「願わくば、「ユードルフ」や、「オトラント城」や、「アッシャー家」の神秘劇の力強い脅威が動員されて、このかよわい調べに、彼等の因縁、彼等の亡霊、彼等の死棺が持ち続けてきた呪詛の少しでもが伝えられんことを。著者は、これらの神秘劇がいつも著者の上に滾々と注いでくれた魅惑に対し、明らかに意識的な敬意を捧げることしか出来ないであろう。」
以上のようなゴシックへのあからさまな偏愛の言葉を読むことが出来るのは、フランスの作家、ジュリアン・グラックの『アルゴオルの城』に付された1938年の日付のある序文「読者への言葉」の末尾においてである。
『アルゴオルの城』は原題がAu château d'Argol。「アルゴオルの城で」とか「アルゴオルの城にて」と訳すべきで、岩波文庫版の安藤元雄訳では『アルゴオルの城にて』となっている。私が参照しているのは1970年の現代出版社版、青柳瑞穂訳で、このいささか苦し紛れの翻訳を使わざるを得ないことは少し残念なことである。
ジュリアン・グラック(1910-2007)は、本国ではフランスを代表する作家の一人とされているが、日本では今日ほとんど読まれない作家である。グラックはシュルレアリスムの作家と見なされているが、しかし"シュルレアリスム小説"というものがあるとして、それがいったいどんなものを意味しうるのか私には分からない。
アンドレ・ブルトンのシュルレアリスムが"オートマティスム"ということをテーゼとしたのであれば、"シュルレアリスム詩"というものはあり得ても、自動筆記によって書かれた小説などというものがあり得るはずもないからである。
シュルレアリスムの理論的なマニフェストとしての意味を含んだ、ブルトンの『ナジャ』ならばシュルレアリスム小説と呼びうるだろうが、ジュリアン・グラックの『アルゴオルの城』がシュルレアリスム小説であるなどとは、私は考えない。それがいかにブルトンによって評価された小説であるとしても……。それはせいぜいのところ、シュルレアリストによって好まれた小説というくらいの意味しか持ってはいない。
グラックの「読者への言葉」が明らかに示しているように、『アルゴオルの城』は『ユドルフォの謎』や『オトラント城奇譚』、『アッシャー家の崩壊』の系譜につながるものであって、むしろゴシック小説と呼んで差し支えないものと私は思う。
第一にこの小説はアルゴオルという古城を舞台にしているのだし、その城は迷宮のように入り組んでいて、その迷宮が小説のプロットにおいて重要な役割を果たしているのだから。
そしてまた、城の近くにある墓場の存在もゴシック的であって、そこに主人公のアルベエルが発見する「ハイデ」という墓碑銘が、ゴシック小説特有の"謎"を惹起し、最後にその謎が解明される(というよりも、この小説のプロットがその謎の中に収斂していくと言った方がいい)のも、ゴシック的な仕掛けに他ならない。
さらにアルベエルが、彼の分身とも言うべきエルミニヤンの所持品の中に発見する銅版画は、ピラネ-ジの作品に似ているだろう。作者は次のように書いている。
「それはアルフォルタス王の苦痛を描いた図柄だった。途方もなく広大な寺院、その建て方が、どっしりとして、烈しく、神経的である点など、ピラネジイ(原文ママ)に似ていた。」
またこの作品にはピラネージの《幻想の牢獄》におけるように、拷問のための機具がアルベエルによって幻視される場面もある。ジュリアン・グラックがピラネージの作品を参照していた証拠である。
ただし、マルグリット・ユルスナールによれば、《幻想の牢獄》に描かれた機具はもともと拷問のためのものなのではないという。それは建築のための機具であって、見る者に拷問のための機具であるという錯覚を抱かせるだけなのである。しかし、ジュリアン・グラックがそこに拷問機具を見たとしても誰も責めることは出来ない。
ピラネージの作品は直接的にはイギリスのゴシック・ロマンス発祥に影響を与えたが、フランスのゴシックにも影を落としていることも指摘される。そのことはマルグリット・ユルスナールの『ピラネージの黒い脳髄』に見たばかりであるし、ペータースとスクイテンの『闇の国々』にも、ごく最近のものとしてみたばかりである。
ジュリアン・グラック『アルゴオルの城』(1970、現代出版社「20世紀の文学」7)青柳瑞穂訳
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