名古屋の白ウサギ・1964年生

自称・宗教家・・宗教家とは職業ではなく「私の生き方」です。
職業・会社員、投資家  趣味・偽善事業

「謙虚な心」と「畏敬の念」

2025-02-10 | 宗教



・・問・・

神仏を信じ、信仰深い人は病気にならないか?

・・ウサギ仙人答えて曰く・・
神仏を信じていても、信じていなくても、病気になります。

・・問・・・
神仏に願えば、難関な試験に合格するか?

・・白ウサギ仙人答えて曰く・・
素質と、努力の成果が合否を決めます。
合否は、願掛けとは無関係です。

・・問・・
ならば、祈願・祈祷・お守り・・・
これらは無意味???

・・ウサギ仙人答えて曰く・・
はい、無意味です。

但し・・・
それは「ご利益」という打算に対して
「無意味」と申しているだけです。

「区切り」
「節目」「作法」「憶念」
「神社仏閣の維持ための寄付」
という意味に於いては有意義。

これは「文化」であり、
「文化を重んじる」という事が
「信仰」の意義でり
「品性」である。

それ故に、
 蒲鉾の板に
下手糞な字で神様の名前を
勝手に書いて、
拝んてはいけない。

蒲鉾の板は無意味でも、
このような行為は
「神への冒涜」

神を信じる・・
神を信じんじない・・
神を信じる振りをする・・

それは個人の自由であるが、

「冒涜」は赦されない。

・・問・・
信仰深く慈悲深い人が事業を
はじめた場合、必ず成功するか?

・・白ウサギ仙人答えて曰く・・
信仰深い人であっても、
潰れるときは潰れます。

・・問・・・
ならば???
「 神仏を信ても信じなくても、結果は同じ 」
という事では?・・・・

・・白ウサギ仙人答えて曰く・・・

はい、仰る通りです。

人間、死ぬ時は死にます。
病気になるときは病気になります。
交通事故に遭うこともあります。
家庭不和に悩む事もあります。
対人関係に悩むこともあります。
事業に失敗することもあります。

ただ・・ここからが肝心です。
「既に起きたこと」
「これから起きそうなこと」
これに対して、どのように捉え、
どのように感じ、
どのように対処するか、
そして、そこから何を学び、何を掴み取るか?
これこそが、宗教の存在意義なのです。

・・問・・・
それな事なら・・神仏を信じ、
信仰したりする必要など無いと言う事に
なってしまうんじゃないですか???


・・白ウサギ仙人答えて曰く・・・

はい、仰る通りです。

別に神仏を信仰する必要などありません。

神仏を信じることより、
「謙虚な心」と「畏敬の念」、
この二つのほうが
遥かに大切なのです。

・・問・・・
ウサギ仙人!!!
アンタそれでも宗教家ですか???

・・白ウサギ仙人答えて曰く答えて・・・
はい、私は宗教臭い宗教が大嫌いな、
自称・宗教家です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太陽は明るい 

2025-01-31 | 宗教
 

 太陽は明るい 

  炎は熱い 

 氷は冷たい

これ、当然の事です。

別に「 信じる 」必用などありません。

「 太陽は明るい事を信じます 」
「 炎は熱いという事を信じます 」
「 氷は冷たいと信じます 」

もし、こんな事をいう人がいたら、
その人は、
太陽も、火も、氷も
その存在を信じていない。

これ即ち、腹の底では信じていないのに、

「 信じるべきだ 」
「信じなければならない」

と・・自分に対して言い聞かせている場合もあり得る。



「 神を信じる 」 
私はこの言葉を使うことに恥じらいを感じます。

「徳を積む」・・
この言葉も可能な限り使いません。

この言葉を使うことに
大きな恥じらいを感じるからです。

そういう意味で、
日本古来の神道は素晴らしいと感じます。

神道は教義を持たないからです。

神道の祝詞に、
「徳を積め」
「善行を為せ」
などと言う言葉は出て来ません。

日本の仏教に於いても、
親鸞聖人はこのような言葉を一切
経典に記していていません。



真の宗教の目指すものは、
「 信じる 」ことでは無く。

「 自分の内に宿る永遠の生命 」
を実感することであると思います。

  永遠の生命  

こそが、神の分霊であり、
仏の化身であると感じます。

「 信じる 」
を超越した人こそが、
真の宗教家であると思います。

即ち、神を信じる・・
信じない・・
そんなことは、どうでもよい事であると思います。

現に、無神論者のなかにも
「 自分の内に宿る永遠の生命 」
を自覚する偉大な人間は多く存在します。

逆に、自称・信仰者の中に
神を信じていない人も存在します。

真に偉大な人は
「信じる努力をしていないごく普通の人間」
であると感じます。

そう云う私も、
幾重にも重なる皮を剥がしてみたら、
実は「信じようと努力している」
人間であるかも知れない・・

自問自答しながら生きています。

ウサギ講の目指すものは、
「 神仏を信じる 」
という言葉を忘れることです。

同時に「徳を積む」という言葉を
忘れることです。

皮肉なことに・・・

宗教団体は、 
「神仏を信じる努力をする偉い先生」
を多く排出する。

驚くことに・・

「信じようと努力している」
人間はの中には、
巨大な宗教団体のトップも
存在します。



信じていない人が、
信じるように人を誘導する・・

この行為を
「支配」と呼ぶのだと思います。

支配とは、信じる振りをする人
がある一定数に達した時に起きる、
「集団催眠」であるかも知れません。

何物にも支配されない人間でありたい。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魂のレコード盤

2025-01-10 | 宗教

今から44年前、
私が16歳の時に買った
荒井由実のLP・・・

このとき、荒井由実が将来、
大物シンガーになるなどとは、
まったく想像していなかった。

レコードの時代は終わった・・

この2枚だけは
どうしても捨てられない。

♪♪・・頑固者だけが悲しい思いをする・・・♪

私が今生を終えて、
あの世に行ったとき、
子供が、「 なんだこれ??」
と言ってポイと捨ててしまうだろう・・・

これは、悲しむべき事ではなく、
喜ぶべき事だと思う。



死ぬ時は金も、物も、地位も、名誉も、
持ってゆくことは出来ない。

そのとき、持って行く事ができるのは、
自分が、最終的に
「 何を思い、何を行ったか 」
という事実のみ。

その事実は、
自分の魂のレコード盤に刻まれている。

これは、消し去る事も、
捨て去る事もできない・・・

最終段階で、魔化しも、
修正もできない・・

魂のレコード盤に刻印されている情報とは、
どんな経緯があろうとも、
どんな紆余曲折があろうとも・・・
そこから得た「 答え 」に他ならず・・・


これこそ、神が人間に与えた 

絶対的な‘ 平等 ‘

やがて、その情報を自分の子供が再生する。

そして、それに続く、子孫が再生する・・・
これは、確実な事だと思う。

このことは「民事」であり、
神は民事に関与しない。

もし、仮に輪廻転生があるなら、
自分自身が、「 来世 」で、
そのレコードに刻印されている情報を、
新たなる、
最新の再生機で再生するのでしょう。

その情報は、時、場所の要素によって
絶妙な補正が加えられて、
妙なるメロディー奏でるのかも知れません。

これは、死んでからしか分からない、
事です・・・
死んでからの
「 お楽しみ 」



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釈迦は死後の世界に関して、肯定も否定もしなかった。

2024-12-24 | 宗教


 平生業成  
 へいぜい ごうじょう

これは、親鸞聖人の
教えから出た四字熟語です。

 平生 =死んだあとではない、生きている今現在。

 業 =人生の大事業 
 
 成 =  完成、達成



・・・・私の訳・・・・・

人間死んだ後、
どうなるかは誰にも解からない。

生きているうちに
必ず人生の目的を達成しなさい。

・・・・・・・

 現生不退  
げんしょう ふたい

この言葉も、
親鸞の教えの核心部分であると思います。


・・・・・・私の訳・・・・・・・

生きているうちに(現生)
必ず幸福になりなさい(不退)!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神を試すなかれ

2024-12-02 | 宗教


徳を積んでも
何も返ってこない・・・

それでも、苦しむ人がいれば助ける。

目の前で、死にそうな人がいれば助ける。

 嫌な奴になると疲れる・・

それでも・・
必要とあらば、
徹底的に嫌な奴になる勇気を持つ・・



「嫌な奴」が、
善意の仮面を被った愚か者の垂れ流す
害悪を阻止していることもある。

実際のそういう勇者と出会ったことがある。
コトバを出すのも野暮だと思って、
黙って敬礼した。



 自分の良心の声のみを恐れ、それに従う 

徳は「積む」ものではなく。

 捨て去るモノ 

捨てなければ得られない。



私の申し上げたいことは・・・

「因果の法則」の否定ではありません。

否定ではなく!! 肯定しているのです!!!

「因果の法則」「善因善果」を深い意味で
肯定しているです。

「駆け引きとしての因果」を否定することで、

 真実の因果の法則  

を肯定しているのです。



耶蘇伝に記された言葉を借りるなら、

 神を試すなかれ 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

科学万能論者の背後に 神を感じる。

2024-11-28 | 宗教


ニュートン ・ デカルト の登場以来
人類の科学技は急激な飛躍を遂げた。

ニーユートン ・ デカルト 
が生み出した近代科学思想は
人類の長い歴史のなかで、わずか300年の間に
人類に多くの 富 をもたらした。

フランスの哲学者 デカルト閣下は 
「 物心二元論 」
を唱えた。
物心二元論とは 
物質と精神は、まったく別物であり、
分離して考えるべきだ・・・・・
というもの。

デカルト思想は、 
宗教に対する挑戦 であった。

対立は一層深刻になるはず・・・・

不思議なもので

その結果として、
血なまぐさい対立や弾圧は格段に減った。

宗教と科学 が完全に分離された事によって
お互いの 縄張りが確立され、それまでに比べれば
はるかに 平和的な状況となったのではないだろうか・・・

私が思うに・・・

  ニユートン閣下、 
デカルト閣下、 どちらも

   神の使い 



ニユートン ⇒ デカルト 
という流れのなかで
宗教の否定、若しくは
 科学と宗教の決別
が行われたのだが、

これも天の摂理
であると強く感じる。

神は
時と 場所と 人 によって
それが神を否定する思想であったとしても
人類にとって最も合理的な方法を
与えているのではなかろうか・・・・

私は、若い頃 
科学万能主義者 、無神論者 に対して
敵意を持っていた、

60歳になった今、
その敵意はまったくない。

神 を否定されても腹が立たない
宗教 を否定されても 
何とも思わない

科学万能論者 の背後に 
神 を感じるからだ。

宗教否定論者の 
頭上に 仏 を感じるからだ。

なかには 暴力的な、攻撃的な 強烈な
戦闘意識 を持った
 唯物論者 無神論者 もいるだろう。

そういう輩に対しては、

礼節をわきまえた反撃
が必要だと思う。

でも、そういう輩は 沢山いそうだが、
めったにいないような気がする。

同じ人間同士でありながら、
根本的な思想の違い、
価値観の 違いはどうしても起きる。

最も平和的 最も合理的に
人類の進化を目指すなら

宗教と科学はお互いの
領域守るべきであると思う。

もし、融合を目指すなら、
最終的には、争いとなる。

双方が礼節を持ち、
敬意をもち、尊重し合うことのほうが
大切ではないだろうか。



事の本質をたどれば、

 宗教は「方便」という大義のもとでは
嘘が許される世界であり、

 科学は嘘が許されない世界である。

もちろん、科学にもウソは存在するが、
「原則」としてウソは許されない。

このことを深く受けてめて、
反省することが、
これからの宗教関係者に
課せらた課題はであると思う。





 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最も尊重すべきもの

2024-11-23 | 宗教


基本的人権の尊重
これは重要な考え方だと思います。

ただ・・・・
皮肉なことに・・・・

この言葉には、
「 天国 と 地獄 」 両方が
同時に表現されている。

「 基本的人権 」 の 
‘ 基本 ‘  とは何か?

この定義次第で、
この言葉が人間を不幸にしてしまう。

「 基本  」 を、
 目に見える人間( 物質 )と定義した場合、
多くの人を不幸にします。

この考えかたは、
物質としての人間の尊重であり、 
その奥に宿る、
生命( 霊 )に対する尊重がありません。

こういう考えかたは、
真実に反します。

それ故、
不幸 ・ 不調和 ・ 不完全 
・闘争・分裂を実現します。

「 基本 」 を、 
肉体の奥に宿る、

 目に見えない人間 ( 霊 ) 

と定義した場合、 
多くの人に 幸福をもたらします。

人間の最も尊重すべきものは、

 人間の内に宿る生命( 霊 )なのです。

肉体はやがて滅び、消え去ります。
霊は不滅です。

このことを悟ったとき、始めて
「 個人としての人間 」 
に対する 尊重 が実現するのです。

信じる必要はありません。

信じなくても救われます。

「 感じる 」と 「 信じる 」は別問題です。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バカにしか与えられない特権。

2024-11-02 | 宗教


 受けた恩は死ぬまで忘れない 
 与えた恩は、すぐに忘れる 

これが、運命の奴隷ではなく、
「運命の主人公」と
なり得る条件であると信じる。

こういう人こそ、
絶対的成功者だと信じる。

言葉を変えれば、最善の未来とは、
自分の善行を、
すぐに忘れてしまう事の出来る
バカにしか与えられない特権である。



その反対は・・・

受けた恩はすぐに忘れ、
与えた恩は、絶対に忘れない。

そういった心境で・・・
自分は天に貯金を積んだと信じ、
心のなかで優越感に浸る。

挙句の果てには、
自分は、霊的な位が高いなどと思い込む。



お利口すぎて、不幸な人は多くいる。

急ぎすぎて、
順番を間違えているのではないだろうか?

     

・・・南無阿弥陀仏・・・・

・・私の勝手な訳(東洋風)・・
降参しました、悪あがきはしません、お任せします



・・・アーメン・・・・

・・私の勝手な訳(西洋風)・・・
 弱い時こそ強いのです、全てを委ねます 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きっと良い閃きがあるはずです。

2024-09-14 | 宗教


弥勒菩薩

お釈迦様が入滅した後、
56億年7千万年後に
仏なると約束された方です。

指に注目してください。
親指の先と薬指の先を接触させて
輪を作っています。



これを仏教では「印相」と呼びます。

印相(いんそう)、とは、

手の指で様々な形を作り、
宗教的理念を象徴的に表すものです。

親指と薬指で作る印相を

「思惟手」(しゆいしゅ)
と申します。

この印相は、弥勒菩薩さまが、
56億年7千万年後仏になったとき、
どのように人を救おうかと考えている
お姿を意味しているそうです。



私の場合・・
苦しんでいる人がいて、
その人を救うために、
どうしたら良いかを真剣に考え、
思い悩むとき、
無意識のうちに、
親指と薬指で輪を作っています。

不思議なことに、
良い知恵が湧いて来る事がよくあります。

  

人間の脳内には、
精神系だけに関連する
 A10神経 
という神経があります。

たぶん、この印を結ぶと、
前頭前野のA10神経に微弱な信号が流れて
閃きのスイッチをオンにする為の
刺激が加わるのではないかと推測します。

私の勝手な推測ですが、
このA10神経に
「閃き」「直感」の
入り口があるような気がします。

この、閃き・直感とは・・
俗に云う「霊感」のようなものと思います。

(霊感とは、あくまでも
「脳内作用」であると思っています。)

     

弥勒菩薩様の

「思惟手」(しゆいしゅ)

これを真似ると、
脳内に指令が伝わり、
人を助けるため知恵が得られやすい
状態になるのだと思います。

重要な事を考えるとき、

 親と薬指で輪を作る 

これをお勧めします。

 きっと良い閃きがあるはずです。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文学の世界の話として受け止める。

2024-09-06 | 宗教


 輪廻転生 

輪廻転生とは??

人は死んだあと生まれかわる。

輪廻とは・・・車輪が回るという意味。
転生とは・・・生まれ変わるという意味。

バラモン教の考え方を仏教が取り入れた。

輪廻転生・・・真実か???

空想の産物か???

「絶対にアル」
と断言する宗教関係者もいる。

確証も無いのに断言することは
非常に危なっかしい行為だ思う。

ある新興宗教の教祖様は、

誰々は・・・誰々の生まれ変わりである・・・

などど断言する。



ただし・・・不思議な事に、
その内容は時々訂正される。

「kさんはナイチンゲールの生まれ変わりである」
と言っていたにも関わらず・・・
状況が変わると、

「 Kさんは実は悪魔の生まれ変わりです」
などと言って簡単に
前言を翻す教祖様もいるらしい。



私の考え・・・・

輪廻転生は

肯定も否定もできない

輪廻転生が真実だとしても、
前世を知ることは絶対に出来ない

「あなたの前世は〇〇です・・・」

と発言する宗教家、
スピリチャルさん、右脳教屋さんがいる。

なかには魂胆があって
嘘をついている人も存在すると思うが、

純粋で真面目な御方が、
大真面目に言っている場合も多いと思う。



もし、仮にの話ですが・・・

世間で有能と言われている
霊能者や拝み屋さん、
霊感のある宗教家を10人集めたとします。

この10人の方と個別に面会して、
私の前世を見てもらったとします。

そのとき起こり得ること・・・

「あなたの前世は・・・
石川五右衛門です!!!」

と全員が断言する・・・・
若しくは過半数の先生が
同じ回答をすることがある得るだろうか?

 いや・・・

「そんなことは絶対にありえない」と思います。



A先生は・・・
「あなたの前世は戦国武将です」

B先生は・・・
「あなたの前世は坊さんです」

C先生は・・・
「あなたの前世は柿本人麻呂です」

D先生は・・
「あなた前世は賓頭盧尊者です」

こんなな感じになると思います。



この場合・・・
どの先生の話が真実なのか???

正解は多数決で決めるのか???

真実は一つのはずです。

間違った回答は無限大にあります。

即ち・・・・・
前世は何だったか???
の問いに対して、答えは出せない。

前世はあるかも知れないが、
特定は絶対に不可能。

もし、それを特定したり断言したりするエライ先生がいたら。

1・・・笑って聞き流す。

2・・・神話の世界、文学の世界の話として受け止める。

3・・・心の問題としての、観念として受け止める。

4・・・勧誘や支配を目的としているようなら近づかない。

5・・・とことん矛盾を追求して論破する。
(危険を伴うのでこれは避けた方がよい)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恐怖の体験

2024-08-03 | 宗教


私が20歳の頃(今から40年前)
当時の私は
奈良大和路に魅了されていました。

当時、毎年、4~5回は通ったと思います。

奈良に行ったとき必ず、
大神神社(おおみわ神社)を参拝し、
この神社の御神体である、
三輪山を眺めるのが通例でした。

三輪山山麓に桧原神社という神社があります。

この神社のある場所は、
「 倭笠縫邑伝承地 」
と呼ばれています。

「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」
とは、
現在の伊勢神宮(内宮)に祀られてい
る天照大神を
初めて宮中の外でお祭りした場所です。

この地こそ、
現在の伊勢の神宮の出発点であると感じます。

桧原神社の境内からは、
大和盆地の景観が一望できます。

この地に立つと、
「 大和は国のまほろば・・・」
の歌が心の中に響いて来ます。

大和盆地の反対側には、
生駒山系が連なっています。

生駒山、信貴山は、
修験道系・密教系の霊場が点在していて、
日本有数の霊山としてもその名が知られています。。

私はそれまで何度も奈良に訪れていたのですが、
生駒山の方面には一度も足を踏み
入れることありませんでした。

理由は分かりませんが、
私には相性が良くない土地だと思えたからです。

そんなある日の事、
なぜか、フト思いつきました・・・

生駒山に行ってみよう・・・・

生駒山中にある、
x寺というお寺には宿坊があり、
格安な値段で宿泊できあると
云う事を知りました。

安いことも魅力でしたが、
好奇心のような感覚もあり、
その寺で、泊めて頂く事にしました。

この寺は、役行者(えんの行者)
が開山したお寺で歴史の古いお寺でした。

対向車が来たらすれ違うこともできない、
曲がりくねった細い山道を車で登って行くと、
いかにも役の行者が好みそうな場所に、
xx寺がありました。

寺にたどり着いて車を停めたとき、
日が暮れ始めていました。

車を降りたとき、
冷たい小雨が降り始めました。

掃除や庭木の手入れなども行き行き届いた、
立派なお寺でした。

石段を見上げると、
夕暮れの濃い霧の中に
本堂が浮かんでいました。

独りぼっちの私の目には
不気味な光景に映りました。

それは映画八墓村のワンシーンのような
心細さを感じる神秘的な絵でした。

石段を登り、本堂に辿り着きました。

ほかに宿泊客がいると思っていたのですが、
私以外誰もいませんでした。

どう訳か分かりませんが・・
今日は、
寺にいるのは住職ひとりだけの様子。

臆病な私は心細くなってきました・・・

・・・・・・・・

夕食の時間になりました。

夕食は住職が鍋を作ってくださいました。

大きな鉄鍋の中を覗き込むと、
ネギがたくさん入っている、
シンプルなものでした。

汁は少量で、透明・・・
出汁の味は全く
感じられませんでした。

鉄鍋の底には肉団子が沈んでいました。

鳥の挽肉に生卵を入れて、丸めただけの
シンプルな鶏団子でした。

不平を言っては失礼ですが・・・
まったく味の無い汁でした・・・

住職は、嬉しそうな眼差しで、
鍋の中に醤油と、スプーンに
山盛りの砂糖を投入しました。

(これはスキ焼と云うのかもしれません)

住職は自分の取り皿に
野菜と肉団子を取り分けると、
美味しそうに食べてお
見えになりました。

薄暗い本堂の密教の護摩壇の横で、
住職と2人でほとんど会話もなく、
黙々と食べました。

なんとも寂しく孤独で・・
異様な光景でした。

そのあと、住職は住処に帰り、
私は離れの宿坊で一人になりました。

物音ひとつしない、無音状態。
テレビもない。

気味が悪く、怖くなってきたので、
寝るのが勝ち!!と思い、
8時くらいに布団にはいりました。

そのあと・・・
恐怖の一夜が待ち構えていたのです・・・

布団に入って目を閉じると、
何やら、只ならぬ気配を感じる・・・

数人の人にジッと
見つめられているような感覚・・・
四方八方から視線を感じる。

怖くて、頭から布団に潜り込む。
眠れない。

恐怖のあまり、
布団の中に潜り込む、
それでも・・
強い視線を感じる。

住職に助けを求めに行こうと思った。

しかしながら・・
住職が寝ていると推測される御堂まで
行こうと思うと、
真っ暗な本堂を
通り抜けて行かねばならない。

暗闇を歩いてゆく勇気もない。

恐怖心は限界に達していた・・・



いっその事・・・
化け物でも、
幽霊でも、妖怪でも・・
何でもいいから、
姿を現して欲しいと思った。

幽霊が姿を見せてくれたなら、
大声で 

助けてー 

と叫ぶことができる。

しかしながら、
この状態で 「助けてー!!!! 」
と叫ぶことすらできない。

四方八方から強い視線を感じるだけで、
別に非常事態が発生した
訳ではないからである。

じっと耐え続けていたら、
今度は小便がしたくなってきました。

強い尿意を感じるも、
更に強い視線を感じる。

やはり怖くて布団から出ることができない。

尿意が更に睡眠を妨げる。

結局、夜が明けるまで一睡もできませんでした。

長い夜が明けました・・・

生涯で一番長い夜でした。



住職と2人で朝食を食べました。
そのとき、住職に昨晩の事を話しました。

住職は笑うだけでした。

そこで私が尋ねました、
「 幽霊や魔物は存在しますか? 」

住職、ニッコリ笑って答えました・・・

「  そんなものは存在しません、
怖いと思うから怖いだけですよ  」

・・・・

修験道系の密教では、
護摩壇の前での加持祈祷は必須で、
その場合、加持祈祷を受ける人には、
頻繁に憑依現象が起きているはずです。

それに、
この寺に住んでいれば何らかの体験を
しないはずがありません。

浄土真宗系ならば、
基本的には霊魂の存在を認めていないので
霊的現象を否定されたとしても
不思議ではありませんが、

この寺は、役行者の開山した寺で、
現在は山岳修験道系の密教寺院です。

それでも敢えて否定されるところに
深い意味があると感じました。

今になって思うに、
これは修験道で言う、

 「 行試 」(ぎょうためし)

あのとき体験したことは、
霊や魔物の仕業ではなく、
そういう「 現象 」を通して、
役行者が私を
「 試した」 のだと思えます。

今思えば・・・
あのとき、私が取るべき最も適切な対処方法は、
迫り来る只ならぬ気配と、
四方八方から注がれる
強い視線に対して、

ニッコリ笑って

 注目して頂けて光栄です

 歓迎して下さって有難うございます

 今ここ天国極楽浄土



と、申し上げるべきだったと思います。

その時、迫り来る恐怖の視線は消え去り・・
天女が現れて極楽浄土の
光景を見せてくれていたかもしれません。

後1か月で60歳となります。

再度、
あの寺で泊まってみたいと思っています。

もし、あの時と同じ事が起きたなら、
  
 ニッコリ笑って申し上げたいです。

  注目して頂けて光栄です

 今ここ天国極楽浄土



果たして・・
このような対応が出来るかどうか???

ひょつとしたら、
怖くて気絶してしまうかも・・・

ミラクル白ウサギの
真価が試されることになるでしょう・・・

畏れ多くも・・・
再度、役行者様と
相撲を取る日が来るのが楽しみです。

自分の生態が興味深いです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肯定も否定もしない・・

2024-07-30 | 宗教


死んで あの世 に還った霊魂が、
また再びこの世に何度も
生まれ変わってくることを

俗的には、輪廻転生 という。

(厳密に言えば、仏教の教義に於ける、
輪廻転生とは少し意味が違う)



はたして、人間は死んだ後、魂はまた再び
別の肉体に宿るのだろうか?



私は、若い頃からずっと考え続けてきた

「 生まれ変わり 」 
ほんとうなのか?



実を言うと・・
私は、
他人の過去世が分かる(感じる)
ことがある。

そういう時は、
自分で自分の感覚を否定する

この姿勢こそが自称・宗教家としての
「責務」であると思っている。

自分の感覚に自己陶酔する者は、
多くの場合、社会に害をもたらす。

科学的に説明ができない、
「何か」を感じたとき、

  自分の感覚を疑う。
科学的合理性が認められない場合、
自分の感覚を否定する 

これこそが正気を保つための
絶対条件であると思っている。



過去生を知ることはできるのか 

生まれ変わり・・とは真実なのか 



ある時、
この疑問に対する答えを出した。

 永遠の謎  

これが私の結論です



宇宙の果てはどうなっているのだろうか?

どんなものにもその 終わり がある
宇宙の果てまで行く事が出来たら
そこには何があるのだろうか?

壁 があるとする。

ならば壁の向こうには何がある。
また、宇宙があるのか?

もし、宇宙の果てに壁がなかったら、
地球上を まっすぐひたすら進んで行ったら
また同じ場所に戻ってくるように
宇宙も丸い形をしていて、
一周してまた地球に戻ってくるのだろうか?

ならば、その 丸い宇宙 の外には何がある?

結局、答えは出せない。

これは、

 永遠の謎 

即ち、「 解らない 」

が答えである。

 

「 解らない 」
とは逃げ で言っている訳ではない。

「 解らない 」 も れっきとした 

 答え   であると思う。

人間の頭脳や感性で
全ての事に対して答えを出す事が出来るのだろうか?

「 人間は、すべての事に対して必ず答えが出せる 」

と大真面目に信ずるなら、
それは、

「 争いや、戦争が
ない社会がいつか必ずやって来る 」

と、大真面目に信じる者と同列に思える。

このような輩を、
「夢見るドリーマー」
と呼ぶ。

その 希望的な妄想 が極度に達したとき、

 カルト宗教 となる 

若しくは、ドラックに走る。



アメリカで、かつて、ヒッピー と呼ばれる
人達が発生した。

ヒッピー とは、
伝統・制度などの既成の
価値観に縛られた人間生活を否定し
文明以前の野生生活への
回帰を提唱する人々の総称。

ヒッピー と呼ばれる人達の本質は
極めて純粋な人間であったと思う。

だが、哀しい事に
ヒッピー の人達の多くは必然的に

 反戦運動 ・・・・・

 薬物・・・・

 カルト宗教・・・・

 極端な形での右脳信仰・・

このような道を辿る事になった。



どういう訳か???
この種の集団は、
欲情・色情に支配されやすい傾向にあり、
フリーS▲Ⅹ・・若しくは破廉恥行動
に傾倒することが多い。



皮肉なことに、ヒッピーは、
西洋思想を嫌い、
「東洋思想」 に憧れ、歩み寄った。

「東洋思想」
にも西洋思想とは別の意味で
大きな落とし穴が存在する。



かつて、オーム真理教 に洗脳され
奈落の底に突き落とされた信者達は、
どこか、ヒッピー 
に似ているような気がする。



実を言うと、
私の 願望 としては、
輪廻転生(生まれ変わり)
 が真実であって欲しい。

でも、それは 
「希望から来る 期待」であり、

期待を持って物事を考えれば
それにたいして、
都合の良い事例や要因などしか
目に入ってこないだろう・・・



お釈迦様は、結局最後まで

輪廻転生 や 死後の世界 
について何も語らなかった。

 これには諸説ありますが、
学問として仏教を検証する場合、
お釈迦様は、
「死後の世界」や「生まれ変わり」
という概念に対して、

 肯定も否定もしない・・
という立場を貫かれた



私も、輪廻転生 (生まれ変わり)
を信じたい願望は心の奥底に確かにある。

でも、それは 「期待と願望 」
の世界に留めておくべきであると思うようになった。

この姿勢こそが、自称・宗教家 として
「私のあるべき姿」であるとおもっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疑うことを忘れた無防備な人間

2024-07-25 | 宗教


 偶然に起きたこと 

これに意味を求めると落とし穴にハマる。



3桁の数字は何通りの組み合わせがあるか??

10×10×10=1000

1千通り組み合わせがある・・

私は以前、家庭用の電気メータを
取り替えたり、
取り付けたりする仕事をしていました。

毎日、30個位の電気メータを取り付けていました。

電気メーターには製造番号が刻印されています。

製造番号は10桁なのですが、便宜上、
下3桁のみで管理されていました。

取り付けた電気メーターは、
10桁全てをデーター端末に入力しますが、
そのあとは、
便宜上、下3桁の数字のみが、そのメーターの
目印として扱われます。

「下3桁」と、「契約者名」
の2項目が契約を特定する背番号となります。

工場から出荷される計器の製造番号はランダムです。

アパートなど複数の部屋(契約)がある物件で、
取り付け時に、製造番号の下3桁が
隣の部屋と同じになると
たいへんな事になる危険性があります。

メーターの指示を検針する人は、
メーターの下3桁の
製造番号を頼りに
メーターを特定して、検針しています。

検針員は、「部屋番号」と「下3桁の計器番号」
の両方で場所を特定する決まりになっていますが・・

人間、誰しも失敗する事があります。

もし、検針員が何らかの事情で、
例外的にマニュアルを無視して、
製造番号だけで部屋を特定してしまったとします。

偶然には偶然が重なり・・偶然にも・・
もし、下3桁が、
隣と同じ製造番号なら・・
隣の部屋に料金の請求がいってしまう・・

仮に業務事故にならなかったとしても、
絶対に隣の家の電気メーターの製造番号が
同じになってはいけない。



計器取り付け作業者は
毎日、倉庫から約30個持ち出します。

下3桁が同じ製造番号が連続する確率は

 1000分の1 

であるはずですが・・・
時々、不思議な事が起きます。

同じ3桁の製造番号が
隣あ合わせになることがあるのです。。



(電力会社は、社会的責任が大きいため、
「あり得ないこと」に対しても
二重・三重のチェックが為されています。
取付作業終了後、
机上での最終チェックします。
このとき、
同一番号が並んでいることが判明することもあります。
幸いにも二重チェックが機能して、
事前に事故を阻止することが出来たのですが、
また、同じ事が起きないように・・という観点から、
重大な問題として扱われました)



長年(約13年間)やっていると、
30個の内、
同じ番号が連続して
いるこが数回ありました。

更に・・その数字が
777とか
666とか・・・
意味ありげな数字が隣り合わせになることもよくある。

欧米の陰陽師は666という数字は
魔力が宿ると考えているようです。

30個の内、666の製造番号が
隣り合わせになる確率・・・

チョット計算が難しいです。
計算できますが、
私の計算が間違っている可能性があります。
馬鹿がバレてしまうので明記しません。

とにかく、、確率的な観点では
「奇跡的な出来事」です。

13年間、電気屋として、
電気メータを毎日取り扱う中で、

 「極めて低い確率」とは・・・
「絶対にあり得ない」と言う意味ではない

「まず、あり得ない」・・・と、
いう意味でしかない・・・

「まず」と言う言葉は、
文学では通用しますが、
数学では、通用しない言葉です。

数学は、笑ってゴマカシしても通用しません。

ならば・・・

意味ありげな下3桁の製造番号が偶然に連続する・・・
これには何かの暗示があるのか??

 霊のお告げか???

 神のメッセージか???

 異次元世界からのメッセージ??

答えは明快です・・

 単なる偶然です 

対象が、たかが・・
電気メーター(機械)であるから、
何でもない事です。
電気メーターの製造番号如きに
拘る人などいません。

だたし・・

対象が、縁の深いひとの命日であったり・・
特別な節目の日付であっあり・・
時間であっあたり・・・・

人の心情や人生に関わる出来事である場合、
その偶然に・・意味を求めてしまう。

そして、それに答を求める・・

これは、ある意味・・人間の弱さ。

思考や知性を排除する行為である。

例え、目的や思想が正しくても、
ゴマカシが習慣になってしまうと、
その習慣は、普段の言動に反映し、
極端なかたちで常習化すると、
結果として信頼を失う。

もし、仮にそれが
「良い偶然のみを信じる」
というのなら、プラス思考という意味に於いて、
意義はあるかも知れない。

しかしながら、
その弊害として、
「疑うことを忘れた無防備な人間」
になってしまう危険性を誘発する。

ここに「諸刃の剣」という意味での
宗教を筆頭とする
イデオロギーの危険性が存在する。



気持ちが不安になると、
偶然に起きる現象に対して、
意味を求める・・・

「まずあり得ないこと」
が起きた場合、
それを怪しい人に相談すると、

拝み屋さん・占い屋さん・
スピリチュアル屋さん・・
全てを説明する・・・

自信満々な態度で
「偶然ではない!!」
「何々が原因だ!!!」
断言される。
断言されると、
何の根拠もない回答でも信じてしまう。

信じてしまうと、心の扉が開いてしまう。

心の扉が開いたとき、無防備になる。
魔物にとっては絶好のチャンス。



防御の扉が開放されて、無防備になった場合、
カルト宗教の思う壺・・・・

無防備な心の中に入り込んで来て、
洗脳する。

最終定期には
判断力を奪う。

偶像を売りつけたり、

金を奪ったり、
最終的には心を奪い、
骨までしゃぶる・・・

これがカルト屋さんや
怪しいスピリチュアル屋さんの常套手段。

必然と、偶然を見分ける知恵と勇気を失うと、

「変える事の出来るもの」
・・未来

 「変える事のできないもの」
・・過去

この二つの境界が曖昧になります。

そういう「心に隙間に」
 悪い人間が付け込んで来る。
 人を不幸にする悪しき思想が入り込む

更に言うなら・・



「悪い人間」に付け込まれるだけでなく・・
「悪い霊」に付け込まれる・・・

 怪しきものは、
飴とムチで人の心を支配する 

ご用心あれ・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信じる必要などない

2024-07-10 | 宗教


 快いものに耽溺せず、
また高慢にならず、柔和で、
弁舌さわやかに、信じることなく、
何かを嫌うこともない。

中村元訳
『スッタニパータ』853

・・・・・・・・・・・・・・・

南伝仏教のパーリ語経典、
『スッタニパータ』
学術的には、仏教初期に編纂された
「最古の仏典」との説がある。

「 信じることなく 」
と記されている。
この言葉には色々な説があるらしい。



・・・私は次のように解釈する・・・

 信じる必要などない、信じる事によって、
自分が偉い人間てあると勘違いしてはならぬ 



私の勝手な解釈かも知れないが・・

仏教の奥深さを痛感されられる・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善悪の違い 

2024-07-02 | 宗教


・・・親鸞聖人曰く・・・・・・

 善悪のふたつ、
総じてもって存知せざるなり 

歎異抄
註釈版853頁

・・・・・・・・・・・・・・



親鸞は、 
「善と悪の違いなど分からない 」
 と記しておられる。

 善 と 悪 との違い ・・

これを深い意味で見極めることは、
至極困難だと思う。
自分の今までを振り返ると・・・

自分の主観や、自分の都合を基準にして、
「 良いことをした 」 と思っているに
過ぎないことも多くあると思う。

人間の意思には一貫性があるとは思えない。

あるときは、他者に対して、
「 かわいそう・・・ 」 と思い、
慈悲の念を起こす。

しかし、時と、場所と、周囲の状況が変われば

「 可愛そうだ・・ 」

という思いが一変して
憎しみに変わったり
妬みに変わったり
嫉妬に変わったり・・・

人間に自分自身を救済する
力などあるのだろうか?

ましてや、苦しむ他人を
救済する力などあるのだろうか?



この疑問が、
修練の出発点であると感じる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする