現代川柳『泥』第三号 どのような作品に感動共感するか
洋の古今東西を問わず、何の世界においても、名作名吟と言われるものは、人の心を引きつける何かを具備している。
そしてその作品は、永遠に光り輝いているものである。それはあたかも、光を散りばめた満天の星空のように、褪せたり朽ちたりすることも無く、人々に深い感動を与え続けるであろう。
坂本九の「上を向いて歩こう」が今も人々に親しまれている。日本国内のみならず、海外でも「すきやき」として、幅広い人気を保ち続けている。
ゴッホやピカソの絵が、絵画の世界で高い評価を得ている。
夏目漱石の「坊ちゃん」が、今またみんなに読まれ出している。
このようなことの、あれやこれやを思いめぐらしながら、様々な世界での作品に対する評価を考えて見ると、非常に面白いことに気がつく。
いかなる作品も、創作者の真情には関係なく、人々の一方的な受け止め方の中で、歓迎されたり、拒否されたりしているのである。つまりは、その時代の風潮に大きく左右されながらの存在価値であると言っても、あながち間違いではない。
シャガールの幻想的な絵が、シャガールの想いとは全く違う見方をされて歓迎されたのは、その時代の人々の希求に全く合致した結果であったと考えられる。
同じように文芸作品もまた、その時代の人々の心と合致した作品は、評価を受けて生き続けている。
子を産まぬ約束で逢う雪しきり 森中恵美子
水ぎょうざ黄河の月もこのように 桑野 昌子
かくて大地に人間のめし犬のめし 定金 冬二
櫛を売るのは魂よりもすこしあと 前田芙巳代
象の目にたった一日桜咲く 大島 洋
炎昼のまっくらがりとなる傘か 細川 不凍
物忘れのはげしくなった今でも、何のよどみもなく口から出てくるのは、やはりそれほど強い印象を受けているからと言える。言いかえれば、訴える力を作者ひとりひとりの素肌として作品に生かされているからであろう。
作品の価値を考えるとき、そこには伝統も革新もない。あるのは、発表された作品が、いかに読者の心に入り込むことが出来たか、いかに読者の心を揺り動かしたかにかかる。
次のような作品もまた脳裏から離れたことがない。
雪の夜炎が生まれ石が生まれ 渡辺裕子
そのスピードで花の震えがみえますか 進藤一車
みんな土になるのさ人間の祭り 岡崎 守
空き家から大きな心音が漏れる 倉本朝世
手と足をもいだ丸太にしてかへし 鶴 彬
作品を目にして、名句、秀句と言われるものの物差しが、どこに有るのか。そして、それはどのような経過で今日に引き継がれているのだろうか。そんな疑問が頭をかすめない訳ではない。
素晴らしい川柳だと評価を受ける作品は、先ず第一に人間性に裏打ちされている。
素材が独創的であり表現が新鮮で感動の伝わりがある。
このような諸要素を必然的に満たしている筈である。
上手い作品と、秀作とか名句を呼ばれる作品、これらは必ずしも一致するものではない。
川柳の持つ特性を考えるならば、風刺性、人間性、独創性、斬新性に裏打ちされていて、尚かつ普遍性を帯びていることが、条件として加味されるべきものであろう。
もう随分長いこと、川柳を吐き続けてはいるが、これはと思う自信作は、残念ながらただのひとつもない。
にもかかわらず、川柳にしがみついているのは、感動を分け与えて貰える作品に触れることの喜びを、忘れることが出来ないからなのかも知れない。
洋の古今東西を問わず、何の世界においても、名作名吟と言われるものは、人の心を引きつける何かを具備している。
そしてその作品は、永遠に光り輝いているものである。それはあたかも、光を散りばめた満天の星空のように、褪せたり朽ちたりすることも無く、人々に深い感動を与え続けるであろう。
坂本九の「上を向いて歩こう」が今も人々に親しまれている。日本国内のみならず、海外でも「すきやき」として、幅広い人気を保ち続けている。
ゴッホやピカソの絵が、絵画の世界で高い評価を得ている。
夏目漱石の「坊ちゃん」が、今またみんなに読まれ出している。
このようなことの、あれやこれやを思いめぐらしながら、様々な世界での作品に対する評価を考えて見ると、非常に面白いことに気がつく。
いかなる作品も、創作者の真情には関係なく、人々の一方的な受け止め方の中で、歓迎されたり、拒否されたりしているのである。つまりは、その時代の風潮に大きく左右されながらの存在価値であると言っても、あながち間違いではない。
シャガールの幻想的な絵が、シャガールの想いとは全く違う見方をされて歓迎されたのは、その時代の人々の希求に全く合致した結果であったと考えられる。
同じように文芸作品もまた、その時代の人々の心と合致した作品は、評価を受けて生き続けている。
子を産まぬ約束で逢う雪しきり 森中恵美子
水ぎょうざ黄河の月もこのように 桑野 昌子
かくて大地に人間のめし犬のめし 定金 冬二
櫛を売るのは魂よりもすこしあと 前田芙巳代
象の目にたった一日桜咲く 大島 洋
炎昼のまっくらがりとなる傘か 細川 不凍
物忘れのはげしくなった今でも、何のよどみもなく口から出てくるのは、やはりそれほど強い印象を受けているからと言える。言いかえれば、訴える力を作者ひとりひとりの素肌として作品に生かされているからであろう。
作品の価値を考えるとき、そこには伝統も革新もない。あるのは、発表された作品が、いかに読者の心に入り込むことが出来たか、いかに読者の心を揺り動かしたかにかかる。
次のような作品もまた脳裏から離れたことがない。
雪の夜炎が生まれ石が生まれ 渡辺裕子
そのスピードで花の震えがみえますか 進藤一車
みんな土になるのさ人間の祭り 岡崎 守
空き家から大きな心音が漏れる 倉本朝世
手と足をもいだ丸太にしてかへし 鶴 彬
作品を目にして、名句、秀句と言われるものの物差しが、どこに有るのか。そして、それはどのような経過で今日に引き継がれているのだろうか。そんな疑問が頭をかすめない訳ではない。
素晴らしい川柳だと評価を受ける作品は、先ず第一に人間性に裏打ちされている。
素材が独創的であり表現が新鮮で感動の伝わりがある。
このような諸要素を必然的に満たしている筈である。
上手い作品と、秀作とか名句を呼ばれる作品、これらは必ずしも一致するものではない。
川柳の持つ特性を考えるならば、風刺性、人間性、独創性、斬新性に裏打ちされていて、尚かつ普遍性を帯びていることが、条件として加味されるべきものであろう。
もう随分長いこと、川柳を吐き続けてはいるが、これはと思う自信作は、残念ながらただのひとつもない。
にもかかわらず、川柳にしがみついているのは、感動を分け与えて貰える作品に触れることの喜びを、忘れることが出来ないからなのかも知れない。