川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

カタルシス・・・池さとし(北海道川柳)

2007年09月25日 | 川柳
     北海道現代川柳『泥』・・・今を生きる自分になぜ川柳か

 今の自分にとって、川柳はいったい何なのであろう。

そんな問いかけを、自分自身にしてみても、もちろん明確な答えなどは出てこない気がする。

 過去にも、何度かこのようなテーマの文を、書いた記憶があるのだが、その都度違った角度からペンを進めていたに違いない。

 「そんなのは、一貫性の欠如だ」と、指摘されるかもしれない。

 そう言われると、「うん、まさしくその通り。」と、自分自身も素直に納得してしまいそうである。

 「あなたは、なぜ山に登るのですか。」
 「そこに山があるから。」

 この会話が、そっくりそのまま当てはまっている。

 現在の自分にとって、川柳はカタルシス(浄化)であると言ってもよさそうだ。

 もう、かなり長い間、川柳と関わってきた。さっぱり上達の兆しは無い。にもかかわらず川柳を続けているのは、最も短い十七音字の世界に自分の想いを、いかようにも表現できる喜びがある。

 その日その時の、心を吐き出す瞬間が、浄化であり、充実であると言っても良い。

 川柳をつくっているとき、そして、今こうして川柳にかかわる文章を書いている時もが、カタルシスの時間になる。

 その時々の、運と気まぐれに支配されながらの生きざま死にざま、そして死にざまに及ぶまでの息継ぎに、自分にとって川柳は、格好のステージとなっている。

 「あなたの趣味はなんですか。」と、聞かれると、何の躊躇もなく、「川柳です。」と言えるようになったのは、いつ頃からだったか。

 どうして、そう言えるようになったのか。

 達観によるものなのか、それとも川柳に寄せる愛着なのか、いまもって定かではない。

 しかし、今のところ川柳を止めようなどという気が、微塵も湧いてこないところから考えると、自分にとって川柳は、もう生活の一部分になりきってしまっていると言えるような気がする。

 作品を、毎日創っているわけでもない。むしろ創らない日の方が、はるかに多い。にもかかわらず何らかのかたちで、川柳に関わっている。

 図書館で本を読みあさるのも、美術館へ足を運ぶのも公民館活動に参加するのも、結局すべてが川柳に還元されているような気がする。

 やはり、カタルシスなのである。

 これでいいのだというゴールの見えない世界、奥の深さにたっぷりと魅せられて、今日もまた、さまよい続けている。
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ことばの海から・・・佐藤容子(北海道川柳)

2007年09月25日 | 川柳
  現代川柳『泥』・・今を生きる自分になぜ川柳か

 人間には本来、自己表現をしたいという欲求と、喜怒哀楽を、何らかのかたちで残しておきたいという願望があり、それが、ある人にとっては、音楽であったり、絵画であったり、陶芸であったりする。そうした欲求や願望のひとつに、川柳も存在しているのだと思うのだが、では、なぜ川柳なのかとなると、私の場合には、わずか十七音字で、それらを表現出来る「ことば」の魅力にある。

 しかし、ことばの世界が持っている幅や奥深さに魅かれながらも、常に、ことばの難しさに直面し、度々ことばの海に溺れてしまうことを経験している。

 そのため、内面に渦巻く大なり小なりの感情や、感動を決して的確に表現できないでいる。

 ことばの数などを考えてみたこともないが、ひとりの人間が一生に使えることばなどは、ほんの一握りに過ぎないであろうし、なにかを表現する場合、そのことばが包含しているイメージなども考えると、ひとつのことばに決めることは、広々とした砂漠の中から一本の針を見つけるような確率なのかも知れない。

 それと同時に、ことばの海に身を委ねながら、ことばが持っているチカラのようなものが、想像以上のものであることに痛感することがある。

 また、ことばから、息を感じることがあったり、香りや、彩、温度という獏としたものを感じることもある。こうした体験は大抵の場合、読み手の立場になった時に経験するものなのだが、そうした作品に出会えたときの感動は、ときにはその作者への憧憬へと繋がり、ことばの持っている無限の可能性や、宇宙性を痛感してしまうときでもある。

 そして、千変万化のことばと、作者の人間性に触れながら、川柳の愉しさを満喫している。

 「ことばは人そのもの。人生そのものが、ことばである。」と言った人がある。

 確かに、そう言われてみると、穏やかな人は、穏やかなことばを、論理思考の人は、論理的なことばを使っているし、また、自信のあるときのことばと、そうでない時のことばでは、同一人物であっても、明らかに差異が表れている。

 ことばに敏感になり、ことばを感じることは、突き詰めていくと、自分を探すことであり、また、他者を知ることではないだろうか。

 真剣にことばを探し、真摯に作品を書き、読む・・・。

私にとって、川柳とは、「ことば」を通して「人間」を見詰めることなのである。

 十七音字という限定された枠内でありながら、無限の可能性の秘められている川柳ということばの世界で、ことばを削り、ことばを膨らませ、暗中模索を繰り返している作業は、まさしく、私を削り、わたしを膨らませながら、わたしを磨く小さくて、大きな宇宙なのではないかと思っている。
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