名古屋の白ウサギ・1964年生・

自称、宗教家・宗教家は、職業ではなく「生き方」です。
職業・会社員

初公開・ ウサギ ヨガ

2014-07-27 | 秘伝・・ウサギ・ヨガ
私は若い頃、ヨガの研究をしていた時期がありました。

17歳の時、本屋で
「 ヒマラヤ聖者の生活探求 」 という本を偶然見つけたのが、
そのキッカケでした。

この本は確か、全13巻の大作でした。
この本の著者の本職は、鉱山開発技師 であり、ヨガとは全く無縁のお方、

この方は、若い頃、仕事の関係で、
鉱山を求め、ヒマラヤ奥地をひたすら一人で歩き回っていた。

そんなある日、
偶然、ヒマラヤ奥地で一人で生活する、ヨガの行者と出くわす。

技師は、そこで信じられない光景を目の当たりにする・・・

偶然出会ったヨガの行者は、人間離れした超人であった。

何日も飲まず食わず、眠らず、テレパシーで物事や自然現象を察知し、
空中に浮き上がることも出来た・・・
著者の技師は、仕事を放棄して、
その地に留まり、聖者の生活を、長期間に渡り観察した・・・
その事を詳細に綴ったのが、 「 ヒマラヤ聖者の生活探求 」 という本でした。
私は17歳の時、この本を読んで、その気になってしまった・・・

今思うと、この本は、かなり眉唾モノのような気がします。
でも、当時若くて純情だった私は、

「 よし!!! オレも超人になってやろう!!! 」

と思い、ヨガの研究と実習を始めました。

このことにより、
‘ 立ったまま眠る ‘ 眠りながらご飯を食べる‘  歩きながら、眠る‘
という技を習得し、
それを活用する事が出来るようになっていました。
30歳過ぎた頃から、その能力は自然に消えていってしまいました。
今は、そんな芸当は全く不可能です。

確か、25歳位まではヨガの研究と実習をしていた記憶がありますが、
それ以降、仕事が忙しいという事もあって、
全くヨガをやらなくなりました。

先日、三島の新名所、amin様を訪問した際、
amin様には立派なヨガレッスンルームがあったので、

30年以上、封印していた、私の
「 ウサギ ヨガ 」
をやってみました。、

これをみた、静岡の美人、ヨガ インストラクターの、ykさんが、
凄い!!! と言って絶賛してくださいました。

美人ヨガ先達様にそんなふうに言われてしまうと、
単純な私はその気になってしまいます、

初公開、 「 ウサギ ヨガ 」 


この体勢を、3分間維持。


そのままの姿勢で、座禅 ( 蓮華座 )を組む

更に、約3分間、この体勢を維持する。



足を組んだまま、後ろに倒れて、仰向けに寝た状態で約、3分間休憩。



足を組んだまま起き上がり、脚のみで立ち、そのまま3分間静止。
( これは逆立ちの数倍難しい )

これを毎日やると、本能的直観力 と 集中力、忍耐力 がアップします。
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三島市 いやしの森 Amin

2014-07-24 | その他


静岡県 三島市 に新名所誕生



いやしの森 amin




amin  は ながいき薬局 様の2階にあります。

この店はつい最近オープンしたばかりの店です。
この店の屋号を決めるにあたって、
ホンの少しですが、私がアドバイスさせて戴いたという経緯があります。



この階段を登ると・・・その先には・・・



まさに 癒しの森・・・・夢のパラダイス・・・


アロマセラピー



センスのよい装飾品・・・

ワクワクするものばかりを販売しています。 

その奥には ・・ゆっくり くつろぐことが出来る カフェ もあります。





写真の左上に映っている お方がこの店のオーナー Y子様です。
Y子様は、1階の薬局のオーナーでもあります。
強さと、優しさと、少女のような澄み切った感性をお持ちの素敵なお方です。


その隣の黒いTシャツを召されたお方が、
Y子さんの娘さん、Aさんです。
Aさんは薬科大学に通う優秀なお嬢さんです。
Aさんは、有名な白石凪先生のお弟子さんで、強く 明るく たくましい お嬢さんです。



あれ? こんなところにウサギさんが・・・・


ウサギの引き戸を開けると、


そこは、イベントルーム


アーユルべーダー教室
アーユルベーダーの先生 K先生は、本場インドでアーユルベーダーを学び、
その真髄を会得さたお方です。
K先生の背後には、 インドの福の神 が付いています。
お話を聴くだけで、福が舞い込むかも・・・・


ヨガ教室   フリーマーケット  ・・・・ 
その他いろいろなイベントが開催されています。





私は、逆立ちをするとパワーが全開になります。

店内の全部のウサギに私のパワーを注入・・・




長らく封印していた私の秘技・・・  初公開 「 蓮華座立ち 」このポーズは福の神を呼び寄せる。
座禅を組んで逆立ちし、そのまま、
後ろに倒れ、その状態のまま立って静止する・・・
この技は、簡単そうに見えますが、そう簡単にはできません・・・


これで私の奇怪なパワーが全開状態・・・
この世は、このままにて光明楽土 


このウサギに指を突っ込むと・・・金運上昇します。


店内のウサギの数を数えると、魔を退け、幸運が舞い込みます。

amin に来るとイイ事ありますよ・・・・・

 







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ビジネスホテルでの出来事

2014-07-23 | 宗教




4ヶ月ぶりの静岡出張
今回で、静岡遠征は12回目となりました。

今回の静岡遠征は今までとは少し事情が違っています。

‘ 静岡遠征、番外編 ‘ といったところでしょうか・・・

今回の一番の目的は、三島市に最近オープンした、
「 癒しの森 Amin 」 様を訪問する事です。

三島市に初上陸の前日、午後に、静岡市内に到着、
夕方、居酒屋で 鳥の唐揚げ と 静岡おでん で一杯やって、
夜は、駅前のビジネスホテルで一泊、
翌朝、三島市に向かう事としました。

ほろ酔い気分で、ホテルにチェックイン、
部屋に入ると、 机の引き出しに、

なぜか・・・・



何気なく、分厚い聖書を片手で取り上げ、適当な所を
右手で開いて、
机の上においてみた。



「 何伝が出たかな ? 」 と思って、開かれた聖書のペーのぞいてみると・・・

マルコ伝だった。

「 もしや!!! ひょつとすると ・・・・・・ 」

と思った・・・・・少々の悪寒が走った・・・

活字に目を凝らした・・・・



「 やはり!!!!!! あの箇所だ!!!!! 」

偶然に開いたこのページは マルコ伝 ・ 第15節 ・ 34章 だった・・・

このヶ所は私が若い頃、何度も何度も読み返した事のある、特別なヶ所なのです。

十字架に貼り付けにされ処刑されようとしているイエス、

いよいよ息を引き取ろうとするとき・・・・

まさに・・・最後の最後のとき・・・・何を叫んだか?????

マルコ伝にはこう記されています。

・・・・・・・・・・・・・・・・

イエスは大声で、
 「 エロイ、 エロイ、 ラマ、 サバタクニ、」と叫ばれた。
それは訳すと、
「 わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」


・                             マルコ伝 ・ 第15節 ・ 34章
・・・・・・・・・・・・・・・・

イエスは、人々の罪を一身に背負って、死んでゆく覚悟があったはずです。
にも関わらず、
最後にお吐きになった言葉は、
一見、見苦しいとも思える、悲痛なお言葉、

この言葉、言い方を変えれば・・・

「 神様!!! オレは、まだ死にたくない!! 」となってしまう。

イエス様とあろうお方が・・・どうして・・・

最後の最後に、このような恨みとも聞える悲痛なお言葉を発せられたのか??

どうしてなんだ!!!!

この言葉は、キリスト教の基本的な教義を覆してしまうほどの大問題です。

にも関わらず・・・

隠蔽される事もなく、聖書の中にハッキリ記されています。

この、記述こそが、「 偉大なるキリスト 」を語る上で

人智では、計り知れない 真実 を内在していると私は思っています。
 
 
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究極の逆説

2014-07-14 | 宗教


親鸞いわく・・・・

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

             『歎異抄』第三章

       ・・・  訳  ・・・


善人でさえも往生できるのだから、当然、悪人も往生できる


。。。。。。‘ 往生 ‘   とは?
おうじょう

「 往 」 とは・・・・・死後、仏の国(浄土)にゆくこと。

「 生 」 とは・・・・そこに生まれること。


これは、親鸞が説いた強烈な 逆説 です。


悪人も当然、浄土に行くことが出来る・・・・?????


私が若い頃・・・この言葉を始めて耳にしたとき、思った・・・

「 さっぱり意味が分からん・・・・・ 」

どうして ‘ 当然 ‘ なの・・・・・???

でも、いま現在、

この言葉が身に沁みます。

親鸞の言っている 善人 ・ 悪人 とは、
一般論でいう 善人・悪人 とは別物です。


親鸞の考える 「 善人 」 とは・・・・・
善人ぶるひと、 善行を重ねれば往生( 成仏 )できると思っている人、


親鸞のいう 「 悪人 」 とは、
自分の罪深さを感じている人。


また、それと同時に・・・・・

親鸞は、常々、言っている・・・

「 善も悪も、私の知った事じゃない 」


ならば・・・親鸞は何を言いたかったのだろう・・・・・????


善 (善業 )・ 悪( 悪業 )など問題ではない。
自分の命の尊厳を、真に理解することが、
すべての解決策である。







 






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絶対因果律

2014-07-12 | 宗教


社団法人 いのちを守る親の会  理事長 大熊良樹 氏 のブログより
 大熊氏の許可をいただき、 転記させて頂きます。

以下、「 大熊良樹ブログ 」 より転記

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

移ろい変わるものが 「現象」 である。

全ては 「諸行無常である」 とはこの 「現象」(影の)事である。
 全ては都合により   「善悪」 にとらえられがちであるが。。
   生かす力そのものは 
光りであり 「善」 以外の何物でもない。。
その光に「思い」というスライドを映して・・
人生の銀幕に「日々」を 投影して生きているのである。。。

 悪い状態、苦しいこと、辛い状況は 「諸行無常」 である。
   ( それは「影」 (一次的姿(幻影)であるからだ 。)
 何とありがたいことであろう。

「諸行無常」は悪いことばかりでもなく、
ありがたいことでもある。

救いである事も 忘れてはならない。  

 因果は、一分一厘   晦(くらま)ませない。
これは、私の今生における大きな気付き である。
 
同時にそのような「相対因果」 を超える事のできる
さらに大きな (唯神實相哲学の)自覚(さとり) を 戴いた。。

有り難いことである。。

10代20代・・武道の修行。
 20代30代・・厳しい社会経験。
 30代・・修行僧などの体験を
経る中で・・一分一厘くらいは
がんばれば、因果は  変わるのでは。。。
  良いことをすれば
 過去の悪業も消せる(相殺)できるのでは。。。
 と思っていたのでした。。。

帳消しにならなくても、
 一分一厘くらいは誤魔化せるのでは、、と思っていたのである。。

 しかし。
 違っていた。
「因果の法則」  と言うのは。。。

 良いことをしたら良いことが起こり、
悪いことをしたら 悪いことが起こる、
   そのことも、法則であり事実ではあるが。。。

その事に 止まらない。

 人間の本性 

   「生命の實相」は、明哲(至上の智慧)であり、
 玲瓏(至上の純粋)である。
(宗教的な表現をすれば、神仏である・・・) 

  良いことをしたら、良いことをしたと知り。
悪いことをしたら、 悪いことをしたと知るのである。

 その事は絶対に、誤魔化せないという事を
体験として38歳の ある体験で知ったのです。

良いことをしたら、 良いことをしたとを知り。
悪いいことをしたら、悪いことをしたと「いのちが知る」のである。

すでに・・この事自体を

「因果応報」が完結した姿といえる。
 結果、どうなる かではない。


中国の古典にも、
天知る、地知る、人知る、吾知るという
言葉があるけれど。。
古より・・人は・・・

「お天道(てんとう)様」 は全てを観て おられるという。
全ての全てがそれを「知る」と言う事である。 

 因果は、一分一厘 晦(くらま)ませない。
それは、自分の

  「いのち(霊)」を一分一厘誤魔化せないという事である。
無限生長の途上の中で、その「データ―(課題)」が、
絶妙に巧妙に・・・
 人生脚本の中に組み込まれるのである。

 その人の嗜好や価値観に合わせた生長のための
 人生芸術(ドラマ)を描き始めるのである。

その巧妙さがあまり
  に絶妙で、時間差や変形の応酬があるために、

 100の悪業があるから
   100の苦難があるなどとは
  いえないのであるし・・・

これこれの悪業があるから
これこれの報いがあるなどという、
との心を迷わせる指導は一度もしたことがない。。

 むしろ、こうこうすれば
こうなるのですよと言う。。。

  「善因善果」を
説く事が宗教者の 聖使命であろう。。。


 「因果律」に基く、
単純評価や人生鑑定における
数値化した単純分析は難しいのである。 
人生における「人生脚本」。
当然「脚本」をかくのも自分。
演じる「主人公」も御自分である。。

共演者は・・・

縁の深い「仲間」である。

現象は、心象といい、こころの現れであり、
皆さんの心の 「合成」 (共同演出芸術) でもあることが
 素晴らしい留意点である。

 だから、単独でないので「調和」が大事であるのである。。

 恨むと不幸が起こり、
 喜ぶと、喜び事が 呼び寄せられる。

 「在り方」は、即、関わり方」である。

  いのちは、ひとつ と言われる所以でもある。。

「いのち(霊)」を  一分一厘誤魔化せないと書いた。。。

  また・・・

悪いことをしたら、悪いことをしたと
いのちが 知るのである。

と書いた。。。

吾らは、いのちを 一分一厘誤魔化す生き方ができないのである。

清明心をして 「 清明 (せいめい) 」 というのは・・・・
「 生命 (せいめい) 」の本質が清明心
「 清き明るき心 」 であるからだろう。
 清明心こそ
「 神こころ 」である。 ほどけ(仏)である。


・・・・・・・・・・


相対因果(現象)を超える道は  ・・・・・・ ? 

絶対因果(實相)を知ることです。。

それはなんでしょうか・・・・・?

それは・・・人間が・・・・
神(至上)であり、
仏(ほどけ)であり、
限りなく素晴らしい本質を持つという、
自覚  [さとり] であります。。。

自己のいのちを信じることが
できないと、ひとのいのちも
信じる事はできません。。

しかし信じようが

 信じれまいが人間は神の子。

  (神の凝(こ)=凝固)であり、

 本来・・仏様なのである・・・・・・

  だから、本来のそれを生きれないと、

 苦しい思いでいっぱいになるのです。

  狂おしい思いで いっぱいになるのですよ。

これが

「絶対因果律」です。

いのちを裏切らない  生き方をしよう。
人は知らずして全てを  知っている。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

以上、

 社会教育家 和来紘太郎 の本名ブログ 大熊良樹

     http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/11956293.html   より転記。



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事実に惑わされている暇はない・・・・・

2014-07-09 | 宗教


私が尊敬する、
ある「 本当に偉いお方 」 が言われました・・・

・・・因果の世界は 「 人生芸術 」 の
意味合いも含まれて在り、単純はない。
大自由な生命は、どれほど、
その 「人智の決めつけに」
屈辱を感じることでしょうか・・・・


私は思いました・・・・


「 人智の決めつけ 」 とは・・・・ 目に見える現実 ( 事実 )


「 大自由な生命 」 とは・・・・・目に見えない世界 ( 真実 ) 


‘ 真実の自分 ‘ とは是即ち、 神の姿。

自分が 神の分身 であると同時に、

自分以外、すべての人間も 神の分身


事実に対して、想い煩っていても、光は見えない。

一寸先は闇・・・・ となる。


真実 ( いのちの尊厳 )を直視するとき
始めて目の前に光明が差し込む。

一寸先は光 ・・・・・ となる

事実に惑わされている暇はない・・・・・


‘ 大自由な生命 ‘ の声に耳を傾けるべし
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祖霊崇拝

2014-07-06 | 宗教


人の一生や 「 運命 」を語る上で、

一番強い影響力を持っているのは
「 先祖 と 自分との関係 」  にあると思っています。


ここを押さえないと、

いくら努力しても、

いくら清く正しく生きても、

いくら奉仕の精神を持っていようとも、

いくら善行を積んでも、


だだ、空回りするだけで、
波乱と苦悩に満ちた生涯しか実現しない。


これは、道徳論や精神論以前の問題で、
人間が生きてゆく上での基礎だと思うのです。

私が常々、
因果の法則 のみで人間の運命は語れない 
と申しあげている根拠はここにあります。


でも・・・不思議な事に・・・


釈迦が説いた仏教の原型には
祖霊崇拝( 先祖供養 )という考え方は、存在していません。

日本の仏教は、先祖供養 を含んでいます。

仏教はインドで誕生し、
そのあとシルクロードを経て、
日本に伝来しました。

そのとき、、もともと日本にあった古来から受け継ぐ、
「 祖霊崇拝 」 という風習と融合して、
日本独特の 先祖供養を含む仏教 へと進化を遂げました。

祖霊崇拝 とは日本人独特の考え方なのかもしれません。

祖霊崇拝  が絶対的に 必要な要素ならば・・・

祖霊崇拝  という概念を持っていない地域に住む人間は
どうなってしまうのか?

こういう疑問も湧いてきます。

これは、根本仏教 に限った事ではありません。

一神教の文化圏でも、
日本人のような 祖霊崇拝 という教義は存在しないようです。

単純に考えてしまえば、
そういった宗教感をもつ人々は、
何かが間違っていることになってしまいます。

そんな事あるはずがありません。

私は思います・・・・

先祖への感謝、 これ即ち、 先祖供養

これは 人間に内在する、
基本的な 「 心の姿勢 」 であって、

宗教ではない。

教義でもない。

文化でもない。

それ故、「 信じる」  とか、
 「 信ぜよ 」  とか、
そういう問題以前のことではないでしょうか。

私のいう、祖霊崇拝とは、 
儀式の事を言っているのではありません。

「 心の方向性 」 のことを申し上げています。

儀式とは、
「 心の方向性 」 が 「 形になって現われた 」ものあり、

儀式自体には大きな意味はないと思います。

心 → 形 ( 儀式 )

が順番であり、 形 のみが優先されるべきではありません。

祖霊崇拝 ( 先祖に感謝の念を抱く事 ) とは、
文化とか宗教とか関係なく、すべての人類に共通した
心の中から湧き上がる、 声無き声  であり、
すべての人間の内に、 必ず存在している。

私はこれを 『 風 』 と呼びます。

その自然な流れに反したことをする人間、
自然な流れを否定する人間、
自然な流れに唾を吐く人間、
こういう人は、
善行を積んでも・・・社会に貢献しても・・・
 真面目に努力しても・・・・ 難しい理屈を並べても・・・・
肝心な事が欠けている。

こういう人は、仮に
大金持ちになったとしても、
多くの人に賞賛され、地位と権力を持ったとしても、
毎日、大好物の 鳥の唐揚げ と 
クレソンサラダ を食べる事ができたとしても。

気の毒であるが・・・・

自分にとっての「 真の幸福 」 は訪れない・・・

これ即ち、ゲームに勝ったが、 勝負に負けた 状態。

「 声なき声 」であるから、文化や地域によってその
現われ方は多種多様といえます。


アーメン と唱える言葉の中に、 
声無き声 ( 風 )が含まれている。

南無阿弥陀仏 と唱える言葉の中に  
声無き声 ( 風 )が含まれる。

ナンミョウホウレン・・・・ と唱える言葉の中に 
 声無き声 が含まれる。

祓へ給へ・・・・・ と唱える言葉の中に  
  声無き声 が含まれる。

ありがとうございます・・・・ と発した言葉の中に、
 声無き声 が含まれる。

懺悔します・・・ と発した言葉の中に
声なき声 が含まれる。

大好物の 鳥の唐揚げ を食べたあと、
ご馳走様でした・・・と発した言葉の内に
声なき声 が含まれる。

「 風 」 は無色透明であり、 形無く、 音も無く、 色も無い・・・
それ故、 多種多様の文化・風土 のなかで、

「 教義 」 という形 
( 耳で聞き取る事ができる言葉 )の中から、

風  
( 耳で聞き取る事が出来ない言葉 )を発している。

導き兎 が呟いているような気がします・・・



自分の心の 奥底から発する 
「 声なき声 」  を聴き、それに従うものは、
他者との競争でもなく、比較でもない、
真の成功者となるであろう・・・・


 

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この世 と あの世 の直交変換

2014-07-03 | 宗教


ブルースリーが、私の頭を、コツンと叩いて来たとします。

当然の事ながら、私の心の中には 「 バカ野郎!!!! 」という感情が発生します。

同時にハラワタが煮えくりかえって来ます。

でも、反撃すると厄介なことになるので、ジッと我慢・・・・

このことが毎日続いたとしたら、

「 バカ野郎 !!! 」 という念はどんどん自分の中に蓄積されて行くでしょう。

そして、最後は、 ブルースリーの姿を見ただけで、

胃が キリキリッー と痛むようになるでしょう。


どうしてか?


感情 が 臓器に悪影響をあたえるからです。


言葉を変えれば・・・・


心の中 ( あの世 ・ 暗在系 )で発生した、怒りの感情が、

 「 胃袋 」  という臓器( この世 ・ 明在系 )に影響を与える。

と言うことになります。


怒りの感情 とは、当然の事ながら、 「 自分自身 」 です。

胃袋 と言う臓器も、 「 自分自身 」 です。


この場合、  自分自身の‘ 心 ‘ が、

同じ自分自身である ‘ 胃袋 ‘ に対して敵意を持っているのか? 

自分の心が、胃袋に対して、悪意を持って攻撃しているのだろうか?

そんなハズはありません。


ならば、どうしてこういう現象が起きるのか?


心と 胃袋 ( 肉体 ) は表裏一体 だからです。

表裏一体であるから、心の状態が、胃袋の状態にそのまま反映する。


自分と先祖の関係も、これと全く同じ事なのです。


自分 ( 明在系 ) が笑えば、

先祖の霊  ( 暗在系 ) も笑う。


先祖の霊 ( 暗在系 ) が不安な思いになると、

自分 ( 明在系 ) も不安な気持ちになる。


先祖の霊が喜べば、それがそのまま 自分( 明在系 ) に反映する。


自分が先祖に対して意識を向け、感謝の念を抱くと、

先祖の霊はニコヤカになる。

先祖の霊がニコヤカになれば、また、それがそのまま 自分に反映して、

明るい現状と 明るい未来を実現する。

これを私は 

『 この世 と あの世 の直交変換 』 と呼ぶ。


祖霊と、自分は表裏一体なのです。


これこそが、命を支配する決定な要素


人の運命を語る上で、

このことは、「 因果の法則 」 以上に現実的影響力が大きい。


奉仕の精神を持ち、真面目に生きている・・・にも関わらず、苦労の連続。

心優しく、思いやりがある人なのに・・・なぜか不運の連続・・・

意地悪で、利己主義なのに・・・・なぜか強運・・・


どうして、こういう不可解な事が起きるのか、

『 この世 と あの世 の直交変換 』 を当てはめれば、

ほとんどの場合説明が付くような気がします。







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