現代川柳『泥』二号
・・・続き
幽玄美や余情美の世界を論ずる程の知識を持ち合わせてはいないが、これらに共通していることは単に大自然の生命(いのち)の賛歌や、はかなさばかりを表白したものではなく、根底には常に自我を客観視させたり人間を愛し、いのちを見つめるという真摯な姿勢がありそれが日本の文化(芸術)作品をハイレベルにして来たと言っても過言ではないように思っている。
あの雄大な最北の景色は無言のうちに自然の厳しさやはかなさを物語っていた。一本の樹も存在していない平野を現実に見たときの衝撃や、その平野で潮風に揺れながら背を低く地を這うようにしか伸びられずに咲いている草花の健気さ、また想像を絶する風力を待ち凛と立つ執念を見たと同時に、それでもなお其処で咲き続ける草花の誇りや歓喜の声を聞いたような錯覚と、飽くなき人間の限りない知恵を見たような気がした。
雄大な自然にそれしか存在していない現実・・・。
自然と人造物が見事にマッチした不思議な世界が語りかけていた緒々の台詞・・・。
そこには装飾を必要とはしない「簡素」が創り出す「美」を実感せずにはいられなかった。
「ひらかな」が日本が創り出した省略の究極の美であるということや、非常に合理的で何
ひとつの無駄もないと言われている茶道は「簡素美」そのものであると言われている。
また秀逸な文学作品は美辞麗句によって、飾り立てたものに存在するものではないというように、美しさの価値には、外的に華美、華麗なものには一過性の感動しか湧かないと言うことからも、省略の必要性を痛感せざるをえない。そして簡略、簡素がいかに人の心を打つものであるかは、あの風景に感動したという事からも理解できる。
最果てを人間臭くする風車 千野 秀哉
この句は、その北海道川柳大会で知事杯を受賞した作品である。大会前日、さいはての地を散策しながら句作したと聞いている。あの巨大な金属の風車のひとつひとつに作者は
「人間」の姿を見て、「人間」の匂いを感じたのだろうか。
悠然と立つ日本最北端の風車は人間と確かに同化していた。
人間を拒み続けてきたであろう厳しい自然は人間と一体化し、金属の林を育て新しい自然を造りそこに在った。
「人間臭く」としか言ってはいない言葉の底辺を流れている作者の驚き、悲しみ、怒り、自然愛に触れられたと同時にこの作品にもまた「簡素の美」を見たような感慨を味わっている。
・・・続き
幽玄美や余情美の世界を論ずる程の知識を持ち合わせてはいないが、これらに共通していることは単に大自然の生命(いのち)の賛歌や、はかなさばかりを表白したものではなく、根底には常に自我を客観視させたり人間を愛し、いのちを見つめるという真摯な姿勢がありそれが日本の文化(芸術)作品をハイレベルにして来たと言っても過言ではないように思っている。
あの雄大な最北の景色は無言のうちに自然の厳しさやはかなさを物語っていた。一本の樹も存在していない平野を現実に見たときの衝撃や、その平野で潮風に揺れながら背を低く地を這うようにしか伸びられずに咲いている草花の健気さ、また想像を絶する風力を待ち凛と立つ執念を見たと同時に、それでもなお其処で咲き続ける草花の誇りや歓喜の声を聞いたような錯覚と、飽くなき人間の限りない知恵を見たような気がした。
雄大な自然にそれしか存在していない現実・・・。
自然と人造物が見事にマッチした不思議な世界が語りかけていた緒々の台詞・・・。
そこには装飾を必要とはしない「簡素」が創り出す「美」を実感せずにはいられなかった。
「ひらかな」が日本が創り出した省略の究極の美であるということや、非常に合理的で何
ひとつの無駄もないと言われている茶道は「簡素美」そのものであると言われている。
また秀逸な文学作品は美辞麗句によって、飾り立てたものに存在するものではないというように、美しさの価値には、外的に華美、華麗なものには一過性の感動しか湧かないと言うことからも、省略の必要性を痛感せざるをえない。そして簡略、簡素がいかに人の心を打つものであるかは、あの風景に感動したという事からも理解できる。
最果てを人間臭くする風車 千野 秀哉
この句は、その北海道川柳大会で知事杯を受賞した作品である。大会前日、さいはての地を散策しながら句作したと聞いている。あの巨大な金属の風車のひとつひとつに作者は
「人間」の姿を見て、「人間」の匂いを感じたのだろうか。
悠然と立つ日本最北端の風車は人間と確かに同化していた。
人間を拒み続けてきたであろう厳しい自然は人間と一体化し、金属の林を育て新しい自然を造りそこに在った。
「人間臭く」としか言ってはいない言葉の底辺を流れている作者の驚き、悲しみ、怒り、自然愛に触れられたと同時にこの作品にもまた「簡素の美」を見たような感慨を味わっている。