南青山五丁目の交差点から、こどもの城青山劇場を右手前方に望んで通称骨董通りを渡り、さらにワンブロック進んだ青学記念館手前を左に入る。そのすぐ先の貸しギャラリー「蔦サロン」と「蔦珈琲店」がある三階建てのやや古びた白い鉄筋コンクリート建物が、建築家山田守(1894-1966)の知られざる?旧自邸だ。各階の薄い庇と建物の角がやや丸みを帯びているところが特徴的、グレーと水色の中間くらいのペンキに塗られたベランダの手すりと調和している。竣工した当時(昭和30年代と思われる)はさぞかしそのモダンぶりが目立っていただろうと想像されるが、レンガ塀の向こうの庭の桜も大きく育った枝ぶりを拡げている。
山田守自邸が青山学院のすぐ隣、南青山に存在していることが意外な感じがする。この旧自邸を訪れた機会に、建築家山田守とその代表的な建築をめぐっての事柄をいくつか記すことにしよう。
山田守は、岐阜県出身で1920年代の大正時代に近代建築運動の先駆けである“分離派建築学会”の有力メンバーだった人物。元逓信省官僚となり省庁建築に関係したあと、東海大学に転身して建築学科の礎を築いた。ともに東京オリンピックの1964年に竣工した「京都タワー」や「日本武道館」など、誰でも知っている建物の設計者なんだけれども、名前をあげられる一般人は少なくて、その評価も建築以外の観点から話題にされることが多い建築史上微妙な位置にいる存在だ。だいいち名前からして、マンガの主人公みたいで拍子抜けするくらい平凡?、その実績の割にはちょっと不運な印象をもつ。なんだか建築家としては、主義主張を述べるより状況にあわせて柔軟で器用な人だった気がして、法隆寺夢殿を模したといわれる武道館などは、本人の指向というよりも東京オリンピックを控えた政治的な思惑に従った産物だったのだろう。その正統派とは少し異なる建築家人生をたどるとなかなか興味をひかれる存在だ。ちなみに同じ分離派メンバーで、その後明治大学建築学科教授になった堀口捨巳は茶室や日本庭園の研究で有名だけれど、山田と同年代で同郷岐阜の出身。こちらのうほうが、伝統に回帰したといわれる分敬意を払われているかな。
個人的に山田による代表的な建築についての随想をあるがままに。まず、京都タワーは商業施設とホテルとローソク型の展望塔が合わさった構成といい、構造的にも実にユニークなものでけっこう好きな建物だ。竣工当時は賛否両論、景観論争の走りのようなものだったらしいが、時代の経過とともに「和ローソク」を思わせる展望台が夕闇に浮かぶ姿は、それなりに古都となじんできたようで、東寺五重の塔とともに京都駅周辺のシンボルとなっているのだろう。その時代の受け取られ方の変遷がおもしろく、興味を覚える。
地下にある浴場施設はたしか午前7時から営業していて、早朝深夜バスで京都駅に到着した際には目覚めのリフレッシュに利用させてもらったり、夕方帰りの新幹線の時間があるときには、展望台から盆地に広がる碁盤の目の街並みを俯瞰して感慨にふけり、そのあと地階に降りてひと風呂浴びせさせてもらってから帰路に就くなど、おおいに利用させてもらって実はとても愛着のある存在だ。
日本武道館はオリンピック柔道大会の後、ビートルズ来日演奏会場をきっけかに日本を代表するロックコンサート会場としてその名前は内外に轟いているのだから、そのような用途は想像していなかったであろう本人も草場の陰でさぞかし驚いているだろう。まったく、建築も人生もそんな意図しない要素のなかで新しい局面が展開されていくのは、まあ一緒なのかもしれない。
東海大学湘南校舎の基本配置計画と主な初期校舎群は、やはり山田守の設計で特徴あるアール角と螺旋状スロープ、細い水平ラインの手すりは、一目で山田の意匠と印象づけられる。やや日本離れしたかの広々した湘南キャンパスはじつに気持ち良いだけれど、総じて大味な印象は否めない。まるで、東海大学そのものの日本の大学における微妙なポジションを象徴しているようでもある。ここのあたりが、建築家山田守としての脇の甘さ?ともとられない、建築史におけるやや評価の定まりにくい位置加減なんだろうと思うのだ。
さて、南青山の白き自邸に入ってみる。古びた螺旋階段を上がると二階がサロンだ。その大ぶりの鉄扉はグレーに塗られた観音開きで、やはり弧を描いているのが山田らしい。扉の上の壁には、牛乳ビンの底のような丸くて厚いガラスが埋め込まれている。鉄・コンクリート・ガラスと素材からして完全にモダニズム建築の要素がそろっている。室内は意外にも、和風数寄屋の造りで奥の間には囲炉裏を切った茶室の間もあることに驚かされる。お庭に面した方向は、大きなアクリル面(ガラスではなく)がはめこまれ、外の緑陰が飛び込んできて実に和風モダン。適度に自然のままにまかせたお庭風景が都会の真ん中を一瞬わすれさせるかのようだ。このような情景も“市中の山居”のたたずまいというのだろうか。こうしてみると山田守も西洋モダニスト一辺倒ではなくて、和風にも接近して自分なりのアレンジを加えた意匠を試みている。外観がモダニズム、室内のある部分は和風を取り入れて融合を図っているところが、やはり日本的なのだ。早すぎた巨匠にして遅れてきた変革者という山田守への独特な評価は、ある意味肯定できる名誉ある称号なのかもしれない。
訪れたときは、素焼き主体の焼締陶器(作陶:山本安朗)と古流式お花の室内によくあったしつらえ、ひと休みに抹茶を出していただいた。流れているBGMは環境音楽風であり、室内空間のなりたち・展示品・音の組み合わせによく気が配られている感じがよかった。もう少し、内装の保持に手が回らないのかと惜しまれるが、うーんこれも時代の流れをあるがままに受け止めてやがて朽ちていくかもしれない予感が漂う山田守自邸らしくて、味わい深くこのままでいいのかもしれないと思った。
帰り際、Mが愛おしい感じで建物の裏手を眺めていたのも何か感じるとことがあったのかもしれない。退屈させちゃうかもと心配したけど、ホント好奇心旺盛なんだね、とてもうれしいよ。
さて、ここを出ると次は青山通りを渡って、それぞれにとって思い出があるなつかしの(20数年ぶり?)落合恵子さんが主宰する、絵本のクレヨンハウスへと向かう。そして、表参道の歩道橋から見事なケヤキ並木越しに世界のファッションブランドビルの数々を眺め、神宮前の横町を抜けてワタリウム美術館、「塔の家」と進み、本日の締めくくりは、外苑銀杏並木の先の聖徳記念絵画館へと、まだまだ建築・美術館周遊の旅は続く。
(6/18書始め、6/21初校、6/26校正)