名古屋の白ウサギ・1964年生・

自称、宗教家・宗教家は、職業ではなく「生き方」です。
職業・会社員

絶対的因果

2017-02-19 | 宗教

「 因果報応 」
は仏教や多くの宗教が説く尊い教えであり、
真理です.

しかしながら・・・
それは、読んで字の如しではありません。
その奥があるのです。

( これは、ウサギセンサーで語っています )

例えば・・・

A子さんがBさんに対して、
過去に何か悪い行いをしたとします。

単純に「因果報応」を当てはめれば、 A子さんは、
その「原因」に対する「結果」として、
Bさんから何らかの悪果を受ける事になる。

若しくは、Bさんとは関係ない人から苦痛を与えられる。
人間が関与しなくても、
不慮の事故、病、苦悩、
などの突発的不運となって帰ってくる。

確かに、ある意味この法則は機能してる。

でも、この説明は完全で完璧ではない。
多くの場合、ここで止まってしまうから、
生半可に宗教をかじると、結果的に不幸となる。

悪い原因(種)は、バトンタッチをしながら、
永遠に連鎖し続ける。

もし、これが真実なら、全ての人間はいつかダメになる。
どんなに努力しようとも、悪因を創り連鎖し続ける。

全ての人間が悪くなってゆく。
これを「 相対因果 」と呼ぶ。
相対因果は、何かとの比較を前提としている。

何々できないことは悪い事である。
何々してはダメだ・・・ とは
「善」と「悪」との「対比」 
「対比」を基準にする判断を「相対」と云う。

相対因果で物事を見ることは、
あくまでも真理への入り口であり、
終点ではない。

相対因果は、真理への「 入り口 」としては、
必要でるかも知れないが、

いつまでたってもそこで足踏みしていると、
そのエネルギーは
権威意欲・傲慢・選民意識・に姿を変え、
やがて闘争・分裂・不義理・となり、
「 腐った宗教家 」なり果てる。

こういう、「 自称・偉い先生 」になってしまうと、
‘‘妖怪のような化け物‘‘になってしまい、
煮ても焼いても食えない。

相対因果を超越したとき、

「絶対因果」が見えて来る。

これを見つけるのが最大の課題である。
釈迦が説いた仏法の頂点は

「 絶対因果 」

・・絶対因果とは・・・

1・悪いことをしてしまった

悪い種があったから悪い事をしてしまったのであり、
もうこれで因果は終決している。

2・ヒドイ目にあった。

悪い要素が現われたという事、
現われたとは言葉を変えれば「悪い要素が消え去った」
もうこれで、因果は終決している。
          ↓
「 過去は無い 」 「 悪業・悪因も本来無い 」

「 ホントウにあるモノ 」とは、
現在と未来のみである。

無いものをあると思っうと
「 報いを受けて当然 」という潜在意識が働く。

これを、「 自己処罰 」と云う・・・

それ故、の優しい人、純粋なひとほど、騙され易く、
不運にになり易い。

清廉潔白な人ほど、自らが不運を選び、それを引き寄せることが多い。

こんな事は、ごく普通の社会経験のある人なら、
多くの人と関わってきたなかで、
言わずとして分かっていることだが、
こんな当たり前な事が分からない人も
存在することも確かである。


「 自分を処罰 」とは、
無いものをあると思うが故に、
無意識の領域の自分が、‘悪い要素‘ を自ら作り出し、

苦悩・不幸・不調和・不完全を引き寄せる。

ホントウにあるモノを感じ見たとき、
相対因果の循環から脱出する。

ホントウにあるモノとは、
・・自己の内に宿る神・仏
・・他者の内に宿る神・仏 天地万物に宿る神・仏

これを見たとき、

「 悪あがきはしません・・・
素直な気持ちで、全てをお任せします 」

という心境に達するはずだ・・

それを音にしたのが、

「 南無阿弥陀仏 」であり、
「 ナンミョウホウレンゲキョウ 」であり、
「 アーメン 」



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腐った信仰者

2017-02-13 | 宗教

・・誰かが問うた・・

神仏を信じ、信仰深い人は病気にならないか?

・・白ウサギ答えて曰く・・
神仏を信じていても、信じていなくても、病気になります。

・・問・・
神仏を信じ、信仰深い人は事故に遭わないか?

・・白ウサギ答えて曰く・・

神仏を信じていても、信じていなくても、
危機管理を怠れば事故に遭います。

・・問・・・
神仏に願えば、難関な試験に合格するか?

・・白ウサギ答えて曰く・・

素質と、努力の成果が合否を決めます。
合否は、願掛けとは無関係です。

・・問・・
神仏を信じ、信仰深い人が事業をはじめた場合、必ず成功するか?

・・白ウサギ答えて曰く・・

信じていても、潰れるときは潰れます。
信じていなくても、成功するときは成功します。

・・問・・・
ならば???
「 神仏を信じようが信じまいが、結果は同じ 」
という事では?・・・・

・・白ウサギ答えて曰く・・

はい、仰る通りです。
人間、死ぬ時は死にます。
病気になるときは病気になります。
交通事故に遭うこともあります。
家庭不和に悩む事もあります。
対人関係に悩むこともあります。
事業に失敗することもあります。

ただ・・ここからが肝心です。
「既に起きたこと」 ・ 「これから起きそうなこと」
をどのように捉え、
どのように感じ、
どのように対処するか、
そして、そこから何を学び、何を掴み取るか?
これこそが、宗教の存在意義なのです。

・・問・・・
そんな事なら・・
神仏を信じ、信仰したりする必要など無いと言う事に
なってしまうんじゃないですか???

・・白ウサギ答えて曰く・・

はい、仰る通りです。
別に神様を信仰する必要などありません。
ただし、「謙虚な心」と「畏敬の念」、「その姿勢」
だけは捨ててはいけません。


・・問・・・
アンタそれでも宗教家ですか???

・・白ウサギ答えて曰く・・

はい、私は宗教臭い宗教が大嫌いな、自称・宗教家です。

私が思うに・・・
信仰深さと、人格との因果関係はありません。
現に、約座屋さんの事務所には、
立派過ぎるほど立派な神棚が必ずあります。

約座屋さんは、一流?であればあるほど、
正月、節分、その他の神事などの、
作法を徹底しています。

「信心深い人は、みな立派な人だ」
というなら、
約座屋さんは、
徳の高い高貴な方々であるという事になります。

これは、宗教団体の信仰深い活動家や、
‘偉い先生‘ に対しても同じことが言えます。

「自分は徳を積んで、他人より高い位にいる」
などと思いあがっている傲慢で、
腐った信仰者や、指導者より、

特に信仰を持たない、謙虚な一般人のほうが霊的にみて、
立派であり、遥かに勝ります。

腐った宗教家、腐った信仰者は、無神論者に劣る。

「 自分は徳を積んでいる 」などと訳の分からない事を
思っている者より、

「与えた恩はすぐに忘れ、
受けた恩は死んでも忘れない人」

こう云うお方こそ、偉大であり、
そういうお方にこそ、それ相応の景色が展開する。

肝心なのは、

その人が、何を持つかではなく
「 何であるか 」ただそれだけです。

何を行い
何を考え
苦しみから何を学んだか
喜びから何を創造したか

ただそれだけです。

神様は、別にお願いされなくても、
全てを知っているのです。

神様は、言われるまでもなく、それを基準にして、
粋な計らいをしてださるのです
一寸先は光です

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