長い手足がしなやかに水をつかむ。前へ、前へと体を押し出していく。
屋内の五十メートルプールを泳ぎ切り、池愛里選手(15)は水上に顔をのぞかせた。一瞬、大きな笑顔を見せたと思うと、息つく間もなく再び水の中へ。もう数十分も泳ぎ続けている。
昨年十二月中旬。日本身体障がい者水泳連盟の東日本エリア強化合宿が筑波大学で行われていた。二〇一六年リオデジャネイロ、二〇年東京の各パラリンピック出場を狙う選手の中に彼女はいる。
大阪で昨年七月に開かれたジャパンパラ水泳競技大会で鮮烈な印象を残した。五十メートルと百メートルの自由形、百メートル背泳ぎで、資格を持つS10クラスのアジア記録を塗り替えたのだ。
その競泳歴は五年にも満たない。
小学三年生の夏、左脚に悪性肉腫が見つかった。二十センチにわたって腫れ上がり、医師から「命が欲しいなら」と脚の切断を告げられた。とっさに叫んだ。「切断したくない」
幼いころは「五輪選手になる」が口ぐせ。運動が大好きで、飛び抜けて足が速く、朝から晩まで駆け回っていた。走れなくなるなんて絶対にいやだ-。
切断の代わりに抗がん剤治療を選んだ。幸運にも効いたが、髪の毛が抜け落ち、吐き気に襲われ、食事がのどを通らない。
それでも友達や学校の先生に支えられ、県内から設備や学習環境が整った東京がんセンターに転院すると、病と闘う仲間に出会えた。一緒に学び、学校のように催し物も楽しんだ。
入院生活が続くと友達は少しずつ入れ替わる。大人は真実を言わないが、何となく気付いていた。「自分も死ぬの?」。生きたいと願った。
そして翌年、肉腫を切除する手術は成功した。水泳と出合ったのは、退院しても棒のようにやせ細っていた四年生のころ。母の育美(やすみ)さん(41)の勧めでリハビリも兼ねてプールに通い始めた。
手術の影響で足首から下がまひしたため、軽々と歩いたり、走ったりはできなくなったが、運動好きは変わらない。健常者に交じって毎日のように泳ぎ、所属する茨城スイミングスクールひたちなか(ひたちなか市)の長島和春コーチらの指導もあって、どんどん上達していった。
泳ぐたびに命を実感した。「練習はきつくて心が折れそうになるけど、記録が伸びると『頑張ってよかった』と思える。足が動かなくたって、生きていれば楽しいことがある」。亡くなった仲間の分まで悔いなく生きようと誓った。
初めて障害者の大会に出たのは一二年。全国大会に出場すると、ロンドンパラリンピックの水泳ヘッドコーチを務めた峰村史世さん(42)から「教えたい」と日本代表に誘われた。国際大会は昨年からだ。
「今持っているのは素材だけ」と東日本エリア担当の峰村コーチは言う。一七六センチの長身は海外勢にも引けをとらないが、「技術的にはまだまだ」。アジアで強くても、世界ランクだと最高でも十位だ。さらに練習量を増やし、めげずに乗り切れば世界の表彰台が見えてくるという。
池選手は上を見据える。「もっともっと速く泳いで、必ずリオに出場し、東京でメダルを取る」
東京で開催される意味。それは支えてくれた家族や多くの人たちに、成長した自分の姿を目の前で見てもらえるということ。精いっぱいの泳ぎで恩返しできる日を夢見ている。
二〇二〇年の夏季五輪・パラリンピックの東京開催に向け、県内の若い選手や指導者たちは「夢のきっぷ」を手に入れようと練習に熱が入る。運営面での参加を目指す人もいる。昨年九月の劇的な東京開催決定から四カ月。それぞれの県民の思いを紹介する。
<いけ・あいり> 1998年9月生まれ。水戸市在住。身体障害者の水泳競技で、片脚が不自由で軽い障害に位置付けられるS10クラスのアジア記録(女子の50メートル自由形30秒01、100メートル自由形1分5秒55、100メートル背泳ぎ1分17秒21)を持つ。
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笑顔を絶やさない池選手=筑波大学で
東京新聞 : 2014年1月3日
屋内の五十メートルプールを泳ぎ切り、池愛里選手(15)は水上に顔をのぞかせた。一瞬、大きな笑顔を見せたと思うと、息つく間もなく再び水の中へ。もう数十分も泳ぎ続けている。
昨年十二月中旬。日本身体障がい者水泳連盟の東日本エリア強化合宿が筑波大学で行われていた。二〇一六年リオデジャネイロ、二〇年東京の各パラリンピック出場を狙う選手の中に彼女はいる。
大阪で昨年七月に開かれたジャパンパラ水泳競技大会で鮮烈な印象を残した。五十メートルと百メートルの自由形、百メートル背泳ぎで、資格を持つS10クラスのアジア記録を塗り替えたのだ。
その競泳歴は五年にも満たない。
小学三年生の夏、左脚に悪性肉腫が見つかった。二十センチにわたって腫れ上がり、医師から「命が欲しいなら」と脚の切断を告げられた。とっさに叫んだ。「切断したくない」
幼いころは「五輪選手になる」が口ぐせ。運動が大好きで、飛び抜けて足が速く、朝から晩まで駆け回っていた。走れなくなるなんて絶対にいやだ-。
切断の代わりに抗がん剤治療を選んだ。幸運にも効いたが、髪の毛が抜け落ち、吐き気に襲われ、食事がのどを通らない。
それでも友達や学校の先生に支えられ、県内から設備や学習環境が整った東京がんセンターに転院すると、病と闘う仲間に出会えた。一緒に学び、学校のように催し物も楽しんだ。
入院生活が続くと友達は少しずつ入れ替わる。大人は真実を言わないが、何となく気付いていた。「自分も死ぬの?」。生きたいと願った。
そして翌年、肉腫を切除する手術は成功した。水泳と出合ったのは、退院しても棒のようにやせ細っていた四年生のころ。母の育美(やすみ)さん(41)の勧めでリハビリも兼ねてプールに通い始めた。
手術の影響で足首から下がまひしたため、軽々と歩いたり、走ったりはできなくなったが、運動好きは変わらない。健常者に交じって毎日のように泳ぎ、所属する茨城スイミングスクールひたちなか(ひたちなか市)の長島和春コーチらの指導もあって、どんどん上達していった。
泳ぐたびに命を実感した。「練習はきつくて心が折れそうになるけど、記録が伸びると『頑張ってよかった』と思える。足が動かなくたって、生きていれば楽しいことがある」。亡くなった仲間の分まで悔いなく生きようと誓った。
初めて障害者の大会に出たのは一二年。全国大会に出場すると、ロンドンパラリンピックの水泳ヘッドコーチを務めた峰村史世さん(42)から「教えたい」と日本代表に誘われた。国際大会は昨年からだ。
「今持っているのは素材だけ」と東日本エリア担当の峰村コーチは言う。一七六センチの長身は海外勢にも引けをとらないが、「技術的にはまだまだ」。アジアで強くても、世界ランクだと最高でも十位だ。さらに練習量を増やし、めげずに乗り切れば世界の表彰台が見えてくるという。
池選手は上を見据える。「もっともっと速く泳いで、必ずリオに出場し、東京でメダルを取る」
東京で開催される意味。それは支えてくれた家族や多くの人たちに、成長した自分の姿を目の前で見てもらえるということ。精いっぱいの泳ぎで恩返しできる日を夢見ている。
二〇二〇年の夏季五輪・パラリンピックの東京開催に向け、県内の若い選手や指導者たちは「夢のきっぷ」を手に入れようと練習に熱が入る。運営面での参加を目指す人もいる。昨年九月の劇的な東京開催決定から四カ月。それぞれの県民の思いを紹介する。
<いけ・あいり> 1998年9月生まれ。水戸市在住。身体障害者の水泳競技で、片脚が不自由で軽い障害に位置付けられるS10クラスのアジア記録(女子の50メートル自由形30秒01、100メートル自由形1分5秒55、100メートル背泳ぎ1分17秒21)を持つ。
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笑顔を絶やさない池選手=筑波大学で
東京新聞 : 2014年1月3日
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