玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

スタンダール『パルムの僧院』(1)

2019年07月31日 | 読書ノート

 古典探索のリストからスタンダールをはずしたのは、『赤と黒』を最近読み返していたということもあるが、フローベールのような今までほとんど読んだことのない作家の作品を優先したかったからである。

 しかし、『ボヴァリー夫人』を読んで、私はフローベールに幻滅してしまった(『三つの物語』で持ち直してきているが)ので、スタンダールのもう一つの代表作『パルムの僧院』を無性に読み返したくなってしまった。

『パルムの僧院』は若い時に読んで、なんといってもあの冒頭のワァテルローの戦場で、主人公ファブリスが右往左往する場面、戦場の混乱と騒擾の中に主人公をいきなりぶち込んで、揺さぶってみせる場面が鮮烈に記憶に残っている。

 そういう意味では心理小説として繊細な男女の愛情の機微を描く『赤と黒』よりも、『パルムの僧院』のほうが強いインパクトを持っていることは確かであって、どちらが名作かといわれれば、私は『パルムの僧院』のほうを挙げるだろう。

 いずれにしても、ナポレオンが敗北した最後の戦い、ワァテルローの戦場の場面だけでも『パルムの僧院』は名作中の名作に数えられるだろう。そのスピード感溢れる文章のリズム、そして戦場を俯瞰して全体を神の視点から捉えるのではなく、一主人公の視点で、混乱を混乱のまま描いていく臨場感は他に類例を見ない。

 もし似たものがあるとすれば、スタンダリアンであった大岡昇平の『レイテ戦記』の冒頭、アメリカ軍上陸部隊による艦砲射撃で、日本兵が破壊されていく場面くらいしか思い浮かばない。大岡昇平もこの場面を自分で体験したわけではなく、スタンダールだってワァテルローの戦いを自分で体験したわけでもないのに、これ以上はないくらいの臨場感で描いている。こういうところに文学の力を感じないではいられないのである。

 すべてはイタリア人貴族の子でありながらも、ナポレオン・ボナパルトを崇拝し、無謀にもワァテルローの戦いに参入するファブリスの行動から始まる。またこの小説はミラノの舞台から始まるから、ファブリスはミラノからパリ経由で、現ベルギーのワァテルローまで歩いて行ったことになる。

 それだけでも無謀だが、武器も持たず、所属する部隊のあてもなく、だれ一人知った人間もいないのに、ファブリスは戦いの渦中に飛び込んでいく。当然フランス軍の士官にも、従軍酒保の女にも馬鹿にされるだけだ。

 この従軍酒保の女が登場する場面が、最初読んだ時に強烈なイメージとして残った。従軍酒保というからには軍に雇われて商売しているのだろうが、この女は戦場を馬車で駆け回って、兵士たちのご用を聞いて歩くのである。本当にこんな女がいたのだろうか。だとすれば19世紀の戦争というものは、なんとのどかだったのだろうという感想を抱いてもおかしくない。

 そしてファブリスはこの女に馬鹿にされながらも、戦場での行動のあり方を教えてもらう。「いますぐ戦争がしたい」というファブリスを、酒保の女はなだめすかし、死体を目にして失神しそうなファブリスにブランデーを飲ませ、馬の調達まで面倒を見てやるのだ。

 戦場に紛れ込んだ子供のようなファブリス(このとき16歳という設定)に愛情を持って接する従軍酒保の女の存在から、この小説の展開が見えてくる。つまりファブリスは直情径行の純情極まりない青年であり、これから多くの女たちに愛されていくのであろうという展開である。

 とにかく、この戦場の場面でファブリスの性格が余すところなく描き尽くされていく。馬鹿と紙一重だが、誰もが、とくに女たちが愛さずにはいられない性格の持ち主なのである。『パルムの僧院』はしかし、戦争を描いた小説ではない。むしろ、イタリアの小国パルム公国における権力闘争の犠牲となって、牢獄に繋がれる青年の物語であり、三人の女性の彼に注ぐ愛情を描いた小説なのである。

 そんな小説がいきなり、ワァテルローの戦いの混乱の場面から始まるのはまったくの驚きだが、主人公を紹介する上でこの上もなく効果的だったと言えるだろう。

スタンダール『パルムの僧院』(1967、河出書房「世界文学全集」Ⅱ―3)生島遼一訳

 


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