玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(1)

2018年05月23日 | ラテン・アメリカ文学

 長らく絶版になっていたチリの作家ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』が、水声社からようやく新版で刊行された。私がこの小説を初めて読んだのは、集英社版「世界の文学」によってだったから、それが出版された1976年以降ということになる。その時の印象は強烈に残っていて、その悪夢にも似た語りの奔流に押し流されそうになりながら、夢中で読んだことを覚えている。もう40年も前のことだ。
 私はラテンアメリカ文学の大傑作であると同時に、20世紀に書かれた小説の中でナンバー1とも言うべき、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』よりも先に、この『夜のみだらな鳥』を読んだはずで、私にとってのラテンアメリカ文学の第一歩であり、この作品によってラテンアメリカ文学の洗礼を受けたのだった。
 二度目に読んだのは1984年に同じく集英社から出た「ラテンアメリカの文学」の一冊として再刊されたときであった。このときはあまりきちんと読まなかったので、最初に読んだときの衝撃ほどのものはなく、その細部についてもきちんと確認しながら読むということもできなかった。
 今回は『夜のみだらな鳥』の鼓直訳による決定版となるであろうから、出たらすぐ買って読もうと心の準備に怠りはなかった。しかし、編集者の寺尾隆吉によると「原文と照らし合わせながら誤植の訂正等最小限の修正は施した」といった程度で、私が期待した全面的な改訳というものではなかったようだ。
 しかしこの作品が35年ぶりに再刊されるということは、ドノソのファンである私にとって非常に重要な意味をもっている。ドノソについては日本人の間でも熱烈なファンがいて、『夜のみだらな鳥』は伝説的な作品となっていた。とにかくドノソの最高傑作であるこの作品が読めないということは、日本人にとって非常に不幸なことであった。
 なぜこの作品が35年もの間絶版となっていて、古書で7,500円などという途方もない値段が付いていたのかが理解できない。水声社版が帯で言うように『夜のみだらな鳥』が「『百年の孤独』と双璧をなすラテンアメリカ文学の最高傑作」であることは間違いないことであり、『百年の孤独』と同じくらいに読まれてもおかしくないのである。
 しかしそうはならなかった理由がある。『百年の孤独』は架空の町マコンドを舞台に繰り広げられるブエンディア一族の物語であり、そこには小説を面白くするあらゆる手法やあらゆるエピソード、あるいはあらゆるイメージが詰め込まれているが、『夜のみだらな鳥』にそんな豊穣なものを期待しても無駄である。
『夜のみだらな鳥』には恐ろしいほどのエピソードが綴られているが、それらはある一定のイメージに収斂していく。そのイメージとは〝幽閉〟ということ、閉じこめるということに他ならず、『夜のみだらな鳥』のイメージは多用で豊穣であるというよりは、一様で執拗、そして何よりも暴力的なものであるのだ。
『夜のみだらな鳥』は『百年の孤独』に比べて、簡単にいえば極めてダーティーなので、一般の読者には向いていないのかも知れない。『百年の孤独』には歴史を突き抜けていく爽快感があるが、『夜のみだらな鳥』にあるのは、歴史からの逸脱と退行、そして執拗な圧迫感である。
 暴力的な描写といえば、この小説の主人公《ムディート》ことウンベルト・ペニャローサが、アスーラ博士の外科手術を受ける場面が挙げられるが、その部分を読んで真実吐き気をもよおす人もいるだろうことは想像がつく。そして『夜のみだらな鳥』全編はそのような場面を基調とするのであり、タフな神経を持っていなければ読み通すことすらできないかも知れない。
 だから『夜のみだらな鳥』は、イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』のように、まともな人間はその世界に近づくことすら許されない、真に異端の文学として位置づけられるのであり、もともとポピュラリティを約束された作品などではないのだ。

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(2018、水声社「フィクションのエル・ドラード」)鼓直訳


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