『燃える平原』は17の作品からなる短編集である。どの作品にも過剰な暴力と悲惨な死が描かれている。それはフアン・ルルフォ自身が体験した、メキシコ革命以降の混乱の時代を反映している。
ウルグアイのオテロ・キローガの短編作品も、そのほとんどが死を描くか、死と関連した内容となっていた。しかし、キローガの作品が彼の個人的な体験を背景としているのに対して、ルルフォの方は社会的な背景を持っている。
キローガの作品に社会性や歴史的な視点がほとんど感じられないのに対して、ルルフォの作品にはそれが強く、あまりにも強く感じられる。17編の作品の中で繰り広げられる多くの暴力や悲惨な死が、メキシコの混乱期という歴史的な背景を持っているからである。
カルロス・フエンテスの『澄みわたる大地』にも、誰が味方で誰が敵かさえ分からないようなメキシコ革命の混迷が描かれていたが、フエンテスの視点は上級兵士に限定されていたのに対して、ルルフォの視点は下級兵士、あるいは革命に翻弄される民衆の視点が濃厚である。
『ペドロ・パラモ』もそうであるが、ルルフォの作品にはインテリ臭さがほとんど感じ取れない。苦難の中で生き、死んでいく民衆の視点で書かれている作品だというイメージが強い。
ルルフォは多分、自らの体験をもとに書くしかなかったのだと思う。実際にルルフォはメキシコの混乱期に、父や祖父、叔父達を失い、財産も失い、彼の住んでいた町や農場も焼き払われたという。
ラテン・アメリカの作家達の多くは生まれた国を離れて暮らし、ヨーロッパやアメリカの文学の影響下で、ある意味極めてインテリ的な作品を書いたのに対してルルフォの文学はそうではない。
彼が生涯にたった2冊の本しか書けなかった理由もそこにあるし、その2冊の本がラテン・アメリカ文学の中でも奇跡的な特異性を持っている理由もおそらくそこにあるのだろう。
しかし、私はルルフォが知的な作家ではなかったということを言いたいのではない。この『燃える平原』の中のいくつかの作品や『ペドロ・パラモ』のような恐ろしいほどの完成度を達成している作品が、優れた知性なしに書かれうるものではないことを知っているからだ。
私が言いたいのは、ルルフォの文学が他のラテン・アメリカの作家、たとえばアレホ・カルペンティエールやカルロス・フエンテス、ホセ・ドノソ、バルガス・リョサなどのエリート達(知的なエリートという意味であって、社会的な成功者であるということを意味しない)の文学とは決定的に違っているということにすぎない。
ルルフォは自分自身の体験から離れて書くことが出来なかった。他のラテン・アメリカの作家達とは違って、自身の体験以外の領域を取材して書くことも出来なかったし、想像力に遊ぶことも、ましてや完全な虚構を構築することも出来なかったのである。
ルルフォのような作家はだから、多くの作品を残すことが出来ない。しかし、『燃える平原』と『ペドロ・パラモ』のような奇跡的な傑作を残してくれただけで、我々には十分なのだと言わなければならない。
(この項以下保留)
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