名古屋の白ウサギ・1964年生・

自称、宗教家・宗教家は、職業ではなく「生き方」です。
職業・会社員

右脳教への警告

2018-05-09 | 思う事


右脳強化・・・

右脳重視・・・

右脳万能・・・

右脳!!! 右脳!!! と唱え、
右脳の訓練、強化を唱えるお方が存在する。

右脳ブームの影響は裾野が広い。

右脳が重要なことは間違ない。

だが、それに執着すると狂ってしまう。

右脳信奉が度を越すと、
それは一種の宗教となる。

これを私は
「右脳教」
と呼んでいます。

今まで多くの方と接して来て、

極端な右脳教育を受け、右脳教に侵されて

・・・・・・

お気の毒な事例、悲惨な事例を目の当たりにしました。


「偶然、私がそのような方ばかりを多く引き寄せた」
という仮説も成り立ちますが。


えっえ・・・・・んん・・・

唖然としてしまった経験もあります。

特に幼児に右脳芸をさせるような商売は

・・・・・・・と思っています。


右脳は大切ですが、極端な考え方は危険。

右脳重視より、右脳・左脳のバランスのほうが
遥かに重要で、肝心なことだと感じます。

程々に・・・

中間で・・・・

これが真理だと思っています。



実例を述べたいところですが、
ウサギの業務上知り得た個人情報は
本人の承諾を得ない限り、
例えと匿名であっても公表する事はできません。

同時に、右脳教育を仕事としている
方もお見えになります。

私の経験的主観を述べることは、
当たり障りがありそうで
多くを語ることはできません。



極端に偏らず、
熱狂せず、

熱く、静かに、
「 中道 」を行くことが肝心だと思います。

コメント (1)
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霊の祟り???  ふざけたこと抜かすな!!!

2018-05-05 | 宗教


・・・・厚木の男児白骨遺体・・・

神奈川県厚木市のアパート一室で、
5歳の男児が、白骨遺体で見つかった。

白骨遺体は死後、7年経過していた。

父親のトラック運転手の●●●●(36)を、
保護責任者遺棄致死容疑で逮捕。

●●容疑者は
05年ごろに妻が家を出た後、自分で面倒を見ていたが、
仕事で留守にしがちで、週1、2日しか帰らなった。

外出時は子供を部屋に閉じ込めていた。

亡くなる2カ月くらい前は仕事が非常に忙しくて、
子供は、がりがりにやせ細っていた。

●●容疑者の供述・・・・

「この状態が続くと死なせてしまうかもと思った」

「 立ち上がることもできず、か細い声で
『パパ、パパ』と呼んでいた。その場にいるのが怖くなり、
1時間も一緒にいられずに家を出た。

   

なんとも悲惨な事件です・・・

どれほど苦しかっただろう・・・
どれほど悲しかっただろう・・・・

放置され、餓死した子供のことを思うと、
あまりにも痛たまし事件です。

自分の子供に対して、このような事をする
父親の心境が理解できません。

こんな父親に対して、
瀕死の状態の子供が、「パパ、パパ、」
と呼んだ・・・・・

その状況を思い浮かべると、
涙が出てしまいます。

瀕死の状態において、
子供は、酷い父親に対して、
どういう感情を持っていたのだろう?

怒りとか、怨みを持っていたのだろうか?

そんな感情ではなかったはずです。

それ故、瀕死の状態でも、
「 パパ、パパ、」と呼んだのだろ・・・

これは、怨念を込めて発した言葉ではなく、

父親を頼る想いと、父親を慕う想い、
から出た言葉ではないだろうか・・・

本能的な部分で父親を慕い、すがり、頼った、
にもかかわらず、その思いは満たされなかった。

このときの想い(念)は
言葉を変えれば、「 悲しみ 」である。

「 悲しみ 」とは、

怨みとか・・・怨念とか・・・
そんな攻撃的な想い(念)ではない。


巷の、怪しげな霊能者とか、怪しい宗教の人間が

「 水子の祟り 」と云う意味不明な言葉を発する。

水子の祟り などありません!!!

水子の祟りなど、
私はいままで一度も見たことはありません。


ただ、闇から闇へと葬られた胎児は、
強烈な悲しみの念を発するでしょう・・・
それは祟りなどと表現する事は、
御霊にたいする冒涜です。

例えて言えば・・・

もし、私が、自分の子供に殺されたとします。

殺された私は、あの世に行って、
何を思うか?
自分の子供に対して、
その行為が故意だあろうと、
過失であろうと、

「 悔しい!!! 祟ってやる!!!
呪って不幸ににてやる!!! 」

そんなこと思うでしょうか?
そんなことは絶対にありえません。

それは、子を持つ親なら誰しも同じだと思います。

子供に対して、
まえを見て生きなさい!!!
と願うでしょう。

子供が更正してくれることを願うでしょう。
ただ、ただ、子供の幸福を願うでしょう。

親子の繋がりとは、根本の部分に於いては、
こういう事ではないでしょうか?

その反対で、「あの世」 に行った子供が、
自分の親を、
呪ったり、祟ったりする事などないのです。

ただ・・・

強い、「悲しみの念」だけは持つでしょう。

パパ・・・・パパ・・・

ママ・・・ママ・・・

と、声無き声を発する。

これは、怒っているわけでも、呪っているわけでもない。
 
この世(現象界)と、あの世 (霊界)は
別の場所にある訳ではありません。

この世と、あの世は、同時進行しているのです。
表裏一体なのです。

自分と霊的な繋がりのある魂が、

「 あの世 」で悲しんでいると、
「 この世 」の自分も、悲しむ状態を引き寄せる。

自分と霊的な繋がりのある魂が、
「 あの世 」で苦しんでしんでいると、
「 この世 」の自分も、苦しいい状態を引き寄せる。

これは、人間の肉体に例えると、
心と、胃袋の関係みたいなものです。

自分の心が、強烈な悲しみの念や、
ストレスを持ったとします。

すると、
胃袋がそれに反応して、胃痛になったり、
食欲が無くなったりします。
慢性的にそれが続くと、胃潰瘍になるでしょう・・・

これは、自分の「 心 」が、
自分の 「 胃袋 」を痛めつけやろうと
思っているのではありません。

なぜなら、心も、胃袋も、別々の存在ではなく。
同じ「自分」だからです。

「 心 」 と  「 胃袋 」 は表裏一体で、
同時進行しているだけの事なのです。

「 この世 」 と 「 あの世 」との関係は
これとまったく同じなのです。

怪しい霊能者に脅され、
水子の祟りを恐れて供養するなどといった事は、
あの世の真実が分かっていない行為です。

祟ってもいない御霊に対して、
祟りを鎮める的な動機で、
供養したり、
訳の解からない霊能者に依頼したり・・・

もちろん供養は大切なことです。

でも、祟ってもいない御霊に対して
「 祟りが恐いから 」
などという動機で、それを前提にした気持ちで、
供養することは、
供養になっていないという事です。

それは単なる駆け引きです。

自由競争の市場経済の枠組みのなかでの
「駆け引き」は健全な「競争」です。

神仏・・・祖霊・・霊魂

目には見えない「真実の世界」の土俵では
「駆け引き」など通用しません。

結果に対する強い執着を、
美化し、それのみに意識を向けた
空回り行為。

その愚かなる行為を助長するのが
怪しい霊能者であり、

全員を「偉い先生」に祭り上げ。
煽てて煽る宗教団体の弊害です。

水子供養とは、
この世に生まれてくる事のできなかった
子供に対して、
愛情と、弔う気持ちを持つことです。

それを通して
「人間の命の尊厳を知る」

そして、目の前に
救える生命があれば例え一人でも!!!

と「感じること」なのです。

それが、自然に手を合せると行為になる。
そういった過程を経て初めて
供養となるのです。

この順番が大切なのです。

このとき、悲しんでいた御霊が、
安らかな気持ちになるのです。

この世とあの世は表裏一体
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