玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(1)

2017年11月24日 | 読書ノート

 先月ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』を読んで、久しぶりにこの作家は私の生理にとても合っているという確認ができたので、一度読みかけて中断していた『金色の盃』に再度挑戦し、講談社文芸文庫で上下二巻、総頁数1,150もある大長編を読み終えた。
 これでヘンリー・ジェイムズの後期長編三部作を征服したことになり、私にとって記念すべき読書体験となった。一番最初に読んだのが、『鳩の翼』、二番目が『使者たち』、次いで『金色の盃』ということになり、出版順に読んできたことになる。
『鳩の翼』が1902年(作者59歳)、『使者たち』が1903年(60歳)、『金色の盃』が1904年(61歳)で、いずれも大長編を年に一作ずつ発表し続けたということが信じがたい。執筆年は『鳩の翼』よりも『使者たち』の方が早かったようだが、いずれにせよこの三部作はお互いによく似ているし、心理小説としての完成度をとっても、どの作品も優劣つけがたいものがある。
 しかし、ある意味でヘンリー・ジェイムズの後期三部作ほど、読みづらくて退屈な小説はないのかも知れない。それは『ワシントン・スクエア』と較べてみるとよく理解できる特徴である。
『ワシントン・スクエア』では、地の文と会話文との比率は二対一くらいなのに対して、後期三部作ではそれが二〇対一くらいに拡大している。特に最後の『金色の盃』はその落差が大きくて、ちゃんと計測すれば三〇対一くらいになるのではないか。
 ヘンリー・ジェイムズにおける地の文というのは、他の多くの小説におけるような地の文とは性質を異にしている。多くの小説にあって地の文は登場人物たちの行動や、情景描写について費やされるものであるが、ヘンリー・ジェイムズの地の文には人物の行動が描かれるわけでもないし、情景描写などはほとんど行われることがない。
 では何があるのかと言えば、ひたすら延々と続く登場人物たちの心理分析だけがあるのだ。ヘンリー・ジェイムズの小説はジャンルとして括れば、「心理小説」と呼ぶしかないものであり、彼は小説が進行する場所であるとか、空間であるとかにはまったく無関心を貫き通すのである。
 だから小説に躍動的なストーリーを期待する読者にとって、ヘンリー・ジェイムズの小説はまったく退屈きわまりない小説として受け取られざるを得ないことになる。
 ジェイムズの小説が今日読者を失っているとすれば、その主な要因はそこの所にこそあると言わなければならない。しかし、ヘンリー・ジェイムズの主要な作品を訳し続けてきた青木次生によれば、ジェイムズの作品の出版部数は1000~1500でしかなかったようで、もともと多くの読者に受け入れられるような作品ではなかったのである。
 心理分析としての地の文の長大さは心理小説の本家であるフランスの有名作品のそれを、はるかに凌駕している。私が考えているのはラ・ファイエット夫人の『クレーヴの奥方』、スタンダールの『赤と黒』、そして言うまでもなくレイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』と『ドルジェル伯の舞踏会』である。
 心理小説が退屈な理由はその図式的な構造に求められるのだが、私が挙げたフランスの小説もそうしたそしりを免れていない。我が国の心理小説の代表作である漱石の『明暗』が、「拵えもの」との批判を受けたことを思い出せばよい。
 しかもヘンリー・ジェイムズの作品は、フランスの心理小説における心理分析をはるかに超えたものであり、その図式的構造も本家をはるかに上回っている。ラ・ファイエット夫人もスタンダールもラディゲも、心理分析に会話文の20から30倍の分量を与えるようなことは決してなかったからである。

ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(2001、講談社文芸文庫)青木次生訳


 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿