現代川柳『泥』第三号 佐藤容子
こどもの頃、2003年に特別の期待感を抱いていた。
笑われるかも知れないのだが、あの「鉄腕アトム」の誕生日が、2003年4月7日と言われているからだ。
限りなく遠い、その未来は、想像することさえ容易ではなかった。しかし、その誕生日が着実に、目前に迫って来ている。
今、アトムに近いロボットが、各分野で開発され、人間の手足となって活躍していることや、多少ではあるが、感情を表現し、心のケアに役立っているロボットも出現していることは確かなことだが、ハートを持ったロボットはもう少し先のことになりそうである。
そういう意味では、残念だが2003年には、鉄腕アトムは、誕生できなかったことになるのかも知れない。
それにしても、手塚治虫氏の想像力や思考力が、全くの空想ではなく、充分に現実的だったことには、改めて驚いてしまう。そしてあの頃、漫画を読み終えた後に、なぜか背筋がピンとなるような感覚が残っていたことなどを思い出すとき、そこには、彼が自然の保護、生き物への賛歌、科学文明への疑い、反戦などをテーマにして書き続けたといわれている姿勢に納得し、偉大な漫画家だったということを改めて再認識してしまう。
面白く、滑稽なはずの漫画にメッセージをプラスし、さらに奇想天外な発想を繰り広げた、手塚修虫ワールドのキャラクターの面々が今は懐かしい。
テーマを持ち、それを表現することは、川柳にも共通することであるし、可笑しさや、滑稽が求められているという点では、漫画も川柳も相通じ合うものがある。
しかし、楽しませることや、笑わせることが、いかに難しいことであるかは、すでに周知の通りである。
2055年、アトムは、ロボット博物館の展示品となっているのだが、その頃、どのような川柳が存在しているのだろうか。人間が、人間としての感情を維持しているのだろうか。
ハートを持ったロボットたちが、こころの機微を川柳に詠んでいるのだろうかなどと、童心になって思いを馳せているみるのだが、貧しい想像力からは、豊かな発想は浮かんでこない。
五十年後の川柳を考え、五十年前の川柳と、今の川柳を見つめてみる・・・。
生命の賛歌が時空を超えて聞こえてくるような気がする。
例え、時代が変わろうと川柳の未来に、限りない夢と希望を持ち続けていたいものである。
こどもの頃、2003年に特別の期待感を抱いていた。
笑われるかも知れないのだが、あの「鉄腕アトム」の誕生日が、2003年4月7日と言われているからだ。
限りなく遠い、その未来は、想像することさえ容易ではなかった。しかし、その誕生日が着実に、目前に迫って来ている。
今、アトムに近いロボットが、各分野で開発され、人間の手足となって活躍していることや、多少ではあるが、感情を表現し、心のケアに役立っているロボットも出現していることは確かなことだが、ハートを持ったロボットはもう少し先のことになりそうである。
そういう意味では、残念だが2003年には、鉄腕アトムは、誕生できなかったことになるのかも知れない。
それにしても、手塚治虫氏の想像力や思考力が、全くの空想ではなく、充分に現実的だったことには、改めて驚いてしまう。そしてあの頃、漫画を読み終えた後に、なぜか背筋がピンとなるような感覚が残っていたことなどを思い出すとき、そこには、彼が自然の保護、生き物への賛歌、科学文明への疑い、反戦などをテーマにして書き続けたといわれている姿勢に納得し、偉大な漫画家だったということを改めて再認識してしまう。
面白く、滑稽なはずの漫画にメッセージをプラスし、さらに奇想天外な発想を繰り広げた、手塚修虫ワールドのキャラクターの面々が今は懐かしい。
テーマを持ち、それを表現することは、川柳にも共通することであるし、可笑しさや、滑稽が求められているという点では、漫画も川柳も相通じ合うものがある。
しかし、楽しませることや、笑わせることが、いかに難しいことであるかは、すでに周知の通りである。
2055年、アトムは、ロボット博物館の展示品となっているのだが、その頃、どのような川柳が存在しているのだろうか。人間が、人間としての感情を維持しているのだろうか。
ハートを持ったロボットたちが、こころの機微を川柳に詠んでいるのだろうかなどと、童心になって思いを馳せているみるのだが、貧しい想像力からは、豊かな発想は浮かんでこない。
五十年後の川柳を考え、五十年前の川柳と、今の川柳を見つめてみる・・・。
生命の賛歌が時空を超えて聞こえてくるような気がする。
例え、時代が変わろうと川柳の未来に、限りない夢と希望を持ち続けていたいものである。