◇MAKOTO YUASA
<3歳年上の兄郁夫さんは、進行性の筋萎縮(いしゅく)症を患う重度障害者。幼いころ、兄の車いすを押しながら、周囲に特別な目で見られていると感じていた>
東京の小平に住んでいた小学生のころ、歩いて7~8分の養護学校まで兄を迎えに行き、車いすを押して帰ることがありました。大通りを通れば1回曲がるだけで家の前に着くんですが、兄は平屋の公営住宅の間を抜ける、くねくねした道をあえて選ぶんです。
3年か4年生の時、兄の希望を聞かずに大通りを選んでしまい、口論になった記憶があります。本来は介助者がそんなことをしてはいけないんでしょうが、兄に対して「もっと堂々とすればいいじゃねえか」と反発していたんです。家に帰ると、兄は母に「もう誠に送り迎えしてほしくない」と訴えていたように思います。兄にすれば「なんでオレの言うことを聞かないんだ」という気持ちですよね。
通りすがりに、じろじろ見られていることには気付いていました。今なら、社会を変えようと考えますが、子供だからそんなことも分からず、兄と衝突してしまったんです。
<兄が障害者だったからこそ経験できたことが、その後の人生に影響を与えている>
物心ついた時から、家にはいつも、兄のためにボランティアの人たちが来ていて、兄弟で一緒に遊んでもらっていました。普通の子供は学校の同級生との付き合いが中心になりますが、私はいろいろな人に接していたんです。その経験は、自身の人生にプラスになっていると思います。
でも、割を食ったと感じたこともあります。5年生になるとアニメの「機動戦士ガンダム」がはやり、毎日午後5時半からテレビを見るのを楽しみにしていました。そのころ、兄が塾通いを始めたんです。授業は午後6時から。その15分前、ガンダムの合間のCMに入った時に家を出ないと遅刻です。だから、兄を塾に送って行く日はテレビを最後まで見ることができませんでした。あの時だけは、むちゃ恨みましたね。
<母尚子さんは「手のかからない子で、兄と支え合って勝手に育った」と振り返る。無鉄砲に思える行動を止めることもなかった>
兄弟げんかをすると、普通は兄貴が責められると思うんですが、うちで怒られるのは、いつも私でした。だから、泣きわめけばあやしてもらえるという感覚は早くから捨てていたように思います。母ちゃんが「勝手に育った」と言うのは、そういう意味じゃないですかね。
両親がよく許してくれたと思いますが、中2で京都まで一人旅をしました。その時、自転車で旅をしていた大学生のグループに可愛がってもらい、渡月橋のたもとの公園に張ったテントに一晩泊めてもらったんです。あれが、初めての「野宿」です。高2の夏には、東京から九州の小倉まで自転車で行きました。途中で出会った人の家に泊めてもらったりして。距離は1300キロほどありましたが、楽しい思い出です。
強盗に襲われて、怖い思いもしました。大学1年の夏休みに中南米を1人で旅行した時、コスタリカの海岸沿いの道を歩いていて、いきなり後ろから突き飛ばされたんです。相手は5~6人の若い男で、石や棒を手に「金を出せ」と。さすがに殺されるかと思いましたね。
<大学に入ると、東京都杉並区の児童養護施設「杉並学園」で勉強を教えるボランティアを始めた>
子供のころお世話になった経験から、自分も大学生になったら、恩返しをしようと決めていました。ボランティアセンターで、たまたま紹介されたのが杉並学園です。
冒険が好きで、探検部に入ろうと思ったこともあるんですが、結局、学園でのボランティアが楽しくて、2年近く、はまりました。学園には、他の大学の学生だけでなく、主婦や元プロボクサーまで、いろんな仲間がいました。あのころから、いろいろな人が集まる場所が好きだったんです。やっぱり、子供のころから年上の人たちに接していたせいかもしれませんね。
■人物略歴
◇ゆあさ・まこと
NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」(01年設立)事務局長。東京都生まれ。東京大大学院在学中から渋谷で野宿者支援に携わる。08年末~年明けの「年越し派遣村」村長も務めた。40歳。
<3歳年上の兄郁夫さんは、進行性の筋萎縮(いしゅく)症を患う重度障害者。幼いころ、兄の車いすを押しながら、周囲に特別な目で見られていると感じていた>
東京の小平に住んでいた小学生のころ、歩いて7~8分の養護学校まで兄を迎えに行き、車いすを押して帰ることがありました。大通りを通れば1回曲がるだけで家の前に着くんですが、兄は平屋の公営住宅の間を抜ける、くねくねした道をあえて選ぶんです。
3年か4年生の時、兄の希望を聞かずに大通りを選んでしまい、口論になった記憶があります。本来は介助者がそんなことをしてはいけないんでしょうが、兄に対して「もっと堂々とすればいいじゃねえか」と反発していたんです。家に帰ると、兄は母に「もう誠に送り迎えしてほしくない」と訴えていたように思います。兄にすれば「なんでオレの言うことを聞かないんだ」という気持ちですよね。
通りすがりに、じろじろ見られていることには気付いていました。今なら、社会を変えようと考えますが、子供だからそんなことも分からず、兄と衝突してしまったんです。
<兄が障害者だったからこそ経験できたことが、その後の人生に影響を与えている>
物心ついた時から、家にはいつも、兄のためにボランティアの人たちが来ていて、兄弟で一緒に遊んでもらっていました。普通の子供は学校の同級生との付き合いが中心になりますが、私はいろいろな人に接していたんです。その経験は、自身の人生にプラスになっていると思います。
でも、割を食ったと感じたこともあります。5年生になるとアニメの「機動戦士ガンダム」がはやり、毎日午後5時半からテレビを見るのを楽しみにしていました。そのころ、兄が塾通いを始めたんです。授業は午後6時から。その15分前、ガンダムの合間のCMに入った時に家を出ないと遅刻です。だから、兄を塾に送って行く日はテレビを最後まで見ることができませんでした。あの時だけは、むちゃ恨みましたね。
<母尚子さんは「手のかからない子で、兄と支え合って勝手に育った」と振り返る。無鉄砲に思える行動を止めることもなかった>
兄弟げんかをすると、普通は兄貴が責められると思うんですが、うちで怒られるのは、いつも私でした。だから、泣きわめけばあやしてもらえるという感覚は早くから捨てていたように思います。母ちゃんが「勝手に育った」と言うのは、そういう意味じゃないですかね。
両親がよく許してくれたと思いますが、中2で京都まで一人旅をしました。その時、自転車で旅をしていた大学生のグループに可愛がってもらい、渡月橋のたもとの公園に張ったテントに一晩泊めてもらったんです。あれが、初めての「野宿」です。高2の夏には、東京から九州の小倉まで自転車で行きました。途中で出会った人の家に泊めてもらったりして。距離は1300キロほどありましたが、楽しい思い出です。
強盗に襲われて、怖い思いもしました。大学1年の夏休みに中南米を1人で旅行した時、コスタリカの海岸沿いの道を歩いていて、いきなり後ろから突き飛ばされたんです。相手は5~6人の若い男で、石や棒を手に「金を出せ」と。さすがに殺されるかと思いましたね。
<大学に入ると、東京都杉並区の児童養護施設「杉並学園」で勉強を教えるボランティアを始めた>
子供のころお世話になった経験から、自分も大学生になったら、恩返しをしようと決めていました。ボランティアセンターで、たまたま紹介されたのが杉並学園です。
冒険が好きで、探検部に入ろうと思ったこともあるんですが、結局、学園でのボランティアが楽しくて、2年近く、はまりました。学園には、他の大学の学生だけでなく、主婦や元プロボクサーまで、いろんな仲間がいました。あのころから、いろいろな人が集まる場所が好きだったんです。やっぱり、子供のころから年上の人たちに接していたせいかもしれませんね。
■人物略歴
◇ゆあさ・まこと
NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」(01年設立)事務局長。東京都生まれ。東京大大学院在学中から渋谷で野宿者支援に携わる。08年末~年明けの「年越し派遣村」村長も務めた。40歳。
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