玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(18)

2015年09月10日 | ゴシック論

「巨人」は1979年に書かれた作品で、その2年前1977年には「堕天使」という作品が書かれている。非常によく似た作品で、主人公もKという記号として登場するし、一方は堕天使、もう一方は巨人という設定の違いだけで、ストーリーにも共通性がある。
 堕天使Kにはセリという女マネージャーがついていて、Kの芸を〈社長〉に売り込むというところも「巨人」の設定と似ている。Kが〈社長〉を背中に乗せて飛び回るところも、「巨人」のKが偽の〈帝王〉を肩に乗せて巨大化する場面とよく似ている。
「堕天使」でKは、天使→堕天使→人間と落ちぶれていくが、そこが「巨人」との決定的な違いである。堕天使Kはセリが冷蔵庫に残していった大量の肉と野菜を腹に詰め込む時、その空腹感が人間に固有のものであって、天使のものではないことに気づく。Kの羽根はその時ごっそり抜け落ち、二度と飛ぶことが出来なくなるのである。
 Kは〈社長〉に対して飛行の謝礼を求めるが、社長は「わしはもう、君など必要としないのだよ」という言葉を浴びせ、セリがすでにKの替わりを調達していたことを知る。
「堕天使」で行使される山尾の想像力は、すべて人間的なスケールの範囲に収まっていて、いかに背中に羽根の生えた天使を登場させようが、その想像力の及ぶところは寓意の範囲に止まるものでしかない。
 この作品はジュニア小説として書かれたものだというから、山尾悠子にとってもどこまでも想像力を拡張させる場ではなかったのであろう。だから「堕天使」という作品は「巨人」という作品として書き直される必要があった。
「巨人」にあって山尾の想像力は人間的なスケールの範囲に止まることはない。山尾悠子の真骨頂である。人倫を超えた想像力の行使は、「巨人」を人間の物語にさえ止まらせないものがある。
 最後に「巨人」のKは「堕天使」のKと同じように空腹感を覚えるのだが、その空腹感は人間のスケールを超え出ている。
「その時、Kの体内に息を潜めていた底深い空腹感はたちまち胴の表皮に内接する一本の空洞にも似た空虚となってそこに大きな位置を占めた。人間の風景の中へと降りてきて以来人間の基準に合わせた食事でしか補充されていなかったその空虚は、今や食べ物であるか否かにかかわらず外界のすべてを吸引しつくしてしまうばかりに奥深いものと化し、それは空虚のかたちを取った巨人の寂しさとも思われた」
「堕天使」のKが冷蔵庫の中身を喰う空腹は、人間の空腹そのものでしかないが、「巨人」のKの空腹は人間の空腹を超えて、なにものかの象徴となりうるだろう。山尾の作品にあって、その人間のスケールを超えた想像力は、それが紡ぎ出す言葉に詩的な価値をさえ与えるだろう。最後に巨人Kが口にする言葉は次のようなものだ。
〈さしあたり、地上に出てから自分のなすべきことはまずその場のすべてのものを喰いつくすことだ。たとえそれが食べ物であろうと風景であろうとも〉
 巨人の内部の巨大な空虚は地上のすべてのものを喰いつくそうとするだろう。
それが彼の第一歩となるだろう。
 そして山尾の文章は単なる寓意に止まることなく、その特異な想像力によって文学のメタファーとしての価値を獲得するのである。


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