うーん昨日は、久々に天気予報に騙された・・・岐阜県は朝の情報番組でも一日曇りの予報だった。関東地方は夕方雨が降るかもしれないと言っていたが・・・。
ま、色々チェックする時間が無かったので天気予報を信じて友人と用足しに出かけた。
雨?しかもかなり激しい・・・洗濯物が・・・。 いやな予感はしたのだが・・・。
天気はいくら刻々と変化するといっても、6時間位は正確に予報しろよ!と怒りがこみ上げたが、後の祭りだ・・・。
案の定、洗濯物はずぶ濡れ・・・またやり直しである・・・。あーもったいない・・・。
水も電気も洗剤も余分にかかる・・・。
国営放送の天気予報も、曇りですが洗濯物は乾くとの予報だった。
ふざけるな・・・と言う感じである。
ま、騙されたというのは、自分自身に騙されたのだ・・・きっと予報通りだろう。
その甘さが、悲劇を招いたのだ。
たかが洗濯物のやり直しだが、昭和30年代、40年代、50年代の生活を思い出していただきたい。
誰かが家にいて、雨が降りそうになれば、急いで洗濯物を取り込んだものだった。
私も、子供の頃はよく、洗濯物や布団を急いで取り込んだ記憶がある。
時代は移り変わり、乾燥機が家庭に普及した。洗濯乾燥機など超電気消費装置である。おまけにほぼ毎日起動・・・。もちろん、我が家にも友人宅にもあるわけない。
経済の奴隷化が進み、共働きが当たり前となり、子供は学校の事で手一杯・・・。
おまけに、政府が専業主婦やパート労働者の家庭内業務を奪おうとしている始末だ。
電気を消費し、その為(消費するために)にさらに労働を促し、さらに便利な(電気を余分に消費する)電化製品の購入を促し、さらに消費に繋げる。
どこかが狂っているのではないだろうか?
何もそのような生活が悪いとは言っていない。しかし、質素に生きている人々の生活を奪うような考え方はいががなのだろうか。
昭和40年代、50年代、質素な生活と高度成長が微妙にバランスをとっていた気がする。
どこからか人々の心が変わった気がする。
人の心は、毎日の小さな生活の中で養われるのではないだろうか。
自分の使った食器さえも自分で洗えない、洗わない・・・。機械に任せてはいけない部分もあるのではないだろうか。
ま、色々チェックする時間が無かったので天気予報を信じて友人と用足しに出かけた。
雨?しかもかなり激しい・・・洗濯物が・・・。 いやな予感はしたのだが・・・。
天気はいくら刻々と変化するといっても、6時間位は正確に予報しろよ!と怒りがこみ上げたが、後の祭りだ・・・。
案の定、洗濯物はずぶ濡れ・・・またやり直しである・・・。あーもったいない・・・。
水も電気も洗剤も余分にかかる・・・。
国営放送の天気予報も、曇りですが洗濯物は乾くとの予報だった。
ふざけるな・・・と言う感じである。
ま、騙されたというのは、自分自身に騙されたのだ・・・きっと予報通りだろう。
その甘さが、悲劇を招いたのだ。
たかが洗濯物のやり直しだが、昭和30年代、40年代、50年代の生活を思い出していただきたい。
誰かが家にいて、雨が降りそうになれば、急いで洗濯物を取り込んだものだった。
私も、子供の頃はよく、洗濯物や布団を急いで取り込んだ記憶がある。
時代は移り変わり、乾燥機が家庭に普及した。洗濯乾燥機など超電気消費装置である。おまけにほぼ毎日起動・・・。もちろん、我が家にも友人宅にもあるわけない。
経済の奴隷化が進み、共働きが当たり前となり、子供は学校の事で手一杯・・・。
おまけに、政府が専業主婦やパート労働者の家庭内業務を奪おうとしている始末だ。
電気を消費し、その為(消費するために)にさらに労働を促し、さらに便利な(電気を余分に消費する)電化製品の購入を促し、さらに消費に繋げる。
どこかが狂っているのではないだろうか?
何もそのような生活が悪いとは言っていない。しかし、質素に生きている人々の生活を奪うような考え方はいががなのだろうか。
昭和40年代、50年代、質素な生活と高度成長が微妙にバランスをとっていた気がする。
どこからか人々の心が変わった気がする。
人の心は、毎日の小さな生活の中で養われるのではないだろうか。
自分の使った食器さえも自分で洗えない、洗わない・・・。機械に任せてはいけない部分もあるのではないだろうか。