イマリーとメルモスの“愛の物語”はインドからスペインのマドリッドへと舞台を移して、なおも続いていく。イマリーは孤島から救出され、父母の元へ帰り、名前もイシドーラと変わっている。
メルモスとイシドーラの物語は「グスマン一族の物語」と「恋の物語」をはさんで、さらにその帰結は先送りされるのだが、その直前にイシドーラとメルモスの婚礼の夜を描いた部分がある。イシドーラはメルモスに結婚を迫り、メルモスは修道院の廃墟で婚礼の式を挙げるべく、イシドーラを母親の元から拉致し、夜の闇へと進んでいく。
この“道行き”の場面、メルモスは恐怖のうちにイシドーラを支配しようとし、イシドーラが不安と恐怖に駆られていく場面に、またしても私はある作品のある部分を思い出さずにはいられなかった。
その作品とは、ロートレアモン(イジドール・デュカス)の散文詩『マルドロールの歌』であり、その部分とは「第六歌」マルドロールが愛するメルヴィンヌ(少年である)を母親の元から誘惑し、拉致する場面である。
一方は怪人と彼を愛する娘であり、もう一方は同じく怪人(怪物と言った方がいいか)とその同性愛の対象であるメルヴィンヌという違いはあるが、その道行きは恐怖の相貌において共通している。そのことは『ロートレアモン全集』(筑摩書房版)の翻訳者・石井洋二郎もその詳細な注の中で指摘している。
細かい部分まで状況設定が似ていることも石井は言っているが、今はそれを確かめている余裕はない。いずれ『マルドロールの歌』を取り上げるときに確認することにしよう。
しかし明らかにここは、デュカスが『放浪者メルモス』の影響を受けていたことを証拠立てる部分であり、もともとマルドロールという怪物の「人物造形」(怪物造形?)自体が、放浪者メルモスを下敷きにしているということを抜きに語れるものではない。
このようにマチューリンの『放浪者メルモス』は、後の作家・詩人、それも偉大な作家・詩人の作品に大きな影響を与えた作品なのである。
『ロートレアモン(イジドール・デュカス)全集』(2001、筑摩書房)石井洋二郎訳
メルモスとイシドーラの物語は「グスマン一族の物語」と「恋の物語」をはさんで、さらにその帰結は先送りされるのだが、その直前にイシドーラとメルモスの婚礼の夜を描いた部分がある。イシドーラはメルモスに結婚を迫り、メルモスは修道院の廃墟で婚礼の式を挙げるべく、イシドーラを母親の元から拉致し、夜の闇へと進んでいく。
この“道行き”の場面、メルモスは恐怖のうちにイシドーラを支配しようとし、イシドーラが不安と恐怖に駆られていく場面に、またしても私はある作品のある部分を思い出さずにはいられなかった。
その作品とは、ロートレアモン(イジドール・デュカス)の散文詩『マルドロールの歌』であり、その部分とは「第六歌」マルドロールが愛するメルヴィンヌ(少年である)を母親の元から誘惑し、拉致する場面である。
一方は怪人と彼を愛する娘であり、もう一方は同じく怪人(怪物と言った方がいいか)とその同性愛の対象であるメルヴィンヌという違いはあるが、その道行きは恐怖の相貌において共通している。そのことは『ロートレアモン全集』(筑摩書房版)の翻訳者・石井洋二郎もその詳細な注の中で指摘している。
細かい部分まで状況設定が似ていることも石井は言っているが、今はそれを確かめている余裕はない。いずれ『マルドロールの歌』を取り上げるときに確認することにしよう。
しかし明らかにここは、デュカスが『放浪者メルモス』の影響を受けていたことを証拠立てる部分であり、もともとマルドロールという怪物の「人物造形」(怪物造形?)自体が、放浪者メルモスを下敷きにしているということを抜きに語れるものではない。
このようにマチューリンの『放浪者メルモス』は、後の作家・詩人、それも偉大な作家・詩人の作品に大きな影響を与えた作品なのである。
『ロートレアモン(イジドール・デュカス)全集』(2001、筑摩書房)石井洋二郎訳
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