猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「発達障害者支援法」と山登敬之の『新版 子供の精神科』

2019-06-20 22:28:35 | 育児


「発達障害」は、法律用語であって、医学用語ではない。あなたのお子さんは発達障害ですよ、という医者がいたら、信用してはいけない。診断名ではないし、子育てに何の役にも立たない。

「発達障害者支援法」は2004年に成立し、2005年に施行された法律である。

第1条は、法律の目的を記すのだが、なぜか、とても長たらしい。

「この法律は、発達障害者の心理機能の適正な発達及び円滑な社会生活の促進のために発達障害の症状の発現後できるだけ早期に発達支援を行うことが特に重要であることにかんがみ、発達障害を早期に発見し、発達支援を行うことに関する国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、学校教育における発達障害者への支援、発達障害者の就労の支援、発達障害者支援センターの指定等について定めることにより、発達障害者の自立及び社会参加に資するようその生活全般にわたる支援を図り、もってその福祉の増進に寄与することを目的とする。」

下線は私がつけたものである。多分、この法律の作成にかかわった者たちの間に、意見の一致が見られなかったのであろう。

第2条は、「発達障害」、「発達障害者」、「発達障害児」の定義である。

「この法律において「発達障害」とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう。」

第2条の定義は、アメリカの精神医学会の診断マニュアルの旧版DSM-IVの「発達期に最初に診断される症候群(Disorders Usually First Diagnosed in Infancy, Childhood, or Adolescence)」と解釈すれば良い。

厳密にいえば、この法律の定義では、「低年齢」だから、「思春期(Adolescence)」を対象から外している。また、「知的能力障害」は、すでに他の法律でカバーされていると考え、やはり、対象から外したものと考えられる。

当時の日本には、支援を訴える親たちの運動があったが、だれを支援すればよいかに、医療関係者に多少の混乱があったのであろう。文部科学省は政令で「情緒障害」を「発達障害」に含めている。

したがって、「発達障害」は非常に幅広いメンタル症状を対象にしている。これ自体は、良いことだが、いっぽうで、混乱を生む要因になっている。だからこそ、医学的診断名が親たちや支援者にとって重要となる。

「発達期に最初に診断される症候群」とは何か理解したい向きには、山登敬之の『新版 子供の精神科』(ちくま文庫、2010年)がおすすめである。

山登は、「発達障害」には「精神遅滞」「広汎性発達障害」「自閉症」「ADHD」「LD」などがあると書いている。

最新版の診断マニュアルDSM-5では、「広汎性発達障害」と「自閉症」は、まとめられて、「自閉スペクトラム症」となっている。また、新たに、コミュニケーション症群というカテゴリーが加えられている。「精神遅滞」は、差別的ひびきがあるとして、「知的能力障害(Intellectual Disability)」と言い換えられている。

DSM-5にそって診断名を書きなおすと、神経発達症群(Neurodevelopmental Disorders)には、
 知的能力障害群(Intellectual Disabilities)、
 コミュニケーション症群(Communication Disorders)、
 自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder)、
 注意欠如・多動症(Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder)、
 限局性学習症(Specific Learning Disorder)、
 運動症群(Motor Disorders)
となる。

旧版DSM-IV「発達期に最初に診断される症候群」には、これ以外の精神疾患が多数含まれており、じっさい、医療現場や支援現場でも、大人がなる精神疾患のほとんどが、子どもにも見出されるのである。

そういう意味で、文部科学省が「情緒障害」という怪しげなカテゴリーを「発達障害」に加えたのも納得できる。また、山登が本の題名を敢えて「子供の精神科」とし、「発達障害」とはしなかったのも、うなづける。

さて、山登の主張の最もだいじな点は、「発達障害」を病気と見ていないことである。もって生まれた個性として捉えている。私もその意見に賛成である。生まれつきなのか、治せるのかは、微妙な問題で、多くの場合、周りが個性として受け入れることで、「適正な発達」が望めなくても、多少の支援のもとで「円滑な社会生活」ができる見込みが高いからだ。

そして、山登は、「治す」と言って子どもに「訓練」を強要しないように警告している。厳しい指導や訓練がストレス刺激となって子供をホントウの精神疾患にしかねない。しかも、そのときに なるのではなく、思春期になって発症することもあると指摘する。

生活の質を改善するため、ご飯を自分で食べられる、自分でトイレができる、自分で服を着替えられるようにするのに、厳しい指導や訓練は必要ない。どうして、子どもが楽しく学べるようにしないのか。

また、ほかの子と変わっていることで、いじめられる子の問題も取り上げている。このことによって、他者は自分をいじめるものと学習してしまい、外出することに大きな恐怖を抱えるようになる子もいる。

なお、現在、学校では、「発達障害児」を個別級や支援級に隔離しているが、「発達障害児」の間でもいじめが起きることがある。私は、これは、大人の価値観の反映ではないかと考える。

まとめると、DSM-5は診断マニュアルとして読むに値する。支援する立場からすると、「治す」という発想ではなく、「共生する」という発想を、社会全体に、求めたい。

不登校やひきこもりや発達障害は昔からあった

2019-06-20 18:58:18 | こころ

ひさしぶりにNPOの研修で私は怒りを爆発させてしまった。

私のNPOでは、1月に1度、研修を行って、誰かの体験をみんなで共有する。そのとき、感想なのか意見なのか、昔は不登校やひきこもりや発達障害はなかった、横浜の北は団地が多く、みんな個人主義になったからだ、のような旨の発言があった。これに、怒りが抑えられなかったのだ。

かえりみて、1月以上前、倍賞千恵子がテレビで「タテ社会がヨコ社会になって、目を合わせて話さなくなった」と語り、私はびっくりした。意外とこのような考え方をしている、中高年が多いのではないか、と思う。
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昔、差別がなかったわけではない。昔、ひきこもりがなかったわけではない。昔、発達障害がなかったわけではない。

数年前、中学の同窓会に参加したら、1割以上が死んでいた。たまたま、丈夫な奴が生き延びているだけだ。

昔は、親戚に一人や二人、仕事もせず、家でぶらぶらしているものがいたものだ。また、飲むと暴れて家族に暴力をふるうものがいた。障害者は家に閉じこめられて外に出てこなかった。昔は、「ひきこもり」や「発達障害」という言葉がなかったから、誰も、「ひきこもり」や「発達障害」の存在に気づかなかっただけである。

小学校のときのことだが、私の同級の友達の父は引揚者で、兄は引揚の途中に熱病で片目の視力を失い、また、頭がおかしくなったという。たまに、友達が兄を連れて外にでてくると、みんなが囃したてた。兄は顔立ちが整い、すらっとして背丈があったのに。

昔は、今のように障害者が外に出てくることがなかった。障害者が外に出てこられるようになっただけでも、いまのほうが良い。また、今は、昔のような飲んだくれは少なくなっている。
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だから、個人主義が問題ではない。ヨコ社会が問題ではない。いままで、隠れていたものを、隠さなくなっただけだ。

では、現在、個人主義が確立しているのか。ヨコ社会は確立しているのか。今は分岐点で、確立してはいない。

エーリヒ・フロムは『自由からの逃走』(東京創元社)で、自由とは個人の確立と不可分だと言っている。自分で物事を判断し、行動することが、自由なのである。それを放棄することが、「自由からの逃走」なのである。

フロムが『自由からの逃走』を出版したのは、アメリカに亡命してからの、1941年である。先ほど私が「今は分岐点」と言ったのは、状況がナチスの登場したときに似ており、いつでも、タテ社会の、集団主義の、国家主義の昔に戻るかもしれないと思うからだ。

決して、昔は、「愛」があったのではなく、集団主義や国家主義は権威的な序列があった抑圧社会である。現在、日本社会は、「競争」を普遍的真理なように受けとめているが、「自由」「個人」の理想とは無関係で、「競争」は「序列」を肯定するための手段で、「平等」と相反するものである。

「発達障害」のためのNPOで、集団主義や国家主義の昔が良かったという中高年がいるとは、とても腹の立つことである。

「革新」のラベルは不要、自由・平等・愛・民主主義で逆襲だ

2019-06-19 23:17:38 | 民主主義、共産主義、社会主義

何日か前の朝日新聞《ひもとく》に、宇野重規が『自明性を失う「保守」と「革新」』という題の小論を寄せた。

1967年生まれの彼の論点は、「保守」と「革新」の政治的対立軸が今なお有効性をもつが、「革新」とは「変化」を推進するということであり、その意味で、若者にとっての「革新」は日本維新である、というものである。

いっぽう、3年前に、朝日新聞の《論壇時評》に、1962年生まれの小熊英二は、若い世代に「保守」「革新」の政治的対立軸は理解されなくなった、という小論を寄せている。

1947年生まれの私から見ると、「保守」と「革新」は新聞用語であって、昔から、そのような政治的対立軸はなかった。学生運動のアジビラに「保守」や「革新」という言葉はなかった。

私の子ども時代の対立軸は、「経営者/資本家」対「労働者」であり、「政府」対「労働組合」であった。ストライキもバンバンあった。これが、私が大人になったころ、会社が「第2労働組合」を作り、政府が「労働組合」つぶしを全国的に行った。

最初は、政府は、エネルギー転換を名目に、日本の炭鉱を全国的に閉じた。そして、最強の炭鉱組合が職場を失い、解散に追い込まれた。
次に、日本国有鉄道(国鉄)の民営化を強引に行い、4分割されたJRが国鉄職員を再採用することで、組合員を排除した。
ストライキはいけないことだというキャンペンを政府が行った。
私の世代が就職するころは、民間会社の労働組合つぶしは激烈を極め、労働運動する職員は、「追い出し部屋」に集められ、自分はバカだとか、自分は死ぬしかないとか、無理やりに書かすことが行われた。

この時代を知らない若い世代は、労働法が労働者を守ってくれるはずだ、と思うかもしれない。政府が一丸となって労働組合つぶしをやっているから、行政は労働者を守らない。頼みの綱は裁判所だが、裁判は長期的になる。裁判所の人たちも、政府と労働者の争いに参加して自分の立場を明らかにしたくないから、よけい、長期的になる。解雇された組合員は貧乏人だから、長期的な裁判に耐えられない。

「保守」と「革新」の対立軸とか新聞が言っている間に、労働運動がつぶれてしまったのである。

労働運動の実体がないのに、それでも日本社会党がもったのは、日本の左翼は孤立していない、ソビエト連邦や中共や北朝鮮があるではないか、という幻想である。

1991年のソビエト連邦の崩壊で、日本社会党も崩壊の道をたどった。私は、ソビエト連邦の崩壊はアメリカ政府の陰謀ではないかと思っている。しかし、幻想に頼っていてはいけない。

もっと悪いことは、小・中・高教育機関が政府に完全に抑え込まれたことである。「日の丸」をかかげ、「君が代」を歌い、よく服従し、集団規律を守り、しかも、日本の会社が国際競争に勝てるための、愛国的で成績優秀な労働戦士になる、異常な教育が全国の学校で行われた。

だから、日本維新がもっとも「革新」だと若者が思っても、私は不思議と思わない。ネット右翼に走る若者も、日本維新に走る若者も、人間は過去に頭に叩き込まれたことで行動するから不思議ではない。

私は、逆に、政府がこのような完璧な左翼封じ込めを行っても、まだ、政府がとりこめていない若者や大人がいることに希望をもつ。

「保守」か「革新」かを対立軸にするのではなく、左翼の原点、「自由」「平等」「愛」「民主主義」を打ち出し、逆襲するときがきたと思う。「自由」がないから、人々がうつになったり、ひきこまりになったり、する。「平等」がないから、生活にことかき、生産力過剰の不況になる。「愛」がないから、孤独になり、無差別殺傷事件が起きる。「民主主義」体制なのだから、まず、投票で力を示そう。

価値観転倒の転倒、不登校やひきこもりで何が悪い

2019-06-18 22:01:51 | こころ

6月14日の朝日新聞『耕論』で、藤田孝則が
「川崎の事件も、元農林水産事件も、日本社会に根強い「1つだけの価値観」に苦しんだ末の犯行であるように思えてなりません。「男は働いて稼ぐもの」「家庭問題は自分で解決する」という価値観は、いまだに社会規範のように捉えられています」
と言っていた。

たしかに、ニーチェの言う価値観の転倒が必要である。
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国の「ひきこもり」の定義は、「仕事や学校などの社会参加を避けて家にいる状態が半年以上続くこと」であるようだ。

面白いことに、「仕事」も「教育を受けさせること」も、日本国憲法で「義務」とされる。国は、何か偏見をもって「ひきこもり」を見ているのではないか。

「避けて家にいる」という表現は、「自分の趣味に関する用事のときだけ外出する」人や「近所のコンビニなどには出かける」人を、「ひきこもり」に含めたいからだ。すなわち、「仕事」に行け、「学校」に行け、と強要したい意図が、見え見えである。

とすれば、「ひきこもり」という生き方は、人にとやかく言われる筋合いはない。本人がそれで苦しんでいるときのみ、なんとかしてあげたい、と思うのが筋である。

本人が苦しくなるのは、(1)周りから非難される、(2)孤独になる、(3)生活費にことかく、が主な要因である。

周りからの非難には、逆に周りを非難すればよい。ネットに書くと炎上するかもしれないから、話の通じるところに集まって、本音を吐けばよい。そうすると孤独も解決する。
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私のNPOにくる子に、不登校の子がいる。

中1のときは不登校ではなかった。ブラスバンドに入部したが、勉強は全くダメでつらそうにしていた。中3になった彼に再び会ったら、すごく元気である。そして、悲しんでいる他の子に寄り添うことができる。

ところが、NPOの同僚に聞くと、彼は、不登校になったとのことである。家族は、不登校を受け入れている。本人は、「トラック運転手になって、家の農業をひきつぐのだ」と言っている。

だから、学校に行かなくとも、居場所があれば、何も問題がない。
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人にバカにされたくない、人に負けたくない、と思っている子はなかなか安定して元気にならない。価値観の転倒が行えていないからだ。気持ちが上がり下がりしてしまう。抗うつ薬など飲んでいると、気分の波が倍増する。

ニーチェが「家畜の群れ(畜群)」とバカにするが、居場所で「群れる」ことも、だいじなことだ。そして、「社会参加」ではなく、「社会活動」をとおして、「生活費」の不安をも解消していく。

「ネット右翼」は、自分より弱い者を攻撃することで、群れる。そうではなく、自分より弱い者に寄り添うことで、「喜びを与える喜び」を得ることで、あえて、「畜群」になるのだ。

ニーチェは価値観の転倒と言ったが、「価値観の転倒」の転倒を行うと、生きていくのが楽になる。

「ひきこもり」は生き方の一つ、咎められるものでない

2019-06-17 22:24:02 | 思想

6月14日、16日、17日と、朝日新聞が「ひきこもり」の特集を行った。良質の記事であった。この討論の輪に私も参加したい。

記事から得られる良いニュースは、ひきこもり当事者の集まりができ、社会活動をしていることである。すばらしいことだ。

悪いニュースは、相変わらず、ひきこもりの子どもをもつ親をだまかし、お金を取り、子どもを虐待する業者がいまだに存在し、だまされる人が後を絶たないことだ。ひきこもりの子を、どこかに収容して、矯正するなんて、根本的に間違った発想で、子どもの心の傷を深めるだけだ。

6月16日記事によれば、政府は「ひきこもり」を、「仕事や学校などの社会参加を避けて家にいる状態が半年以上続くこと」と定義している。これは、日本国憲法が「勤労」を「義務」とすると同じく、統治者の都合からくる定義で、人間の自由を否定する考え方が、潜んでいる。

私は、同年配の男たちとの酒の席が大嫌いである。新年会、忘年会には出ない。話が下品である。座の中心になる男たちは、どれだけ、他人を傷つけたか、を自慢するのである。そして、他人からどれだけ奪い取ったか、自慢するのである。

私は、数人、できれば、2人での対話で充分である。このとき、相手は、恥を知り、軽蔑したくなるような話をしない。

私は、自分の好きでない仕事をしたいと思わない。私は、考えることに没頭していたい。好きなことだけして、もらえるお金が少なくても、構わない。私はパンだけのために生きたいと思わない。私がNPOでボタンティアをするのは、「喜びを与える悦び」を分かち合う仲間がすきだからだ。

したがって、国の定義で、「ひきこもり」であることが、なにか悪いとは思わない。

真の思想家や職人や芸術家や科学者や技術者は「ひきこもり」なのが自然なのだ。

本来、生き方の選択の自由として、「ひきこもり」がある。もっとも、私自身は、「ひきこもり」より「ふうてん」のほうが、楽しいようにも思えるが。

しかし、「ひきこもり」の本人がそのことで苦しんでいるなら、「ひきこもり」からの脱出を周りが助けなくてはない。

その苦しみが、生活の不安からくる場合、もっとも深刻な問題であろう。

もっとも、国が「仕事などの社会参加」を強要しなくても、経済的救済をすれば、この問題は、簡単に解決する。本当は、「ひきこもり」のきっかけが、いじめだったり、暴力だったり、国や大企業の経済政策の失敗で職がなかったりなど、本人の意志以外の要因が多い。社会に責任がある。

しかし、国や大企業は責任を認めないから、今しばらくは、自助努力が求められる。

昔の職人を考えれば、本来は、ひきこもっても、仕事ができるはずだが、多くの現代企業はそれを許さない。ひきこもり当事者の社会活動がもっと盛んになって、ひきこもって仕事をする労働スタイルが普及するという希望をもとう。

ひきこもりは、少なくても、投票権を行使すべきである。ひきこもりと社会活動は両立できる。政治的発言力をもとう。

もう1つの苦しみは、周りから「ひきこもり」があってはならない存在と見られることである。そして、周りからの自分への存在否定ばかりが続くと、自分の思いであるかのように、自己否定の声が、頭の中で、鳴り響くようになる。

ひきこもり当事者は集まって、逆に、周りの悪口を言おう。ニーチェの言う価値の転倒をおこなおう。弱い者が一番偉いのだ。勝ち組、負け組の言葉は、人間の尊厳性に反する。勉強は、与えられたレールから落ちこぼれないためにするのではなく、好奇心から、真理の探究心から、美の追求からするものだ。

「ひきこもり」の問題は、現代社会の不条理の縮図であり、言いたいことが、私には、いっぱいある。