水無月にはいる直前でしたが、中村好文さんの「食う寝る遊ぶ 小屋暮らし」を手に取り読ませていただきました。例によって著者自身のカラーイラストスケッチと手書き説明文がついた表紙の総ページ数112頁の書籍で、思わず手に取りたくなるような素敵な装幀です。表紙カバーをとると本体にもイラストが描かれていて、そこにはちょっとした著者の遊び心が表現されています。イラストの煙突から煙を上らせた山小屋にいたる曲がりくねった小経には、「The long and winding road that lead to yuor Hut」とあり、ビートルズの一曲に重ねられたメッセージが書きこまれていることに思わずニヤリとさせられるでしょう。
この本の中で、著者は2005年から信州浅間山のふもとの御代田(新潟への帰省の際に上信越自動車道で通りすぎる場所!)で、既存の小さな建物を改装増築してはじめた休暇時の田舎暮らしについてのあれこれを11章仕立てで書き綴っています。そこにあった建物は、もともとはこの辺りを開拓に入った老夫婦の住まいだったもので、床面積14坪の住宅というよりは小屋という呼び名に相応しいものでした。その建物を借りて改装した際に、著者の干支にもちなんで「レミング・ハット=旅鼠の小屋」と命名したんだそうです。ここにおいてようやくこの文章タイトルのハット=HUT(山小屋)につながってきます。それは日常の住まいである「HOUSE」と、週末や休暇をを過ごす山小屋「HUT」を対比してみることで、暮らしとか生活の質について、大きくは宇宙船地球号の環境とエネルギー問題について、思いつくままあれこれを書き綴ってみたいと思ったのでした。
序章の「憧れの休暇小屋」とは、南仏にある建築家コルビジュの“夏の休暇小屋”やアメリカのボストン郊外コンコードのH.D.ソローが暮らしたウオールデン湖畔の小屋を意識したものでしょうけれども(わたしはここに、岡倉天心が太平洋を眺めながら思索にふけったという五浦六角堂をくわえてみたいのですが)、若き日の著者は以下のように記しているんです。ちなみにこの当時の著者は、海を望む場所に小屋を建てて、日がな一日、海を眺めて過ごしたいという願望を長年にわたって持ち続けていたそうです(ほらね、やっぱり五浦六角堂に籠って瞑想する岡倉天心の心持ちと一緒でしょう)。
「私はこの小屋を電線や電話線、水道管やガス管などの便利な『文明をの命綱』で繋ぐのはやめようと考えている。・・・自然の恵みで真正面と向き合って暮らす質素で贅沢な休暇生活を送りたいのである。」
つまり、これは「不便も愉しい」ことに価値をおいた暮らすことの原点と向き合う日々を試行してみようという表明にほかなりません。ここでいう文明とつながれた“さまざまな菅”とは、例えれば病院のICUで重体に陥った病人につながれたチューブのようであり、いたずらに延命を図る現代医療行為の写し絵のようにも思えてくるのです。その命綱を繋ぐことをやめてみた時にみえてくる本当の姿とはいったいどのようなものでしょうか。
中村氏は、ここで“食う寝る遊ぶ”暮らしを実践する日々を嬉々と記しています。ときに敷地の畑での農作業、ベランダでの大工仕事や、ハム造りの愉しみ、晴耕雨読と音楽三昧の日々・・・。その姿を映した数編のショットから受ける印象は、どことなく“無印良品”の提唱するような、都会の豊かで裕福なエコロジーにも関心のある“ソトコト”世代のライフスタイルにどことなく似ている印象を与えますが、そのこと自体は決して悪いことではないだろうな、という気がします(これは批判ではありません。実際のところ、わたしも都会近郊の生活を享受し、無印良品の恩恵に預かっていますし、その製品のファンでもあります)。中村氏の述べるところの“食う寝る遊ぶ”暮らしは、ハウスとハットを往復しながらけっして無理がなく地に足がついた自然なものと見受けられます。
もうひとつ、この本の中で紹介されている小屋があり、それは「書斎兼風呂小屋」というもので、山小屋のある敷地内の対角線上、畑を隔てた位置にちょこんと存在しているかわいい建物なのです。建築面積はわずかに三畳半で、「起きて半畳、寝て一畳」の書斎と風呂を共存させた発想がたいそうおもしろく、設計者快心の居心地の良い建築空間に違いありません。山小屋の台所兼居間からすこしの距離を歩いてその「書斎兼風呂小屋」にたどりつくと、小机の前の突き上げ窓からは佐久平を挟んで八ヶ岳が望めるのだそうで、なんとうらやましい!ロケーションでしょうか。
この小屋にはまだ愛称はつけられていないようなので、その生まれた巣穴に戻ってきたような心持ちからして、著者への憧憬の想いを込めて(僭越ではありますが)次のように名付けたいと思います。
いわく、レミングネット=鼠の巣!小屋。これで「レミングハウス」(世田谷奥沢の著者が主宰する建築設計事務所)、「レミングハット」「レミングネット」と三つ揃いとなりました。どうですか、コウブンさん、気に入っていただけましたか?
(5/31書下ろし、6/1追補、6/3改定、著者の文体を模して習作を試みました)
この本の中で、著者は2005年から信州浅間山のふもとの御代田(新潟への帰省の際に上信越自動車道で通りすぎる場所!)で、既存の小さな建物を改装増築してはじめた休暇時の田舎暮らしについてのあれこれを11章仕立てで書き綴っています。そこにあった建物は、もともとはこの辺りを開拓に入った老夫婦の住まいだったもので、床面積14坪の住宅というよりは小屋という呼び名に相応しいものでした。その建物を借りて改装した際に、著者の干支にもちなんで「レミング・ハット=旅鼠の小屋」と命名したんだそうです。ここにおいてようやくこの文章タイトルのハット=HUT(山小屋)につながってきます。それは日常の住まいである「HOUSE」と、週末や休暇をを過ごす山小屋「HUT」を対比してみることで、暮らしとか生活の質について、大きくは宇宙船地球号の環境とエネルギー問題について、思いつくままあれこれを書き綴ってみたいと思ったのでした。
序章の「憧れの休暇小屋」とは、南仏にある建築家コルビジュの“夏の休暇小屋”やアメリカのボストン郊外コンコードのH.D.ソローが暮らしたウオールデン湖畔の小屋を意識したものでしょうけれども(わたしはここに、岡倉天心が太平洋を眺めながら思索にふけったという五浦六角堂をくわえてみたいのですが)、若き日の著者は以下のように記しているんです。ちなみにこの当時の著者は、海を望む場所に小屋を建てて、日がな一日、海を眺めて過ごしたいという願望を長年にわたって持ち続けていたそうです(ほらね、やっぱり五浦六角堂に籠って瞑想する岡倉天心の心持ちと一緒でしょう)。
「私はこの小屋を電線や電話線、水道管やガス管などの便利な『文明をの命綱』で繋ぐのはやめようと考えている。・・・自然の恵みで真正面と向き合って暮らす質素で贅沢な休暇生活を送りたいのである。」
つまり、これは「不便も愉しい」ことに価値をおいた暮らすことの原点と向き合う日々を試行してみようという表明にほかなりません。ここでいう文明とつながれた“さまざまな菅”とは、例えれば病院のICUで重体に陥った病人につながれたチューブのようであり、いたずらに延命を図る現代医療行為の写し絵のようにも思えてくるのです。その命綱を繋ぐことをやめてみた時にみえてくる本当の姿とはいったいどのようなものでしょうか。
中村氏は、ここで“食う寝る遊ぶ”暮らしを実践する日々を嬉々と記しています。ときに敷地の畑での農作業、ベランダでの大工仕事や、ハム造りの愉しみ、晴耕雨読と音楽三昧の日々・・・。その姿を映した数編のショットから受ける印象は、どことなく“無印良品”の提唱するような、都会の豊かで裕福なエコロジーにも関心のある“ソトコト”世代のライフスタイルにどことなく似ている印象を与えますが、そのこと自体は決して悪いことではないだろうな、という気がします(これは批判ではありません。実際のところ、わたしも都会近郊の生活を享受し、無印良品の恩恵に預かっていますし、その製品のファンでもあります)。中村氏の述べるところの“食う寝る遊ぶ”暮らしは、ハウスとハットを往復しながらけっして無理がなく地に足がついた自然なものと見受けられます。
もうひとつ、この本の中で紹介されている小屋があり、それは「書斎兼風呂小屋」というもので、山小屋のある敷地内の対角線上、畑を隔てた位置にちょこんと存在しているかわいい建物なのです。建築面積はわずかに三畳半で、「起きて半畳、寝て一畳」の書斎と風呂を共存させた発想がたいそうおもしろく、設計者快心の居心地の良い建築空間に違いありません。山小屋の台所兼居間からすこしの距離を歩いてその「書斎兼風呂小屋」にたどりつくと、小机の前の突き上げ窓からは佐久平を挟んで八ヶ岳が望めるのだそうで、なんとうらやましい!ロケーションでしょうか。
この小屋にはまだ愛称はつけられていないようなので、その生まれた巣穴に戻ってきたような心持ちからして、著者への憧憬の想いを込めて(僭越ではありますが)次のように名付けたいと思います。
いわく、レミングネット=鼠の巣!小屋。これで「レミングハウス」(世田谷奥沢の著者が主宰する建築設計事務所)、「レミングハット」「レミングネット」と三つ揃いとなりました。どうですか、コウブンさん、気に入っていただけましたか?
(5/31書下ろし、6/1追補、6/3改定、著者の文体を模して習作を試みました)