場に居合わす人全部に働きかける。彼らが怒りの当の的や原因であってもなくてもである。意欲の放電によって、大衆の感情を再三蒸留器にかけてあおり立てるような人がよくいるではないか。」
また言語についての先駆的な考え方を示している部分もある。
「しかしひとは、かつて私がぶつかったあのXにきまって出くわすだろうが、それを解決することはできないだろう。そのXとは「言葉」であり、その宣示はそれを受ける用意のないものを焼きつくす。「言葉」は絶え間なく「実体」を」つくり出す。」
ルイ・ランベールは「絶え間なく実体をつくり出す」言葉によって焼きつくされて死んだのである。
(この項おわり)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます