玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「北方文学」86号紹介

2023年01月04日 | 玄文社

「北方文学」86号紹介

 

「北方文学」第86号を発行しましたので、紹介させていただきます。先号発行の直後の7月7日に、古くからの同人米山敏保氏が胆嚢癌からの転移で亡くなりました。これで創刊61年を迎えた「北方文学」の第1次同人すべてが鬼籍に入ってしまいました。追悼特集を組むことにしました。米山氏がまだ20歳代だった頃の短歌作品と中期の小説作品を再録し、略年表を編集し、追悼文を数編載せてあります。老成した米山氏しか知らない我々にとって、若い時の短歌は目の覚めるような瑞々しさを持っています。また女性を描いて名人の域にあった米山氏の小説もお楽しみください。

 

巻頭は魚家明子の詩2篇、「骨」と「さびしい石」です。彼女の短い詩作品は緊張感に溢れていて、詩人としての生きにくさを「ひりひりと」感じさせるものがあります。どの1行も無駄がなくて、完成の域に達していると思います。

 二人目は館路子の「幽かな秋の時間の、狭間」。いつもの長詩で、魚家の作品とは対照的です。動物や植物が総出演でにぎやかですが、執筆者紹介に「庭の松に鳩、鵯、雀が来てそれへ語り掛けるように家猫が啼く。家に近い用水路には白鷺、アオサギを時々は見る。詩の素材はおのずと空から来て呉れる」とあるので背景が分かります。詩の言葉が動物の鳴き声のように空から降って来るのだとすれば、なんと幸福な。

 続いて大橋土百の俳句「海境のゆらぎ」。一年間の思索ノートからの俳句選であるため、作風は様々ですが、土百らしい諧謔に満ちた句もあり、シリアスな句、時代と切り結ぶ句もあって、いつものように楽しく読むことが出来ます。

 

 昨年6月11日に柏崎の游文舎で開かれた、高橋睦郎氏と田原氏の対談録を載せました(本文は6月22日となっていますが、間違いでした)。俳句と短歌との違いから始まって、世界における俳句の独自性、「和魂漢才洋識」という視点から見た日本近代文学のあり方、さらには高橋氏の世界の文豪たちに問うという姿勢など、充実した内容でスリリングな対談となっています。同人雑誌にこのような講演録を載せることが出来ることを、誇りに思ってもいいのではないでしょうか。

 

 批評はまず、昨年東京国立近代美術館で開催された、ゲルハルト・リヒター展の、霜田文子による展覧会評から始まります。題して「「描かれた《ビルケナウ》」の向こう——ゲルハルト・リヒター展を観て」。ナチスドイツのユダヤ人収容所ビルケナウで、ゾンダーコマンドが隠し撮った写真をもとにした、リヒターの《ビルケナウ》という連作についての分析が主体となっています。ベンヤミンの「絵画芸術あるいはツァイヒェンとマール」という論考を参照している部分で、〝媒質としての絵画〟に言及しているところがあり、ちょっとびっくりさせられるような視点で書かれています。リヒターの最高傑作とされる《ビルケナウ》への評価に、やや疑問を呈しているところも興味深いのではないでしょうか。霜田でなければ書けない一篇です。

 次は柴野毅実の「『テラ・ノストラ』のゴシック的解読――カルロス・フエンテスの大長編を読む――」です。このところ柴野が追求しているゴシック論の一端で、メキシコの作家フエンテスの最高の問題作とされる『テラ・ノストラ』を、ゴシック小説の視点から解読しようという試みです。完読されるのをフエンテスが嫌がったといういわくつきの作品ですが、ゴシック小説、特にチャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』を参照することで、糸口をつかむことが出来ます。今回は前半まで、後半の展開が待たれます。

 岡嶋航の「backrooms――あるいは無限の空間について——」が続きます。ネット上に拡大再生産されるbackroomsという動画に最初に触れ、無限というもののもたらす不気味な恐怖について論じていきます。ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の映画「キューブ」や、マリオ・レブレーロの小説『場所』を参照することで、広場恐怖症と閉所恐怖症の並列性という結論が導き出されます。スリリングな論考です。

 漫画論「背中は見えない——藤本タツキ『ルックバック』」という漫画論は、このところサブカルチャーを論じることの多い鎌田陵人によるもの。前号で映画「悪魔のいけにえ」を論じた鎌田は、それに影響されて描かれた藤本の「チェンソーマン」から、「接続」と「切断」というテーマを剔出して、『ルックバック』についても論じていきます。

 榎本宗俊の「食養生」が続きます。かつての日本人の食に関わる短歌を紹介しながら、現在は失われた食に関わる豊かさや健康への志向について論じていきます。

 

 研究では、鈴木良一の「新潟県戦後五十年詩史――隣人としての詩人たち〈20〉」が完結を迎えました。資料集めの段階から数えれば20年がかりのこの労作は、ずっと注目を集めてきましたし、労多くして功の少ないこの種の研究の割には高い評価を得て来たと思います。日本広しといえども、どこの県にもこのような詩史は存在しません。新潟県だけに止まらず、中央の詩壇にかかわる部分もあり、この労作は全国の詩人にとって、今後スタンダードとして位置づけられるでしょう。扱ったのは1995年まで。今後誰かが2022年までを補塡することがあるとはとても思えません。

 坂巻裕三の永井荷風研究「麻布市兵衛丁「偏奇館」界隈、時間と空間」が続きます。荷風は大正9年、実家の「断腸亭」を売却して、麻布市兵衛丁に「偏奇館」を建てて移り住みますが、それまでの外国遊学、就職、帰国後の放蕩生活のすべてが親がかりだったことからの離脱を志したものと見ています。当時の重要な作品「花火」や「震災」『濹東綺譚』を取り上げながら、情け容赦もなく変わりゆく東京の都市風景への荷風の違和感について語っていきます。そこには坂巻自身の変貌を重ねていく同時代への違和感と共通するものがあるようです。

 

小説は2本あります。まず板坂剛の「イビサの女」。いつものように差し引きゼロに終わる虚構らしい虚構の世界です。短くて読みやすく、破綻がありません。読後たとえようもない人生に対する虚しさを感じないではいられません。

 柳沢さうびの「瑠璃と琥珀」は先号の「えいえんのひる」との連作になっています。登場人物の枠組みはそのままに、視点を変えて書かれています。当然、文体を変えていく必要がありますが、柳沢はその難題に見事に答えています。「えいえんのひる」で示された謎が解明されていきます。すでに名人の域に達した彼女の作品の評価が期待されます。

 

以下目次を掲げます。

 

館路子*幽かな秋の時間の、狭間/魚家明子*骨/魚家明子*さびしい石/大橋土百*海境のゆらぎ

【追悼・米山敏保】米山敏保*薄日射/米山敏保*池の記憶/米山敏保略年譜/追悼文・福原国郎*「何のことはない」/徳間佳信*古備前の徳利――米山さんの思い出に代えて――/柳沢さうび*「百済仏なんて博物館にしかない」

【高橋睦郎×田原 対談録】俳句と現代詩の世界

霜田文子*「描かれた《ビルケナウ》」の向こう――ゲルハルト・リヒター展を観て――/柴野毅実*『テラ・ノストラ』のゴシック的解読――カルロス・フエンテスの大長編を読む(上)――/岡嶋 航*backrooms――あるいは無限の空間について――/鎌田陵人*背中は見えない――藤本タツキ『ルックバック』――/榎本宗俊*食養生について/鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史――隣人としての詩人たち〈20〉/坂巻裕三*麻布市兵衛丁「偏奇館」界隈、時間と空間/板坂剛*イビサの女/柳沢さうび*瑠璃と琥珀

 

 

お問い合わせは玄文社、genbun@tulip.ocn.ne.jpまで。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 石川眞理子『音探しの旅』を... | トップ | 諏訪哲史『偏愛蔵書室』(1) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

玄文社」カテゴリの最新記事