川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

カサブランカのように・・・吉田州花

2007年09月06日 | 川柳
               現代川柳『泥』二号

      何の予告もなく、現代川柳「泥」の創刊号は届いた。

 心持良い驚きでゆっくり頁を開いた。
容子 テイ子 さとし各氏に三様の思慕の想いを抱いてきた年月があっただけに「泥」の創刊に送る拍手は熱く強い。

      三人ともに個人誌を持っても充分な力の持ち主である。

どんなきっかけで、三人での柳誌の発行が決まったかということも興味がわく。
 参加したいと思う魅力的な柳誌を捜し求めるより、自分達で望む形の柳誌を作ろうではないかと、そんな思いでこの柳誌は出来上がったに違いないと、誌面から熱い熱気を受け止めている。

 発行は年二回、三年間六号までを一応のハードルとするという「泥」を、かっこ良過ぎるなあと、眩しくながめている。

 泥ってなんだろう、と思った。
苗を植え込む水を含ませた土、移植する花や木を根付かせる為の水をたっぷり与えた土
川柳を咲かせるための泥なのだと思った。

 川柳の花の色 形 姿 香りを三年間楽しませて頂こうと思う。
       そして二号の自由に走り出した各三十句に出会う。

青葉テイ子
            怠慢という名の背骨猫じゃらし
            酸っぱさ曳きずっている 蓑虫
            凭れ合うすすきと飢餓を語ろうか
            静脈が浮き出てきたぞ 別離以後
            目が落ちてゆくよいわれなき遺伝子

 多忙な日常の中でテイ子さんは、ともすれば休みたくなる自分を叱咤激励しているのかも知れない。
 多くの柳人達と、何処で最初に出逢ったか記憶のない中でテイ子さんとの初対面は劇的でさえあった。
 第一印象で感じた情熱的な人は今も変わらず、聡明で明るく、お料理上手、やりくり上手もてなし上手は後で知ることになる。
 てきぱきと物事を処理し、くるくると陽気にジルバを踊る彼女は素敵な絵になる人である。

      そして句は、そんな彼女とかなりの距離を私に感じさせる。

 ジルバを踊る彼女のようにもっと華麗に、絵を見る研ぎ澄まされた感性のように、もっと鋭く歯切れよく書き込んで欲しい。

 「泥」という恵まれた舞台の上で、今まで蓄積してきた技術と情熱と思いを余すところなく吐き出して欲しいと思う。
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異見・・・西村忠兵衛

2007年09月06日 | 川柳
               現代川柳『泥』二号

・・・続き。

             犬の目の高さを越えて鬼灯とは

 鬼灯がひたすら伸びる。高いも低いも犬の目が勝手に決めているだけだ。
美しいと思われようとして咲いている花はひとつもない、と言った人がいる。素朴実在の強さ。

             秋は其処 白紙に戻す足の裏

 足の裏― 足跡。春が過ぎ夏も終わりに近づいて、いいにつけ悪いにつけ、それなりに歩いてきた。人生ってこのように、気をとりなおして、いつも小さな覚悟の連続だ。
健気。

             魚臭の手 性善説を曖昧に

 人は、人以外を犠牲にして成り立っている。魚を殺して食った手で、明日は人を助けるかもしれないし、そうしないかもしれない。なんとか辻褄を合わせてやっていくものだ。いいじゃないか。

             さすろうて候ページ繰り続け
             ナーバスな言葉に揺れている芒
             銀の雨 寒い冷たい 極刑か

 さすらう― ページを操る。ナーバス―芒。寒い冷たい― 極刑。どれも予定調和である。屈折がない。つまり、あたりまえのことを気の利いたことばで言っただけに終わっている。このパターンでは抽象画になりがちだ。もっと具象化してほしい。

             「美しき偽善」 青葉テイ子

           目が落ちてゆくよいわれなき遺伝子

 よくない結果が他者によってもたらされたものならともかく、持ちまえの遺伝子による場合は、そっくり自分で引き受けるしかない。そして、遺伝子を自分で選ぶことができなかった。ああ。

           マグマ噴くああ美しきかな偽善

 偽善の外見は美しい。しかし作者はそんなことを言っているのではない。人生は演技だ、と割り切って偽善を肯定している。そこに屈折がある。

           耳のうしろからドミノ倒しの炸裂音

 ほんとうは忍び寄る音なのだ。しかし、たとえば死のように、だれもドミノ倒しから逃れられない。それが音のない炸裂音なのだ。

           酸っぱさを曳きずっている 蓑虫

 「すっぱさを曳きずる」がおもしろい。明確な説明はできないが、人生そのものが不明確なのだ。しかしすっぱいと感じることがある。

           なんの謀議小耳に刺さって離れない
           棘ちくり血止めの策はないものか

 器用に述べただけで、迫ってくる内容がない。頭で書かずに眼で書いてほしい。
そうすればもっと具象画になる筈だ。批評眼で凝視することをいつも考えて欲しい。
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異見・・・西秋忠兵衛

2007年09月06日 | 川柳
               現代川柳『泥』二号

 お三人ともベテランで、ぼくより先輩にあたるのではないだろうか。そのぼくが評を書くのは、おこがましくて恐れ入る。しかし、傍目八目ということもあるから、参考になるかもしれない。

 異見は善し悪しというより好き嫌いの問題かもしれないことを前提として。

 「陽を抱く」池さとし
            八・十五静脈瘤と向かい合う

 風化しつつある敗戦忌を「静脈瘤」と言い得て妙である。風化を戒める姿勢が「向かい合う」に表現されている。有事法をはじめ、そういう状況である。
   
            有事だ有事だ蟻の巣をつつく

 まっとうに生きている蟻の巣をつつく。パニックになった蟻たちは散る。なかには国道を渡る途中で轢き殺されたものもいる。健忘症に棒を持たせると怖い。だが蟻には、また営巣をする健気がある。

             団欒の木を根こそぎ奪った 棺
 
 木立いっぽんが伐られて棺になった。木立ちの団欒は崩壊した。数本のなかの一本という算数では処理できない本質がある。家族とはそういうものだ。

             くもの巣に唯物論がぶらさがる
 
 この唯物論は、厳密な意味ではなかろう。くも自身にしろ、別のものにしろ意図的でなくただぶらさがった。実在とはそのように素朴なものだ。

             だれも知らないこうもり傘の明るい死

 個人の生死など全体から見れば日常茶飯の一つにすぎない。だから、こうもり傘というありふれたものであり、明るい死なのだ。しかし、本人にとって死はすべてである。
その書いてない表現が迫ってくる。

             携帯の波に溺れているにんげん
             しあわせの尾は掴んだかに見えた
             朝市が光る歯切れのいい啖呵

 これらの作品は、あたりまえのことをあたりまえに言っただけで、に終わっている。あたりまえのことが、ことばによってあたりまえでなくなる、それが作品だと思う。

             戦争展見てきた影は折れている(作二郎)
             ケロイドの下をながれる五十年(忠兵衛)

 「歪な壺」 佐藤容子
             沈黙の箱の深さへ放つ魚

 潜っても潜っても手探りばかり。人生とはそういうものだ。放つ人も、放たれた魚も作者自身だろう。そして、何とかなるもんだ、という強かさを感じる。

             半身を濡らし二章の一行目

二章の一行目、つまり過程の途中、生きている最中なのだ。半身はもうずぶ濡れだが元気。





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