
「 教えてあげる 」
「 正してあげる 」
などと云う気持ちで、人に接しても、
何の進展など望めないと感じる。
仮に相手の考え方が、
明らかに間違っていると思えたとしても、
明らかに不利な考え方であると思えたとしても、
貴方・・・方向性が間違っている・・・
と感じたとしても。
「 あなたの為を思って言っているのよ 」
などと無謀で、無意味な事を言う前に、
相手の気持ちを理解する事のほうが遥かに
肝心な事であると思う。
良い言葉・・・
良い教訓・・・・
立派な理論・・・・
ネットを開けばいくらでも掲示されている。
本屋に行けば、
自己啓発の本が溢れている。
私も若い頃はこれらの本を読み漁った。

パラパラと捲れば、どの本も同じような内容。
目次を観ただけで
もうイイい・・・・
と思えてしまう。

相手の気持ちを理解するには、とにかく


自問自答に徹する以外方法はない。
聞くに徹すれば、相手の心情が分かる。
それこそが誠意であると思う。
誠意のない人間・・・には
ひとを動かすことは不可能。




これこそが、人を動かす力となる。

最大限の誠意を持って相手の話を聞いた。
延10時間以上、相手の話を聞き続けた。
ある重大な問題を抱えるお方だった。
その人の深層意識が見えた・・・
自分で自分を偽っている・・・
と思えた・・・
とは言えナイフでえぐるような事は出来ない。
ギリギリの線で、遠回しに、
ほんの少し、私の意見を述べたら、激怒された。
「 あなたに人の苦しみが分かる訳がないでしょ・・・」
「 利口ぶった態度しないでよ・・・」
「 私の方が知識が多いのよ・・・」
最後はバカにされておしまい。

プライドなどというメンドクサイものはもっていない。
バカにさえても良い・・・
相手の未来が心配ではあるが。
去る者追わず・・・
「 どうぞご自由に 」と思うだけある。
この芸は、究極のバカにしか出来ない。

バカになるという事は、
空虚なプライドなど持たないということだ。
悟ってもいない人間が悟ったような振りをすることに
恥じらいを感じる。

鋭い洞察力や、特殊な能力があるなら別だが、
精神論・宗教論をかじっただけの者が、
ろくに相手の話も聞かず、
相手の気持ちを理解しようともせず、
「 あなたのそこがダメなんだ 」
こういう言葉の裏には、
「 思いあがった傲慢 」
が潜んでいる事が多いと感じる。
自己満足しているだけで、
空虚なひとに思えてしまう。
傲慢な「 自称・偉いひと 」を見ると虫唾が走る。

下から目線に徹する事の出来るひとこそ、
真に偉大なひとであると思う。
親鸞聖人は終始、「 下から目線 」の人だった。
そういう意味で、
親鸞聖人は宗教史上最大の
「 正直者 」であると思っている。



よしあしの文字をも知らぬ人は皆
誠の心なりけるを
善悪の字知りがほほ
大そらごと の形なり



「 三帖和讃 」の一首
(一部、平仮名を漢字に変換)
親鸞聖人 88歳のときに記す
・・・ 訳 ・・・・・
善悪の二文字の意味を知ったふりをしない素朴な人は、
純真な心の持ち主であるのに、
善悪の意味を知っているような顔をするのは、
大嘘つきの姿である。