玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(3)

2018年05月25日 | ラテン・アメリカ文学

 ホセ・ドノソのもう一つの代表作『別荘』を取り上げたときに、私はそれを基本的に「ゴシック小説」と定義づけた。それは物語が展開する場所がマルランダの別荘という閉鎖空間であるということ、そして地下の迷宮が設定されていて、そこが物語の展開にとって不可欠な空間となっていることによっている。
 ゴシック小説の第一の条件は登場人物を閉鎖空間に閉じこめるということ、あるいは迷宮の内部を彷徨させるということに尽きるからだ。そうした意味では『別荘』よりも『夜のみだらな鳥』の方がよりゴシック的であることは明白である。
 まず『夜のみだらな鳥』の物語は二つの閉鎖空間の中で展開するということ。一つは多くの老婆たちと孤児たちがそこで生活するエンカルナシオン修道院であり、もう一つは世界中の畸型たちが集められるリンコナーダの屋敷である。
 登場人物たちはそこに幽閉されるのであり、そこから出ていくことは禁じられている(例外があるが、後述)。老婆たちは修道院の持ち主であるアスコイティア家のイネス夫人の善意によってそこで暮らすのだとしても、そこから出ていこうなどという意志はまったく持っていない。むしろ修道院の内部でひたすら退行的遊戯に耽るのである。
 しかも修道院中の窓という窓は、この小説の主人公(あるいは語り手)である《ムディート》によって完全に塞がれているので、この修道院は外部というものをまったく持たない空間と化している。そのような空間でこれまたゴシック的で、おぞましいエピソードが繰り広げられていく。
 もう一つの閉鎖空間、リンコナーダの屋敷はアスコイティア家の当主ヘロニモが、畸型の息子《ボーイ》のために世界中から畸型を集めそこに幽閉する場所である。そこは《ボーイ》が自らの畸型に気づくことのないように、正常な人間を排除して作り上げる完全な閉鎖空間である。
 幽閉する、閉じこめるというイメージは一般のゴシック小説に溢れかえっているが、ドノソはそうしたイメージを修道院やお屋敷といった建造物のレベルに止めることをしない。それは最終的には肉体のレベルまで降りていくのであり、そこが18世紀に生まれ20世紀に至るまで命脈を保ってきたゴシック小説には、これまでなかった事態ではないだろうか。
 物語の最初から閉じこめるというイメージが全開となる。ブリヒダという老婆の一人が亡くなり、その遺品を調べているうちに、ベッドの下に発見される夥しい〝包み〟がそれである。

「あなたの目の前に現れるものはすべて、紐でくくられ、包みにされている。何かに、別のものに、くるまれている。開けたとたんにバラバラになるこわれ物。磁器のコーヒーカップの把っ手。最初の聖体拝領に使われた飾り帯の金モール。いずれもただ、何かをとっておきたい、何かを包みにしておきたい、紐でくくってちゃんと保存しておきたい、という欲望から大事に、大事にしまい込まれていた品物なのだ」

 しかし、それだけではない。〝包み〟はもっと象徴的な役割を果たしている。《ムディート》はそのことを知っている。彼は「包みにすることが問題なんで、中身はどうでもいいのだ」と思っているし、整理を進めようとするシスター・ベニータに対し、次のように思念の中で語りかける。

「シスター・ベニータ。この、じっと動かない、似たりよったりな物の集まりは、決してあなたにその秘密を教えようとはしないだろう。それはあまりにも残酷なことだからだ。あなたは到底、あなた自身やおれ、まだ生きている老婆や死んだ老婆たちのすべてが、要するに、これらの包みのなかの存在でしかない、という考えに絶えられないにちがいない」

このように〝包み〟は登場人物たちが閉じこめられている空間の象徴なのであるが、ホセ・ドノソは小説の最後でこの〝包み〟に包まれた人間というものを、なんと具現化してしまうのである。


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