鈴木は「抵抗する身体」ということを言うが、他者の言語に蹂躙されつつも、なおかつ残される中核の部分をそう名付けてもいいだろう。しかし、身体はそれ自体では思考され得ぬものなのであり、誤解を生じかねない表現ではある。それを私なりに言うならば、それはエルヴィン・シュレーディンガーが言った、単数形でしか存在し得ないものとしての「私」の意識ということになろう。
こんなことを書いているといつまでも序文から抜け出せないので、鈴木が序文の最後に書いている一節を引用して、序文からの脱出を図ることにしよう。
「芸術は消え失せ、分身は残る。分身の歴史は禁断のモンタージュであり、歴史の言いそこなった断片でもある。それは書かれなかったのだ。私は分身を、幾人かの量子物理学者にとつて反物質がそうであるように、絶対的実在と見なしている。
本書におさめたエッセー群は分身のとりあえずの実験である。書かれたもの、描かれたもの、撮られたもの……等々は、そもそも分身による実践である。
それで分身入門である。
まずは私自身が入門するというわけだ。分身入門にはじまるものがあるのだ」
ほら、量子物理学のことが出てきたでしょう。反物質のことが話題になっているので、少しずれてはいるが、私が理論物理学者シュレーディンガーを持ち出す理由を分かってもらえればいい。20世紀において、量子物理学が認識論に与えた影響には大きなものがあったのである。鈴木は別の場所でゲーデルの不完全性定理にも触れているが、数学は物理学に直接隣接する学問である。
とりあえず、分身は反物質のように実在し、芸術は消え失せても分身は残るのである。考えてみれば、情報というものもまた反物質なのであり、つまりは分身は情報として反物質的に永続するというわけだ。それが現代にあって、文学や芸術がおかれた条件なのであり、鈴木は序文でそのことを宣言しているのである。
さて、ところでこの本は哲学的な論文集であるわけではない。様々な雑誌に掲載された文学や映画、音楽についてのエッセイを集めた本である。しかし、それらはすべて序文に表明されたスタンスに貫かれて書かれている。私は今まで、日本の書き手による作品ではこのような試みに出会ったことがない。それほどに鈴木の試みは画期的であるのだ。
「私の記憶違いなのか。そんな馬鹿な。何度となく通ったはずの道だ。間違うことなどあるはずがない。百歩譲って、それでも別の道を通ったということもあるかもしれない。だが近くにもう一本道があるなどとは気づきさえしなかったし、ありそうもないことだった。別々の自分がそれぞれ違う道を歩いていたのだろうか。だがそのたびにそこを歩き、その道のことをとりとめもなく思っていたのはそのときの「私」ただひとりだったのだし、そのことに考え及んだことすらなかった。そのつど歩いていたのはいずれにしてもひとりの、この自分である」
第Ⅰ部「言葉、分身」の最初のエッセイは「誰でもない人――異名としてのフェルナンド・ペソアを讃える」と題されているが、直接にペソアについて語る部分は少なくて、主に鈴木自身の散歩、そして散歩しながら考えたことの文章化になっている。
しかし、誰が、何について考えるのか? この自問自答のような文章にあっては、自分について考えることさえ問題とされてはいない。むしろ分身が「私」について考えること、あるいは「私」が分身について考えること、そして分身が分身について考えることに尽きているのである。
だからこれはペソア論ですらないのだから、私がフェルナンド・ペソアについて何も知らなくてもほとんど関係がない。私は鈴木と鈴木自身の分身の思考を追っていくことができるだけなのである。
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