このほど玄文社主人の文章が、アジア文化社の総合文芸誌「文芸思潮」85号に掲載されたので、紹介します。
この号の目玉は「文芸評論の危機」と題した特集で、中でも井口時男氏を司会役とし、若手批評家4人が発言する座談会「文芸評論の現状ー危機と打開」が面白いと思います。
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では長いですが、お読みください。
批評と亡霊
小学生の時からよく本を読む少年だったが、本当に文学に目覚めたのは、中学生の時、母方の祖父の家にあった屋根裏部屋の本棚に、ドストエフスキーの『死の家の記録』を見付けて読み、さらに『罪と罰』を読んで大きな衝撃を覚えてからだった。それからは文学というものが自分の中で最も大きなテーマとなった。中学時代はものを書くということはなかったが、高校生になってからは友人と回覧雑誌を作ったりして、書くことを始めていた。高校時代には部員でもなかったのに、文芸部の雑誌に三年続けて批評文を寄稿した。気がついたら詩でもなく、小説でもなく、文芸批評のようなものを書くようになっていたわけで、それがどうしてだったのか自分でもはっきりとは分からない。
しかし、それが当時一世を風靡していたジャン=ポール・サルトルの実存主義といわれるものの影響であったことは確かだ。当時日本でも実存主義が蔓延していて、ありとあらゆるものが実存主義と関連付けられていたが、今になって思えば実存主義を謳えばどんな本でも売れたのであって、おかげでサルトル周辺の本をよく読まされたのだった。高校生でサルトルが理解できたとは思えないが、その文学作品に対するアプローチの仕方に興味があった。『存在と無』は分からなくても、『シチュアシオン』の方はそうでもなかったのだ。
小林秀雄に代表される日本の文芸批評もよく読んだ。小林秀雄だって高校生に分かるはずもないが、やはりその文学作品に対する接近の仕方が、私の体質によく合っていたのだと思う。中原中也のことを書く批評家としての大岡昇平などの著作に触れたのもこの頃のことである。しまいには、小説や詩作品そのものよりも、それを論じた批評作品の方を量的にも多く読むようになる、という転倒に陥ってしまうことにもなった。
世の中には小説も書けば批評も書くという器用な人もいるが、私にはそんなことはできない。今までに詩を一篇だけ書いたことがあるが、それ以外は批評しか書いたことがない。文学のあらゆるジャンルの中で、最も読まれることの少ないであろう文芸批評というものを、ほんの一握りの読者に向けて、五十年以上書き続けてきたのだった。他に何も出来ないのだから、そのことを後悔したこともない。今日、文芸批評の終焉ということが言われようが言われまいが、私には関係のないことだと思っている。
文芸批評については、他人の書くものをあげつらって気楽なものだと思われるかも知れないが、そんなことはまったくない。私は大学を卒業してから家業を継いで実業の世界に入ったが、批評の理念と実業の理念とが、自分の中でことごとく対立し合うという体験を日々強いられていた時期がある。文学書を読んで考えることと、実業の世界で考えなければならないこととが、いつでも背理の関係に置かれて、深刻な分裂に曝されることになるのだった。それは、批評が考えることが、直接人生に関わるものではないということに依っているのかも知れない。批評は他者の作品を通してしか人生に触れることができないのだから。
社会人になってから「北方文学」という同人雑誌に参加して書くことを続けてきたが、批評ということに関わった友人たちが、二十代から三十代そこそこで次から次に死んでいくという苛酷な体験もあった。自殺もあれば、事故死も、癌死もあったが、彼らの批評行為はぎりぎり観念的なもので、生活の課題と思想的な課題との間で葛藤を続け、生き抜くことができずに次々と斃れていったというのが真実に近い。自分もまたそうした苦闘を抱えていたので、彼らの死は私に甚大な危機をもたらした。私は死んだ友人たちの霊に取り憑かれてしまったのである。
そんな中、私はかろうじて生き延びたのだが、批評行為を続ける中で、彼らが抱えていた本質的な生きづらさに直面することを強いられた。批評というものは、「書くことは生きることだ」というような楽観主義とは無縁の表現行為である。表現行為が「作品」を通してしか文学について語り得ないということは、それが主観的であれ、客観的であれ、生きることの等価物ではあり得ないということを意味している。
私はそんな苦渋に満ちた行為を「表現論的倒錯」と呼んだこともある。あるいはそれは「倒錯」そのものであったかも知れない。私は「倒錯」の反対概念としての「健常」が、社会的または歴史的な概念にすぎないことを逆手にとって、「倒錯とは倒錯からの快癒の運動である」というテーゼを立てて開き直り、そんな苦境を乗り越えようとしたのだった。
批評は人に思想的なテーマや哲学的なテーマに向き合うことを必然化させるが、そんな中で批評主体はどんどん内省的になっていく。あらゆる表現行為の中で、批評ほど内省的、あるいは内向的な行為はないということも言える。批評は一人称でしか書かれ得ない唯一の表現行為である。客観的な論述のように見えても、その裏には「……と私は思う」とか「……と私は考える」という発言が隠されている。だから批評家が小説を書くと、どうしても私小説的な方向に傾きがちになる。〝私〟という意識が、世界で唯一無二のものであるというのが、批評の本質的な認識であるからだ。
私は特別に批評理論を学んだこともないし、特定の思想に立脚した批評を行ってきたのでもない。またさまざまな文芸批評家と呼ばれる人々の本を読んできたにしても、特定の批評家に支配的な影響を受けたこともない。ただ作品を通して自分の考えていることを発言してきただけである。しかし、私には最初からテキストクリティックという習性が染みついていたように思う。
私はロラン・バルトの『作者の死』を読んだこともないから、作品を作者の伝記的事実に還元してはいけない、というような理論を意識的に採用してきたわけでもない。ただ私には作者の残した伝記的な痕跡に興味が持てなかっただけのことだ。だから私にとっては、江藤淳のような批評家が最も苦手な存在であって、夏目漱石が嫂に懸想していたとか、肉体関係があったとかいう推測に、何の興味も湧かないし、そうした事柄が作品そのものに大きな影を落としているなどという主張に同意することがまったく出来ないのである。
私にとっては、作品にテキストとして書かれていることがすべてであって、分析の対象はそこに収斂される。その時作者というものは私の視界から消え失せるのであり、消え失せることこそが作者というものの特権でさえあると私は思う。先日「北方文学」も共催者として名を連ねた、柏崎市の游文舎での講演会で、詩人の高橋睦郎氏は「僕は詩人というものは、本来、いろんなことに対して精神的に盲目でなければならない。実際に眼を開いてものを言うのは作品であって作者ではない」と語っていた。世界に対して開かれているのは作品であって、作者ではない。それは詩であろうが、小説であろうが同じことである。
テキストはまた、過去や同時代のテキストと共鳴したり反発したりするが、そこにテキストとテキストの間の磁場が形成される。そうした磁場に分け入ることもまた批評の使命であるし、それもまた作者が要請するのではなく、作品が要請するのである。その要請に従うことは、テキストとテキストとの関係が繰り広げる、広大で豊饒な世界と向き合うことであり、それは作者の人間性などに対する探究よりも遙かに有意義なものだと私は確信している。
私はこれまで、作家論的なものを書いたことがない。特定の好きな作家は何人かいるが、その作家の生涯を辿るとか、彼の実生活と作品との関係について追求したりするということに、興味が持てないからだ。だから私の書いてきたものはほとんど作品論に偏っているのである。私の中で作者というものは、批評を書き始めた時にはすでに死んでしまっていたのかも知れない。そしてテキストに対する強いこだわりは、言語そのものに対するこだわりにつながっていく。
言語というものに直接こだわり始めたのは、ソシュールの言語学に触れてからだったと思うが、それはレヴィ=ストロースの『野生の思考』を読んだことがきっかけになっている。『野生の思考』にはソシュールの言語学が大きな影を落としているのである。物事を通事的にではなく共時的に捉えることは、ソシュールの考えに沿っていたし、それが未開民族への偏見の払拭を可能としたのである。それはまたマルクス主義的な進歩史観への根源的な批判でもあった。私はマルクス主義の影響を受けたことはないが、サルトルの実存主義はその裏に教条的なマルクス主義を隠し持っていた。レヴィ=ストロースの『野生の思考』巻末のサルトル批判は、高校生の時から囚われていたサルトルの思想から、私を決定的に解放してくれる議論であった。
社会人になってから『野生の思考』を読んだことは、私にとって最も大きな事件であった。サルトルの思想の呪縛から解放され、生活と文学の矛盾に囚われていた私は、この本によってはじめて精神的な解放感を味わうことになった。とたんに生きることがそれほど苦痛ではなくなったのも事実である。また書くことへの信頼を取り戻してくれたのも『野生の思考』だったのであり、この本によって私の周りに取り憑いていた死者たちの影も随分と薄らいできたのだった。
こうしてレヴィ=ストロースの導きによってソシュールの言語学に触れることになるのだが、ソシュール自身は著作を残しておらず、ソシュール自身のテキストというものはほとんど存在しない。だから弟子たちの残した講義録や日本における祖述者たちの本によって、基本的なソシュール言語学の概略を理解していくしかなかったが、重要なところは理解できたように思う。その後私はヴァルター・ベンヤミンの「言語一般および人間の言語について」という論考に取り組むことになり、彼がソシュールとほぼ同時に言語の本質を捉えていたことを知った。そして、この短い論文こそが私の言語観を決定的なものにしたのだった。
「われわれはどのような対象にも言語のまったき不在を表象しえない」とか、「どの言語も自己自身を伝達する」といった一節は、論理の飛躍の中に言語に対する奥深い真理を孕んでいた。私は精神現象が物質的なものの解明によって説明されるとする、自然科学者たちの一元論的な議論に対して反論すべく、ベンヤミンの言語論を中心に据えて、『言語と境界』という理論的な本を五年前に書いた。これが私の最新の著書となっている。これからもベンヤミンを通して得た言語観が、私の批評の中核をなすことだろう。
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