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現代川柳『泥』・・・・細川不凍作品評

2007年09月20日 | 川柳
  一句へのこだわり 佐藤 容子 作品  

 観賞と違って作品評は痛みを伴うものだ。評の一言一句が自分に跳ね返ってくるからだ。「忌憚のない批評を」に応えるべく、気を引き締めての執筆となった。

<佐藤容子>作品
             某日の奥歯どくんと闇を生む

 今ひとつインパクトに欠けるのは、上五が漠然としているからだ。導入部分がぼやけていると、読む側は鑑賞という心のスクリーンに鮮明な映像を結ぶのは難しい。上五を‘三月三日‘と具体的に示せば、女性心理の屈折感を描いて大変奥の深い作品になる。あるいは、‘極月の‘とすれば追い詰められた人間の危うさが窺えるし、‘八月の‘とすれば戦争への暗澹たる想いの表白になる。「奥歯どくんと闇を生む」が抜群にいいだけに、なんとも惜しい。ここは作者のサービス精神の現れだと解釈したい。

            シャキシャキと過去切る未練なき鋏
            傷はまだ乾かず他人を避けている

 いずれも常識のカテゴリーを抜け切れていない句だ。一句目の「未練なき」は答え(内意)であって作品の背後にしずませておくべきもの。二句目、「傷」が傷の体を成している間は「他人」を避けるのは当然のこと。意地悪精神を発揮して身近な存在を据えた方が読む者には感興が湧く。

            もう少しいひとり遊びをしたい砂

 さらりと詠んで内実の深い句。「もう少し」の切なさが胸に韻く。このままでも十分佳句なのだが、僕には悪い癖があって一句の中で遊んでしまう。この句でも「砂」を「くぎ」に替えて遊んでしまった。丑三つ参りのクギである。たった一語で句意は百八十度ひっくり返ってしまうのだから短詩型は面白い。それ故の恐ろしさもあるが。

            闇へ手を伸ばす勇気をさくらから
            全身を隙なく洗う春の闇
            桜からさくらを歩く疵ふせて
            街は今もも色十指遊ばせて
            言ってなお鎮まぬ海がある舌下

 これだけの佳句を揃え得るのは、作者に確かな技術が備わっているからだ。近年は柔軟性と共に、機微を捉えるに敏な繊細な感性にも磨きがかかり、そのはたらきが作品に活力を与えている。自己を冷静に客観視できるからであろう。女性抒情作品にありがちな甘さを払拭しているのがいい。今後は心から滲み出てくるような抒情句を期待したい。
 



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