玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(8)

2015年04月03日 | ゴシック論
 しかし、悪党の議論はそれほど論理的なものでもないし、かなり乱暴な部分もある。本当にドストエフスキーに影響を与えたのだとしたら、それは放浪者メルモスの人物造形と、彼自身が行う議論によってでなければならない。先に進む必要がある。
 放浪者メルモスが真に姿を現すのは小説の後半部分においてであり、「印度魔島奇譚」に始まるイシドーラの物語の中で初めてメルモスは自身を語り始める。スペイン娘イシドーラは最初、インドの孤島に置き去りにされた孤児イマリーとして登場し、放浪者メルモスは彼女の傍らに出現する。
「見知らぬ人影は近寄って来た。美神の方からも近づいて行ったが、ヨーロッパの麗人の如く腰低く雅びの礼をするのでもなく、いわんや印度人の娘の如く額手の低い礼をするのでもなく、ほとんど唯一の仕草の裡に活気と逡巡、自信と怯懦の情を表し、一頭の若い雌鹿の如くであった」
 イマリーは自然児であった。無人島で動植物たちと暮らしてきた彼女は、初めての人間、放浪者メルモスと出会う。そしてメルモスはイマリーに“知”を吹き込んでいく。
「イマリーは少しの間、何の言葉も返さなかったが、何かを考え込むという事を生れて初めて経験しているかの風情であった――ものを考えるという事は(中略)何たる痛苦に満ちた苦役である事か」
 無垢のイマリーはこうして考えることに目覚め、そのことの苦しさを知っていく。放浪者メルモスはここでエデンの園におけるアダムとイヴに対する“知”への誘惑者としての役割を果たすのだが、それはなぜか? 放浪者メルモスこそが考えることの苦痛を体現しているのであり、メルモスは彼女を誘惑することでその苦しさを無垢の乙女とともに分かち合いたいという衝動に駆られているのである。
 しかし、その衝動は矛盾に満ちている。メルモスがイマリーに“知”を吹き込めば吹き込むほど、イマリー自身は無垢のままでいることができないからである。だが考えるということは苦しいことだけなのではない。イマリーはそのことも知っていく。
「あの人が言っていることが分かって来たわ――考えるっていうことは苦しむことなのね――考えの世界ってきっと苦しみの世界なんだわ! でもこの涙、なんて気持がいいのかしら! 今までは泣くのは愉しいからだった。でも今では愉しさよりも甘い苦しみを知っているのだわ」
 イマリーは“甘い苦しみ”のなかでメルモスを愛し始める。イマリーとメルモスの愛の物語の始まりである。


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