玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(9)

2015年04月03日 | ゴシック論
 それにしても何という“愛の物語”だろう。イマリーはメルモスを、自分に知の世界、考えの世界を教えてくれた師として純粋に愛するが、メルモスの方はそうはいかない。
 メルモスはイマリーに残酷な世界像を、宗教をも含めた残酷な世界認識を提示していくが、そのような認識を持つ者に“愛”など許されてはいないのである。メルモスは「儂を憎め! 儂を呪え!」と言うことによってしか、イマリーに対する“愛”を語ることができない。メルモスは次のように自分自身を描いてみせる。
「憎むがよいぞ、おまえを憎んでいるこの儂だ――生あるものの悉くが憎い、死せるものの悉くがな。己も憎まれてあり、亦憎しみにも満ちたこの儂だ!」
 このようなアンヴィバレントな“愛”の形を、初めて歌ったのは『悪の華』の詩人シャルル・ボードレールである。マチューリンの描く“愛の物語”は『悪の華』におけるボードレール的な主体意識を完全に予告するものである。
『悪の華』には『放浪者メルモス』のイマリーとメルモスの“愛の物語”に、そのまま挿入してもおかしくないような恋愛詩編がたくさんある。たとえば、

 快活さにあふれた天使よ、君は知るか、苦悶を、
 恥辱を、悔恨を、むせび泣きを、倦怠を、
 そして皺くちゃにされた紙のように、心を圧しつける、
 怖気をふるうあの夜々の、漠とした恐怖を、
 快活さにあふれた天使よ、君は知るか、苦悶を?
                            (「恩寵」)

 ボードレールが『放浪者メルモス』を翻訳しようと思っていたことも知られている。ボードレールの詩編にマチューリンの直接的な影響を見ることは正しい見方である。ボードレールは放浪者メルモスの“笑い”についてこう書いている。
「そしてこの笑いは彼の怒りと彼の苦悩との不断の爆発なのだ。それは……人間に比べれば無限に偉大であり、絶対の「真実」または「正義」に比べれば無限に卑劣で低級な彼の矛盾した二重の本性から必然的に生まれる合力なのである。メルモスは生きた矛盾だ」
 ボードレールは“生きた矛盾”としての自分自身の姿を、放浪者メルモスの中に見ていたのである。「我ト我ガ身ヲ罰スル者」という作品は自己懲罰的な姿勢の中に、最も放浪者メルモスにふさわしい肖像を描いていると言ってもよい。

 僕は傷であり同時にナイフ!
 僕は平手打ちであり同時に頬!
 僕は四肢であり同時に刑車である。
 そして犠牲者であり同時に死刑執行人である!
  (「我ト我ガ身ヲ罰スル者」)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« C・R・マチューリン『放浪者... | トップ | C・R・マチューリン『放浪者... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ゴシック論」カテゴリの最新記事