現代川柳『泥』第三号 どのような作品に感動共感するか
日常の何気ないところで、ふと感動してしまうことがある。
それは、完璧とも言える隙のないものからや、それとは逆に、未完成の危うげなものや、儚げで壊れそうなものからでも感じる場合がある。
テーマのない曲でおまえは踊るのか(句集「青い実」細川 守)
細川不凍氏の今日までの作品から、どれ程、多くの柳人が感動を得てきたのだろう。彼の作品が持つ魅力を、表現できる程の力量など全く持ち合わせてはいないのだが、率直に言わせていただけるなら、彼はかなり早い時期から、一貫したテーマを保持していて、寂寥的な、孤高的な、と思える一種の極限性を秘めた高いところにある精神から作品を発してきたように感じている。
そして、そうした作品に出会うたびに強く感じるのは、彼の純粋とも思える作句姿なのである。(純粋な作句姿勢という表現が適当なのかと疑問を抱きながら、これ以外の適切な言葉が見つからない・・・。)
前述の作品は、不凍氏がまだ二十代前半の頃の作品である。今から三十年以上前に、すでに不凍作品には、印象深くて、ひときわ存在感のある細川守の世界を表白していた。
この作品の「お前」とは、おそらく闘病生活を余儀なくされた、ご自身のことであり、ご自分への問いかけではなかったろうか。そして、ご自身への憤りではなかったのだろうかと。ご自身への起爆剤であり、そこには強靭な精神が宿っている作品として、読ませて戴いたのだが、そう詠みながらも反面では、読者への、衝撃的なメッセージも秘められているような気がして、何か大きなものを投げつけてくれたような錯覚に陥ってしまうのである。
「お前」という、ひとつのフレーズの前で読者は、はっと我に返って、読者自身が置かれている足元を見詰めてしまうのである。言葉として表現されていない空間にある魂は、読者たちを吸い込み、何らかの影響を与える力を持っているものである。
ある一句が、何らかのかたちで読者を一歩でも動かすことが出来た時、それは紛れもない感動であり、確かな、文学作品なのである。
運命という巨高な波に翻弄されそうな危機感に喘ぎながら、作者は、必然的に、「テーマのない曲」という表現を掴んだのだろう。
彼にとって17歳の以前と以後は、余りにも違いすぎた。
この場合の「踊る」とは「生きる」ということを意味しているのではないだろうか。
人間が、最も考えなければならない「生きる」ことの意義については、実は誰もが、最も忘れていることなのかも知れない。
そのことを、彼はどれ程考えていたのだろう。考えて、考え抜いて、ひとつのテーマに到達した時点で彼の「生きる」方向が決まったのではないだろうか。そして、「テーマのない曲でお前は踊るのか」の句は、その方向を確信して、見事に昇華されるのである。
やがて、細川守の世界は、細川不凍の世界へと・・・。
雪の褥にまぼろしの妻抱きぬ(句集「雪の褥」細川 不凍)
自己を冷徹に見詰める客観力と、それを表現する勇気は、想像以上に壮絶なものに違いない。
不凍氏の作品から発せられる一語、一言は、作品を創っているのではなく、生んでいるのだという実感がある。
自己を句材とすることの難しさは、作句者のひとりとして分りすぎる程、分っているつもりである。ひとりよがりの域に甘んじながら、つくづく思うことは、「深い経験」の必要性である。乱暴な言い方になってしまうが、「豊かな経験」は、加齢とともに重ねることは、出来るかもしれないが、「深い経験」となると、そこに熟慮という姿勢がなければならない。それは達観へ到達するプロセスとも言える。
「雪の褥」というフレーズは、今まで読んできた各人各様の数々の作品には見ることのなかった、初めて目にした言葉である。
切ない程に美しい言葉となって、胸に響くのだが、しかし、この言葉が含蓄しているものを思う時、美しい言葉のベールの底に、想像を絶する孤寒が内在していることに震えてしまう。
「雪」「褥」「まぼろし」「妻」これらの言葉は既に存在しているのだが、「雪の褥」や「まぼろしの妻」という表現は、不凍氏の作品の中でしか存在しないし、発光することはできない。
そして、この一句からも窺えることは、作者が如何に、凛とした姿勢で、ご自身を曝しているかということである。
深い経験と、適切な言葉の相乗が、一句一句を確実な作品として完成させる。そこに感動は生まれる。
悲しみからの美しさ、苦しさからの優しさ、厳しさからの中のおおらかさに触れたとき、読者は不凍作品にしか存在しないオーラを感じる。
それは、ゆったり漂いながら、読者を包み込むのだが、やすやすとは同化させることのない威厳のようなものである。
氏の作品を反芻していると、何気なく使っている「感動」とはもっと違った「感動」があるのではないだろうかという思いが生まれてくる。
それは、感動ということばを、余りにも軽々しく使いすぎてはいなかったかという自戒でもある。
日常の何気ないところで、ふと感動してしまうことがある。
それは、完璧とも言える隙のないものからや、それとは逆に、未完成の危うげなものや、儚げで壊れそうなものからでも感じる場合がある。
テーマのない曲でおまえは踊るのか(句集「青い実」細川 守)
細川不凍氏の今日までの作品から、どれ程、多くの柳人が感動を得てきたのだろう。彼の作品が持つ魅力を、表現できる程の力量など全く持ち合わせてはいないのだが、率直に言わせていただけるなら、彼はかなり早い時期から、一貫したテーマを保持していて、寂寥的な、孤高的な、と思える一種の極限性を秘めた高いところにある精神から作品を発してきたように感じている。
そして、そうした作品に出会うたびに強く感じるのは、彼の純粋とも思える作句姿なのである。(純粋な作句姿勢という表現が適当なのかと疑問を抱きながら、これ以外の適切な言葉が見つからない・・・。)
前述の作品は、不凍氏がまだ二十代前半の頃の作品である。今から三十年以上前に、すでに不凍作品には、印象深くて、ひときわ存在感のある細川守の世界を表白していた。
この作品の「お前」とは、おそらく闘病生活を余儀なくされた、ご自身のことであり、ご自分への問いかけではなかったろうか。そして、ご自身への憤りではなかったのだろうかと。ご自身への起爆剤であり、そこには強靭な精神が宿っている作品として、読ませて戴いたのだが、そう詠みながらも反面では、読者への、衝撃的なメッセージも秘められているような気がして、何か大きなものを投げつけてくれたような錯覚に陥ってしまうのである。
「お前」という、ひとつのフレーズの前で読者は、はっと我に返って、読者自身が置かれている足元を見詰めてしまうのである。言葉として表現されていない空間にある魂は、読者たちを吸い込み、何らかの影響を与える力を持っているものである。
ある一句が、何らかのかたちで読者を一歩でも動かすことが出来た時、それは紛れもない感動であり、確かな、文学作品なのである。
運命という巨高な波に翻弄されそうな危機感に喘ぎながら、作者は、必然的に、「テーマのない曲」という表現を掴んだのだろう。
彼にとって17歳の以前と以後は、余りにも違いすぎた。
この場合の「踊る」とは「生きる」ということを意味しているのではないだろうか。
人間が、最も考えなければならない「生きる」ことの意義については、実は誰もが、最も忘れていることなのかも知れない。
そのことを、彼はどれ程考えていたのだろう。考えて、考え抜いて、ひとつのテーマに到達した時点で彼の「生きる」方向が決まったのではないだろうか。そして、「テーマのない曲でお前は踊るのか」の句は、その方向を確信して、見事に昇華されるのである。
やがて、細川守の世界は、細川不凍の世界へと・・・。
雪の褥にまぼろしの妻抱きぬ(句集「雪の褥」細川 不凍)
自己を冷徹に見詰める客観力と、それを表現する勇気は、想像以上に壮絶なものに違いない。
不凍氏の作品から発せられる一語、一言は、作品を創っているのではなく、生んでいるのだという実感がある。
自己を句材とすることの難しさは、作句者のひとりとして分りすぎる程、分っているつもりである。ひとりよがりの域に甘んじながら、つくづく思うことは、「深い経験」の必要性である。乱暴な言い方になってしまうが、「豊かな経験」は、加齢とともに重ねることは、出来るかもしれないが、「深い経験」となると、そこに熟慮という姿勢がなければならない。それは達観へ到達するプロセスとも言える。
「雪の褥」というフレーズは、今まで読んできた各人各様の数々の作品には見ることのなかった、初めて目にした言葉である。
切ない程に美しい言葉となって、胸に響くのだが、しかし、この言葉が含蓄しているものを思う時、美しい言葉のベールの底に、想像を絶する孤寒が内在していることに震えてしまう。
「雪」「褥」「まぼろし」「妻」これらの言葉は既に存在しているのだが、「雪の褥」や「まぼろしの妻」という表現は、不凍氏の作品の中でしか存在しないし、発光することはできない。
そして、この一句からも窺えることは、作者が如何に、凛とした姿勢で、ご自身を曝しているかということである。
深い経験と、適切な言葉の相乗が、一句一句を確実な作品として完成させる。そこに感動は生まれる。
悲しみからの美しさ、苦しさからの優しさ、厳しさからの中のおおらかさに触れたとき、読者は不凍作品にしか存在しないオーラを感じる。
それは、ゆったり漂いながら、読者を包み込むのだが、やすやすとは同化させることのない威厳のようなものである。
氏の作品を反芻していると、何気なく使っている「感動」とはもっと違った「感動」があるのではないだろうかという思いが生まれてくる。
それは、感動ということばを、余りにも軽々しく使いすぎてはいなかったかという自戒でもある。