美貌・・容姿・・財産・・
現金・・強靭な肉体
・・豪華な家・・車・・貴金属・・・
特権・・地位・・肩書き・・・名誉・・・
無いより、あったほうがよいに決まってる。
豊かな事は尊いことであり、
これらを否定したら、個人主義の上に立脚した、
文明は成り立たない。
ただし・・・
価値観と人間の意識が、
この次元で止まってしまう事で、これらの要素が毒となる。
富 ・・ 快楽 ・・ 豊かさ・・繁栄・・
これら、全ては、
「 目に見えるもの 」
即ち、実感としての現実である。
この、「 目に見えるもの 」を信じ、
これのみを妄信的に追い求める者は、
やがて、これらの ‘ 富 ‘の奴隷となり、
本来の自分を失ってしまう。
一番の不幸とは、自分を見失う事である。
絶好調なときも、ひと時は
あるかもしれないが、自分を見失うと、
最終的には、孤独・失望・未練・
落胆・不和・虚無感の暗闇に引きずり込まれる。
そういう不幸な人はたくさんいる。
宗教の真の目的とは、
目には見えないモノを見る
事にある。
目に見えないモノを見る
とは、
霊を見たり、神や仏の姿を映像として見るという意味ではない。
もし、神仏や霊を映像として見たなら、
それは、幻覚であり、自分の内部で起きている、
「 脳内現象 」であり、
「 真実 」ではない。
神仏の声など聴く事はできない。
もし聞こえたら、それは幻聴・・・
先に述べた、「 見る 」とは、
「 観る 」 = 「 静観する 」という意味である。
「 静観 」とは、
事物の奥に隠された本質的なものを見極める
という意味。
「 静かに見る 」のではない、
目で見るのではなく、
心で観る
たとえ、目の前が、辛酸な、惨憺たる状況であろうとも・・
栄華を極めた状態であろうとも・・・
その背後にある、「 見えないもの 」を見ることが出来ない人間は、
この世に生まれてきた最大の意義と、権利を放棄した事になる。
目に見えないものを観たとき、
自分にとって、、最高にして、最大の幸福を観る。
他者との比較ではない、「 自分が全て 」なのだ。
「目に見えるもの」 のみが全てと考えるなら、
全ての人間が平等ではない、
「 全てが不平等 」である。
生まれつき虚弱なひともいれば、強靭な人もいる。
生まれつき裕福な環境で育った人もいれば、
貧乏な環境で育ったひともいる。
五体満足で生まれた人もいれば、
障害を持って生まれた人もいる。
誰かが言うでしょう・・・
おれは善良に、真面目に生きている、
悪に憧れている訳でもない・・
なのに、なぜ!!不平等なんだ!!!
神も仏もあったものか
その気持ち、痛いほど分かります・・
だからこそ・・・
「 目に見えないもの 」が存在するのです。
誰かが言うでしょう・・・
この、ウサギオヤジ!!!屁理屈ばかり
言いやがって!!!詭弁をいうな
ご最もでございます・・
だから、宗教はバカにされるかもしれません・・
しかしながら、
理論的な判断だけではどうにもならないのが、
‘ この世 ‘ なのです・・・
そこから一歩踏み出さない事には、
世のなか真っ暗闇で、人生が「 徒労 」となってしまう。
目に見える世界は不平等だが、
それは、その奥にある、
「 絶対的なものを観る為の道具として、現われる仮の姿 」
見えないもの とは
自分の内に宿る神
自分の生命の根源である‘神‘
自分の内に宿る生命の偉大さ
自分を見守る、親の心・先祖の想い
全ての人間は、神の分霊・仏の化身
全ての人間は根底で繋がっていて、一体である
これを知らせる為に、釈迦が現われた。
これを知らせる為に、キリストは現われた。
生きてるだけで丸儲け