正面は新調なった東京駅、八重洲側からは初めての対面だ。駅ビルの大丸デパートは、以前より右手の高層ビル、グラントウキョウノースタワーに移って新装オープンしていた。北口通路から丸の内へとに抜ける。1914年開業当時に復元されて、いよいよ今年12月に竣工百年を迎える東京駅舎内の北大ドーム下に入る。明治・大正期の建築家の泰斗、辰野金吾の設計の赤レンガ建築、クリーム色のドーム天井を見あげて、鷲のレリーフや八つの干支の彫刻を眺めていると、見知らぬ女性が近づいてきて声をかけられる。
「東京駅は初めてですか? (いいえ。)では、何をご覧になっているんですか?」
「天井の干支の彫刻を探していて・・・」
「今年の干支はなんでしょう」
「ええと、午(うま)、ですが・・・」
「そうです。ところで午は見つかりましたが?」
「いえ、八角形なので全部で八つしかいないので、いったい残りの四つはどうなっているのかと・・・」
といった感じで、テレビインタヴュー取材を受けることになってしまい、いったんドームの外に出ると、TBS「朝ズバッ!」取材クルーが待機していてカメラとマイクを向けられることになってしまった!まあ、これも経験かと思うと緊張も解けて答えたつもりが、あとで翌日の放送を見た方によると見事にカットされていたらしい。まあ、答えのセンテンスが長くてそのものズバリのテレビ向けの素材としては不向きと判断されたみたいで、ちょっと楽しみにしていたのに残念!
それはともかく、今回の目的はここ東京ステーションギャラリーで開催中の写真展「生誕100年 植田正治のつくりかた」をみること、5日が最終日で滑り込みで間に合った。北ドーム脇に入り口がある。ギャラリースペースは駅舎のドーム脇の北端部分が充てられていったん三階に上がってから順に下におりてみる構成となっていた。
エレベーターで三階に上がる内部の壁面は赤レンガがむき出しの独特な空間だ。はたして作品はどんな感じでこの個性の強い空間と拮抗しているのか、興味の焦点はそこにあったんだ。
じつは、「植田正治」1913-2000)という写真家は、新聞の文化欄やMAMAKOからの情報で初めて知った。昨年末、わざわざ名古屋からMAMAKOも見にきているはず、そう思うと気持ちが改まったよ。鳥取出身で山陰地方を生涯の拠点としたとあり、砂丘での作品など地方風景を背景に随分とモダンでシュールともいえる印象の作品が並ぶ。構図や人物配置の仕方も独特でいま見てもじつに新鮮で、寺山修司の映像を思わせる。寺山も写真を撮っているが、二人の作品を並べてみてみたいと思った。植田の実験精神とチャレンジを怒れずに新しいスタイルを追求していく姿は、中央とは離れた適度な距離がなせるものだったのかもしれない。
植田の著作「山陰の風土に生きて」のことばに「山陰の風土に生きて抒情を求め続ける」とある。当時モダンな表現だった写真を山陰という風土を意識しながら取り続けたところに、自称“生涯アマチュア精神”を発揮した写真家植田正治の魅力がある。彼の遺した家族写真も故郷の風景写真も原点は、そのまなざしに貫かれているのだろう。
補足1:翌日の6日八時過ぎに、そのTBS番組「朝スバッ!」を見ていたら、辰野金吾が東京駅ドームに残した干支彫刻ついて孫娘の辰野智子(建築家)や 首都大学の東秀紀教授がインタヴューを受けていたが、何故干支を掲げたかそして12のうちの8つを選んだ理由は謎のようだ。さらに続きの映像があって、これが興味深いことに!、同時期に辰野が手掛けた佐賀の武雄温泉楼門の天井四隅に残りの干支の動物が描かれているのだ。その干支は、東西南北方向に“卯、酉、午、子”の四つ。これが、東京駅に残されなかった干支の種類。辰野金吾は佐賀唐津出身だから、東西南北にあたる干支は郷土に置いておきたかったという心情からなのかもしれない。いずれにしても真意はナゾ、ということにしておくといろいろと想像が広がって楽しい。
東京駅北ドームを見上げる。
八角形のドームの下に空中回廊あり、ギャラリー出口とつながっていて上からコンコースをぐるりと見下ろすことができる。そして回廊の窓の上の三つ又の中心に水色の円形アイコンが見えるのが問題の干支像で合計で八つある。
天井ドームを見つめていて、八角形の枠に縁どられたクリーム色の天井がある図像と類似であることに気が付いた。
それが、以下の「方位吉凶早見盤」である。東西南北の方向に干支の“卯、酉、午、子”が記されているのが読み取れる。
補足2:今回から思うところあって、ブログタイトルを「日々礼賛日々是好日」と改題。
日々で始まる二つの熟語を繋いでみるとおもしろい漢字のならびになるので、これでいこうと思う。