水無月に入ったばかりというのに、いきなり連日の気温三十度越えの真夏日で暑さが厳しい。横浜三渓園やまほろ近郊の薬師池公園のハナショブがぽつぽつと咲き始めた。もうすぐ、梅雨入りも近いのだろうか。アジサイも色づき始めて雨を恋しがっているかのようだ。
さて、ラリー・ネクテル Larry Knechtel(1940.8.4-2009.8.20)について書こうとするとき、その名前を意識したのは、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」(1970)における印象的なイントロを弾いていたピアニストとしてだろう。このとき、彼は30歳になる直前だったんだ。ポール・サイモンのゴスペルの伝統を踏まえた楽曲の素晴らしさ、アーティー・ガーファンクルの一世一代の歌唱がこの曲を後世に残るであろう名曲たらしめているのだけれども、ラリー・ネクテルのピアノ演奏なくしては、少なくともその輝きは幾分かの価値を減じていただろうと思う。
ラリー・ネクテルの風貌にこの機会に初めて接したが、がっしりした野性味のある印象のカントリーボーイらしく、晩年は牧場を経営していたらしい。ピアニストではあるがベースもいけたそうで、その華麗なセッション歴からは度量の広い人間性や器用さとともに、自己をわきまえて主役を立てることで、結果的にいぶし銀の輝きを放つセッションミュージシャンとしての存在感がある。
五年前の夏に、69歳でこの世を去ってしまったラリー・ネクテルの名前を最近、思わぬところで発見して驚いた。ここのところ聴き直している、竹内まりやのサードアルバム「LOVE SONGS」(1980年3月リリース)において。このアルバム中、「さよならの夜明け」「ロンリー・ウインド゛」「リトル・ララバイ」の三曲でネクテルの演奏が聴ける、ということを初めて“意識して”聴いた。とくにラストの「リトル・ララバイ」に於いては、冒頭からアコースティックピアノが前面にフューチャーされていて、「明日に架ける橋」から10年後のネクテルのピアノ演奏が存分に聴ける。
このアルバムの演奏クレジットを改めて見直すと、林哲司、山下達郎、加藤和彦といった日本人スタッフと編曲ジーン・ペイジ、ジム・ゴードン(ドラムス)そしてラリー・ネクテルといった西海岸の売れっ子ミュージシャンの競作から成り立っている作品であり、実に豪華な制作だったことがわかってきて、またまた驚かされた。個人的にも愛聴盤として、のびやかで心地よいサウンドと歌唱をよく夏の北軽井沢のアルバイト先で早朝に浅間山の噴煙を眺めながら聴いていたことを思い出す。竹内まりや侮れず、サードアルバムにして力まず臆することなくこの堂々たる歌唱、MGMビクターのRCAレーベル時代からさりげなくインターナショナルだった!
冒頭曲の「FLY AWAY」は、ピーター・アレン(1944-1992.6.18)のオリジナルで竹内まりやの歌唱で知った後、輸入盤を買いもとめて本人の歌声を聴いた。このアルバム「I COULD HAVE BEEN A SAILOR](1979)においても、ラリー・ネクテルは計四曲参加しているから、ほぼ「LOVE SONGS」と同時期の演奏、これも今回の“発見”である。
好きな曲やアルバム、アーティストをたどっていくと、それらがラリー・ネクテルでつながっていることが発見できて、なんだか不思議な気分になっている。確か竹内まりやも、当時の好きなミュージシャンとしてピーター・アレンの名前を挙げていて、この当時のサウンドは時代の潮流としてもアメリカ西海岸指向だった。いまのほぼ全面、山下達郎“夫”プロデュースの国内向けアルバムもよいけれど、この当時の竹内まりやはもうすこし背伸びして?アメリカを意識していたように思われる。若かったんだなあ、じつに。その分、いまは地に足がついて人生の深みを増してそれがアルバム制作姿勢にでている?昨年発表された市制周年記念で依頼をうけたという「わが愛しの出雲」なんて、タイトルからして大御所的のようだし・・・。
つけ加えると、竹内まりやの声質と歌唱はじつはジャズアレンジによく対応していると思うから、そちらの方面に幅を広げていったら面白いだろう。四枚目の「Miss M」中の「雨のドライブ」は本人の自作だけれども、清水信之のアレンジとピアノ+ドラム、ベース編成のジャズテイスト曲でその可能性を示していた。また2007年の「Denim」の冒頭、「君住む街角」は、まりや自身のプロデュースで服部克久の編曲によるビックバンドをバックにして、リンダ・ロンシュタットばりの歌唱を聴かせる。
このようなチャレンジを34年後のいま、軽やかにやってもらいたいものだとふと思うし、ぜひもっと聴かせてほしいな。
さて、ラリー・ネクテル Larry Knechtel(1940.8.4-2009.8.20)について書こうとするとき、その名前を意識したのは、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」(1970)における印象的なイントロを弾いていたピアニストとしてだろう。このとき、彼は30歳になる直前だったんだ。ポール・サイモンのゴスペルの伝統を踏まえた楽曲の素晴らしさ、アーティー・ガーファンクルの一世一代の歌唱がこの曲を後世に残るであろう名曲たらしめているのだけれども、ラリー・ネクテルのピアノ演奏なくしては、少なくともその輝きは幾分かの価値を減じていただろうと思う。
ラリー・ネクテルの風貌にこの機会に初めて接したが、がっしりした野性味のある印象のカントリーボーイらしく、晩年は牧場を経営していたらしい。ピアニストではあるがベースもいけたそうで、その華麗なセッション歴からは度量の広い人間性や器用さとともに、自己をわきまえて主役を立てることで、結果的にいぶし銀の輝きを放つセッションミュージシャンとしての存在感がある。
五年前の夏に、69歳でこの世を去ってしまったラリー・ネクテルの名前を最近、思わぬところで発見して驚いた。ここのところ聴き直している、竹内まりやのサードアルバム「LOVE SONGS」(1980年3月リリース)において。このアルバム中、「さよならの夜明け」「ロンリー・ウインド゛」「リトル・ララバイ」の三曲でネクテルの演奏が聴ける、ということを初めて“意識して”聴いた。とくにラストの「リトル・ララバイ」に於いては、冒頭からアコースティックピアノが前面にフューチャーされていて、「明日に架ける橋」から10年後のネクテルのピアノ演奏が存分に聴ける。
このアルバムの演奏クレジットを改めて見直すと、林哲司、山下達郎、加藤和彦といった日本人スタッフと編曲ジーン・ペイジ、ジム・ゴードン(ドラムス)そしてラリー・ネクテルといった西海岸の売れっ子ミュージシャンの競作から成り立っている作品であり、実に豪華な制作だったことがわかってきて、またまた驚かされた。個人的にも愛聴盤として、のびやかで心地よいサウンドと歌唱をよく夏の北軽井沢のアルバイト先で早朝に浅間山の噴煙を眺めながら聴いていたことを思い出す。竹内まりや侮れず、サードアルバムにして力まず臆することなくこの堂々たる歌唱、MGMビクターのRCAレーベル時代からさりげなくインターナショナルだった!
冒頭曲の「FLY AWAY」は、ピーター・アレン(1944-1992.6.18)のオリジナルで竹内まりやの歌唱で知った後、輸入盤を買いもとめて本人の歌声を聴いた。このアルバム「I COULD HAVE BEEN A SAILOR](1979)においても、ラリー・ネクテルは計四曲参加しているから、ほぼ「LOVE SONGS」と同時期の演奏、これも今回の“発見”である。
好きな曲やアルバム、アーティストをたどっていくと、それらがラリー・ネクテルでつながっていることが発見できて、なんだか不思議な気分になっている。確か竹内まりやも、当時の好きなミュージシャンとしてピーター・アレンの名前を挙げていて、この当時のサウンドは時代の潮流としてもアメリカ西海岸指向だった。いまのほぼ全面、山下達郎“夫”プロデュースの国内向けアルバムもよいけれど、この当時の竹内まりやはもうすこし背伸びして?アメリカを意識していたように思われる。若かったんだなあ、じつに。その分、いまは地に足がついて人生の深みを増してそれがアルバム制作姿勢にでている?昨年発表された市制周年記念で依頼をうけたという「わが愛しの出雲」なんて、タイトルからして大御所的のようだし・・・。
つけ加えると、竹内まりやの声質と歌唱はじつはジャズアレンジによく対応していると思うから、そちらの方面に幅を広げていったら面白いだろう。四枚目の「Miss M」中の「雨のドライブ」は本人の自作だけれども、清水信之のアレンジとピアノ+ドラム、ベース編成のジャズテイスト曲でその可能性を示していた。また2007年の「Denim」の冒頭、「君住む街角」は、まりや自身のプロデュースで服部克久の編曲によるビックバンドをバックにして、リンダ・ロンシュタットばりの歌唱を聴かせる。
このようなチャレンジを34年後のいま、軽やかにやってもらいたいものだとふと思うし、ぜひもっと聴かせてほしいな。