E・T・A・ホフマンの作品を“ゴシック的”と言うことはできない。ホフマンは“ゴシック的”というよりも、ドイツロマン派の多くの作家の作品がそうであるように“メルヘン的”な作品を主に書いた作家である。
しかし『悪魔の霊酒』だけは例外的に“ゴシック的”と言う他はない。なぜならホフマンは『悪魔の霊酒』をあのマシュー・グレゴリー・ルイスの『マンク』の影響のもとに書いたのだからである。
修道士が悪徳の主人公であるという設定も同じ、スペインとドイツの違いはあれ、どちらも舞台をカプチン会修道院としているところも同じ、情欲に狂った修道士が殺人を犯すところもそっくりだし、近親相姦まがいの男女関係はあるは、幽霊の出現はあるは、『悪魔の霊酒』はホフマン版『マンク』に他ならないのだと言ってもよい。
『マンク』の影響のもとに書かれたという証拠は、今挙げた両作品の類似に求められるが、ホフマンは女主人公アウレーリエの書簡の中で、彼女が兄の部屋で『マンク』の翻訳本を見つけて読む場面を描いて、自らその影響を暴露してもいる。
『マンク』が悪徳の主人公アンブロシオの熱狂的な説教の場面から始まるように、『悪魔の霊酒』もまた、主人公メダルドゥスが町を宗教的狂熱に陥れんばかりに能弁な説教を行う場面を巻頭近くに設定している。
この場面については訳者深田甫の訳註が付いていて、なぜかこの註がまったく『マンク』に言及していないことに疑問を感じないわけにはいかない。ツァハリアス・ヴェルナーであるとか、ジロラモ・サヴォナローラであるとか、歴史上の修道士には言及するが、『マンク』のアンブロシオにはまったく触れていないのである。
訳者の深田甫は多分ルイスの『マンク』を読んでいないとしか考えられない。解題ではルイスの『マンク』に触れているのに、なんということだろう。昔の学者さんは自分の専門以外の国語の作品を読まなかったのだろうか。
それに、深田甫の訳註は衒学的に過ぎていけない。「霊酒」Elixirについての訳註が最初にあるが、それだけで文庫本で3頁もある。ホフマンを読むときに衒学的な解説は不要である。
エルンスト・テーオドール・アマデーウス・ホフマン『悪魔の霊酒』上下(2006年、ちくま文庫)深田甫訳
しかし『悪魔の霊酒』だけは例外的に“ゴシック的”と言う他はない。なぜならホフマンは『悪魔の霊酒』をあのマシュー・グレゴリー・ルイスの『マンク』の影響のもとに書いたのだからである。
修道士が悪徳の主人公であるという設定も同じ、スペインとドイツの違いはあれ、どちらも舞台をカプチン会修道院としているところも同じ、情欲に狂った修道士が殺人を犯すところもそっくりだし、近親相姦まがいの男女関係はあるは、幽霊の出現はあるは、『悪魔の霊酒』はホフマン版『マンク』に他ならないのだと言ってもよい。
『マンク』の影響のもとに書かれたという証拠は、今挙げた両作品の類似に求められるが、ホフマンは女主人公アウレーリエの書簡の中で、彼女が兄の部屋で『マンク』の翻訳本を見つけて読む場面を描いて、自らその影響を暴露してもいる。
『マンク』が悪徳の主人公アンブロシオの熱狂的な説教の場面から始まるように、『悪魔の霊酒』もまた、主人公メダルドゥスが町を宗教的狂熱に陥れんばかりに能弁な説教を行う場面を巻頭近くに設定している。
この場面については訳者深田甫の訳註が付いていて、なぜかこの註がまったく『マンク』に言及していないことに疑問を感じないわけにはいかない。ツァハリアス・ヴェルナーであるとか、ジロラモ・サヴォナローラであるとか、歴史上の修道士には言及するが、『マンク』のアンブロシオにはまったく触れていないのである。
訳者の深田甫は多分ルイスの『マンク』を読んでいないとしか考えられない。解題ではルイスの『マンク』に触れているのに、なんということだろう。昔の学者さんは自分の専門以外の国語の作品を読まなかったのだろうか。
それに、深田甫の訳註は衒学的に過ぎていけない。「霊酒」Elixirについての訳註が最初にあるが、それだけで文庫本で3頁もある。ホフマンを読むときに衒学的な解説は不要である。
エルンスト・テーオドール・アマデーウス・ホフマン『悪魔の霊酒』上下(2006年、ちくま文庫)深田甫訳
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます