玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

Orikuchi Shinobu The Book of the Dead(4)

2017年04月01日 | ゴシック論

 ジェフリーさんは『死者の書』に、三つのプロットラインを読み取っている。一つ目は幻視する織り姫、つまりは中将姫をモデルにした藤原南家郎女のそれである。二つ目は甦る皇子、つまりは大津皇子をモデルとした滋賀津彦のそれ、そして三つ目は近代と折り合わない芸術家、つまりはもう一人の重要人物、大伴家持のそれである。
 ジェフリーさんは主人公のモデルとなった中将姫の伝説について、詳しく書いている。中将姫の伝説についてほとんど知らなかった(當麻寺を訪れるまでは)私には、ジェフリーさんの伝説紹介は非常に役に立った。
 折口は中将姫の伝説をかなり忠実になぞっているという。「称讃浄土経」を一千回写経しようという決意、奈良から當麻寺までの長い歩行、蓮の茎から繊維を取り出す作業、そして曼荼羅の基礎となる広い布を織る行為は、小説と伝説で共通している部分である。
 しかし折口は、伝説に伝えられる継母による虐待のこと、少女時代の家族からの逃亡への決意、彼女が布を織るのを助ける阿弥陀の存在などについては触れていない。ジェフリーさんによれば、それは折口が小説をよりリアリスティックにするためであったという。
 たとえば、伝説では阿弥陀が彼女に織りを教えるために出現するところを、年配の尼僧が教えたことにしているし、数時間で布を織り上げたことになっているところを、数日かかったことにしている。そこに折口の意図が窺えるのである。ただし、折口は超自然現象をまったく排除しているわけではない。ジェフリーさんは書いている。

Nonetheless, Orikuchi has been careful to write these scenes in dreamy, inconclusive ways that leave open the possibility that they could perhaps be hallucinations experienced by the characters.

 つまり折口は、小説中の超自然現象を夢幻的で不確かなものとして、登場人物によって経験された幻想である可能性を保持しつつ描いているのである。このような書き方は近代の幻想小説の大きな特徴である。折口の書き方はジェフリーさんが言うように決定的にモダンな性格を持っているのだ。
 幻想文学について重要な定義を打ち立てた、ツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』によれば、幻想小説は幻想というものを怪奇と驚異の境界域に設定するのである。つまり幻想小説は幻想を、現象の超自然的解釈(怪奇)と自然的解釈(驚異)の中間に置くことによって、読者に「ためらい」を起こさせるものなのである。
 それは、近代以前の怪奇と驚異が未分化であった時代、言い換えれば現象の自然的解釈と超自然的解釈とがともに不可能であった時代にはあり得ない形式であった。だから幻想小説は、極めて近代的な思考形式のもとでのみ可能なのであって、折口の『死者の書』は言葉の厳密な意味において幻想小説と呼ばれるべきものであり、お伽噺とは決定的に違っているのである。
 
 二つ目のプロットは滋賀津彦のそれであり、折口の独創は時代の違う中将姫の伝説と、大津皇子の物語とを見事に融合させたところにある。大津皇子が刑死したのは、中将姫が曼荼羅を織り上げたと伝えられる時の80年前のことであて、本来そこには何のつながりもない。
 滋賀津彦のキャラクターはもっぱら、墓の下での彼の独白によって示されている。彼は最初自分が誰だかさえ分からない。それでも刑死する前に一目見た耳面刀自(みみものとじ)への思いは彼の全身を貫いている。しかし、甦りつつある滋賀津彦は徐々に様々なことを思い出していく。
 ようやく自分が若くして処刑された滋賀津彦であることを思い出すと、自分の名を伝える者が誰もいないことを、猛烈に嘆くのである。それは妻や子どもを失ったことよりもはるかに大きな悲しみであった。そこをジェフリーさんがどう訳しているか見てみよう。

――After all, my name hasn't survived. I'm just like everyone else, all the ordinary folk who are born and who die -they fade away like blades of grass, leaving behind no shadow, no trace of their existence. That's the way it's always been and always will be, and things are no different for me. How terrible! I refuse to accept this.

 原文とは文章がやや交錯しているが、分かりやすい翻訳と思う。ここでは滋賀津彦が、一般民衆と同じように何の影も何の痕跡も残すことなく、ただ生まれて死ぬのは嫌だという、皇室に連なるものとしてのこだわりを見ておこう。そして折口は彼を小説の中へ甦らせることによって、その名前を取り戻そうとしているのである。
 ジェフリーさんはこのことをやはり、戦中の時代背景と関連させて考えている。まず大津皇子についてジェフリーさんは次のように書く。

Orikuchi seems to have found in the model of Prince Otsu a way to give voice to those individuals sacrificed to the order of the nation and the imperial throne.

"those individuals"についてジェフリーさんは、大津皇子の時代のそれだけではなく、太平洋戦争で死んだ犠牲者たちのことにまで普遍化させて考えている。それは次のような文章につながっていく。

In the postwar period, Orikuchi seems to have been obsessed with rituals that might calm the spirits of the victims of the war-both his lover who had died in Iwo Jima and the millions of others who had died in the Pacific theater.

"his lover who had died in Iwo Jima"とは、折口が愛した藤井春洋(後に養子となって折口春洋)のことである。藤井は1945年、硫黄島で戦死している。
 直接的に藤井春洋のことを大津皇子に仮託しているわけではないとしても、大津皇子の嘆きの中に、藤井や太平洋戦争で死んだ何百万という命の声が反響しているのは確かなことと思われる。

ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』(1999、東京創元社)三好郁朗訳

 

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