出口裕弘は何故にこの作品を“幻想小説”と位置づけたのだろうか? この小説には幽霊や悪魔など出ては来ないし、超常現象が起きるわけでもない。
もともとフランスは知性の国というだけあって、幻想文学の歴史の薄い国である。出口が挙げている10作品の中で純粋に幻想小説と言えるのはシュペルヴィエルの『沖の小娘』くらいのものではないだろうか。バタイユやブルトンの作品を幻想文学と規定するのはいかがなものかという気がするし、ボレルの作品は残酷文学ではあっても幻想文学ではない。デュカスもボードレールも幻想的な資質を持った人ではない。
ボードレールはアメリカのエドガー・アラン・ポーのゴシック小説をこよなく愛し、自ら翻訳を行うほどの偏愛ぶりだったが、本人は極めて明晰な詩作品と評論を書いた人だった。『悪の華』は確かに背徳的な詩集であるが、幻想的というよりも古典的な枠組みをはずれない。
戦後の日本にゴシック小説あるいは怪奇小説を本格的に紹介した平井呈一編集の「怪奇小説傑作集」全5巻(創元推理文庫)の中にフランス編1巻が含まれているが、他の巻、イギリス編2巻、アメリカ編、ドイツ・ロシア編とはいかにも趣が違うのである。そこに収録された作品をみれば誰でもそう思うだろう。フランスにはゴシック小説と呼べるようなものが存在しないのである。
ではなぜ出口は『アドリエンヌ・ムジュラ』を選んだのか。それはこの作品が心理に於いてゴシックであるからだと私は思う。舞台はムジュラ家のお屋敷、そこで父と娘との確執があり、父は娘に対し愛を禁じ、娘もまたそれに抵抗しながらも自らに愛を禁じていく。
禁じられた愛がアドリエンヌを奇矯な行動に導いていき、その行動故に愛は破綻し、アドリエンヌは狂気に陥っていく。この作品は『閉ざされた庭』The Closed Gardenという題名で英訳されているが、このClosedという言葉がゴシックの閉ざされた空間をよく表現している。
『アドリエンヌ・ムジュラ』にあっては、心理そのものが閉ざされた空間でゴシック風に展開されるのである。閉ざされた空間は閉ざされた心理のゴシック的隠喩なのである。
新庄嘉章による翻訳は極めつけの名訳であることを付け加えておく。
(この項おわり)
もともとフランスは知性の国というだけあって、幻想文学の歴史の薄い国である。出口が挙げている10作品の中で純粋に幻想小説と言えるのはシュペルヴィエルの『沖の小娘』くらいのものではないだろうか。バタイユやブルトンの作品を幻想文学と規定するのはいかがなものかという気がするし、ボレルの作品は残酷文学ではあっても幻想文学ではない。デュカスもボードレールも幻想的な資質を持った人ではない。
ボードレールはアメリカのエドガー・アラン・ポーのゴシック小説をこよなく愛し、自ら翻訳を行うほどの偏愛ぶりだったが、本人は極めて明晰な詩作品と評論を書いた人だった。『悪の華』は確かに背徳的な詩集であるが、幻想的というよりも古典的な枠組みをはずれない。
戦後の日本にゴシック小説あるいは怪奇小説を本格的に紹介した平井呈一編集の「怪奇小説傑作集」全5巻(創元推理文庫)の中にフランス編1巻が含まれているが、他の巻、イギリス編2巻、アメリカ編、ドイツ・ロシア編とはいかにも趣が違うのである。そこに収録された作品をみれば誰でもそう思うだろう。フランスにはゴシック小説と呼べるようなものが存在しないのである。
ではなぜ出口は『アドリエンヌ・ムジュラ』を選んだのか。それはこの作品が心理に於いてゴシックであるからだと私は思う。舞台はムジュラ家のお屋敷、そこで父と娘との確執があり、父は娘に対し愛を禁じ、娘もまたそれに抵抗しながらも自らに愛を禁じていく。
禁じられた愛がアドリエンヌを奇矯な行動に導いていき、その行動故に愛は破綻し、アドリエンヌは狂気に陥っていく。この作品は『閉ざされた庭』The Closed Gardenという題名で英訳されているが、このClosedという言葉がゴシックの閉ざされた空間をよく表現している。
『アドリエンヌ・ムジュラ』にあっては、心理そのものが閉ざされた空間でゴシック風に展開されるのである。閉ざされた空間は閉ざされた心理のゴシック的隠喩なのである。
新庄嘉章による翻訳は極めつけの名訳であることを付け加えておく。
(この項おわり)
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