北海道現代川柳『泥』・・・今を生きる自分になぜ川柳か
今の自分にとって、川柳はいったい何なのであろう。
そんな問いかけを、自分自身にしてみても、もちろん明確な答えなどは出てこない気がする。
過去にも、何度かこのようなテーマの文を、書いた記憶があるのだが、その都度違った角度からペンを進めていたに違いない。
「そんなのは、一貫性の欠如だ」と、指摘されるかもしれない。
そう言われると、「うん、まさしくその通り。」と、自分自身も素直に納得してしまいそうである。
「あなたは、なぜ山に登るのですか。」
「そこに山があるから。」
この会話が、そっくりそのまま当てはまっている。
現在の自分にとって、川柳はカタルシス(浄化)であると言ってもよさそうだ。
もう、かなり長い間、川柳と関わってきた。さっぱり上達の兆しは無い。にもかかわらず川柳を続けているのは、最も短い十七音字の世界に自分の想いを、いかようにも表現できる喜びがある。
その日その時の、心を吐き出す瞬間が、浄化であり、充実であると言っても良い。
川柳をつくっているとき、そして、今こうして川柳にかかわる文章を書いている時もが、カタルシスの時間になる。
その時々の、運と気まぐれに支配されながらの生きざま死にざま、そして死にざまに及ぶまでの息継ぎに、自分にとって川柳は、格好のステージとなっている。
「あなたの趣味はなんですか。」と、聞かれると、何の躊躇もなく、「川柳です。」と言えるようになったのは、いつ頃からだったか。
どうして、そう言えるようになったのか。
達観によるものなのか、それとも川柳に寄せる愛着なのか、いまもって定かではない。
しかし、今のところ川柳を止めようなどという気が、微塵も湧いてこないところから考えると、自分にとって川柳は、もう生活の一部分になりきってしまっていると言えるような気がする。
作品を、毎日創っているわけでもない。むしろ創らない日の方が、はるかに多い。にもかかわらず何らかのかたちで、川柳に関わっている。
図書館で本を読みあさるのも、美術館へ足を運ぶのも公民館活動に参加するのも、結局すべてが川柳に還元されているような気がする。
やはり、カタルシスなのである。
これでいいのだというゴールの見えない世界、奥の深さにたっぷりと魅せられて、今日もまた、さまよい続けている。
今の自分にとって、川柳はいったい何なのであろう。
そんな問いかけを、自分自身にしてみても、もちろん明確な答えなどは出てこない気がする。
過去にも、何度かこのようなテーマの文を、書いた記憶があるのだが、その都度違った角度からペンを進めていたに違いない。
「そんなのは、一貫性の欠如だ」と、指摘されるかもしれない。
そう言われると、「うん、まさしくその通り。」と、自分自身も素直に納得してしまいそうである。
「あなたは、なぜ山に登るのですか。」
「そこに山があるから。」
この会話が、そっくりそのまま当てはまっている。
現在の自分にとって、川柳はカタルシス(浄化)であると言ってもよさそうだ。
もう、かなり長い間、川柳と関わってきた。さっぱり上達の兆しは無い。にもかかわらず川柳を続けているのは、最も短い十七音字の世界に自分の想いを、いかようにも表現できる喜びがある。
その日その時の、心を吐き出す瞬間が、浄化であり、充実であると言っても良い。
川柳をつくっているとき、そして、今こうして川柳にかかわる文章を書いている時もが、カタルシスの時間になる。
その時々の、運と気まぐれに支配されながらの生きざま死にざま、そして死にざまに及ぶまでの息継ぎに、自分にとって川柳は、格好のステージとなっている。
「あなたの趣味はなんですか。」と、聞かれると、何の躊躇もなく、「川柳です。」と言えるようになったのは、いつ頃からだったか。
どうして、そう言えるようになったのか。
達観によるものなのか、それとも川柳に寄せる愛着なのか、いまもって定かではない。
しかし、今のところ川柳を止めようなどという気が、微塵も湧いてこないところから考えると、自分にとって川柳は、もう生活の一部分になりきってしまっていると言えるような気がする。
作品を、毎日創っているわけでもない。むしろ創らない日の方が、はるかに多い。にもかかわらず何らかのかたちで、川柳に関わっている。
図書館で本を読みあさるのも、美術館へ足を運ぶのも公民館活動に参加するのも、結局すべてが川柳に還元されているような気がする。
やはり、カタルシスなのである。
これでいいのだというゴールの見えない世界、奥の深さにたっぷりと魅せられて、今日もまた、さまよい続けている。