話を盛る ひと・・・・
ときどき遭遇します。
「話を盛る」とは???
小さな出来事を誇張して語ること。
小さな出来事やエピソードに創作を加えて語ること。
「話を盛る」と・・・
「嘘をつく」との違いは何なのか????
私が思うに・・
1・・事実が少しでも混ざっている嘘・・・「話を盛る」
2・・事実を含まない創作・・「真っ赤な嘘」
程度の違いこそあれ、1と2、どちらも「嘘」であり、
同類であるとも思える。
何らかの目的があって、
敢えて「話を盛る」(嘘をつく)・・
という行為を習慣としている人たちもいる。
この傾向は、人格や素行とは無関係で、
心が純粋で、優しい人にも多く見受けられる。
これを「大言壮語」若しくは、
「ハッタリ」・・と呼ぶのだろう。
もちろん・・・「嘘」も、暗黙の了解と、
節度をわきまえた上でのユーモアである場合もある。
ユーモアの範囲内なら何ら問題はないと思う。
「大言壮語」の目的が、
公益の為、世の中のため、慈善の為・・
であったならば、
それは「正当化できる行為」なのか?
「目的の為には手段は選ばない」という
傲慢さも少なからず感じます。
数値的な分析・・
事実に対する鋭い追求・・・
これのみでは人類は進歩できなかった。
現実とは別問題として、
「こう・・あって欲しい」「こう‥成りたい」・・
といった「夢」が文明を創り出した。
そういう意味で、大言壮語も必要な場合も想定される。
私が警戒するのは、
道徳論や慈善を匂わせ,た、
自己陶酔を前提とした「大言壮語常習者」・・
深く関わらなければ、
薄々それに気付きながらも
「面白いひと」で済まされます。
深く関わると、嫌気がさします。
「大言壮語・常習者」とは、
本人は悪意はありませんが、
信用できない人が多い。
「大言壮語・常習者」は、
『事実と嘘の境界線』が曖昧です。
「事実と嘘の境界線」
をはっきりさせることが
出来なくなっている場合が多いと感じます。
こういう人間の、常識感覚は平凡な一般人とは、
別物である。
「自分は徳を積んでいるから許される」と・・
思いむと、厄介である。
悪意のない自己陶酔は、多くの人を欺く。
ここまで重傷化すると、
救いようがない。
「大言壮語・常習者」は、
追詰めらると苦し紛れに不可解なの事を言い出す。
神仏のお告げを聴いた
夢の中でお告げがあった
インスピレーションを受けた
奇跡的を見た
最もらしい虚言を吐くようになる。
この場合・・・真っ赤な嘘とは限らず、
「事実が少しだけ混ざっている嘘」
であることも多い。
話の中に出て来る「ひとつの事柄」だけは、
真実で、それに付随するドラマは
希望的観測が前提となった、
自分にとって都合が良い「創作」である場合が多い。
即ち「話を盛る」と言う事です。
こういう場合、創作したドラマ(作られた記憶)
の内容は、その時々の状況の変化に対応して、
都合の良いよい方向に微妙に書き換えられる。
記憶を書き換えているのだから、
本人には嘘を言っている自覚がない。
このような悪癖に蝕まれてしまうと、
かなり危険な状態であると思います。
このような人達の持つモラルとは、
平凡で地道な一般人の持つモラルとは別物です。
「善意の虚言」であっても、
こういう言動が習慣化してしまうと、
最終的には「信用を失う」
「話を盛る人」・・に遭遇したら、
仮に、相手が善意の人であっても、
反射的に警戒すべきです。
社会の中で生きて行くうえで一番大切なのは、
地位や金ではなく、第一に優先すべきももは、
信用
であると思います。
お金は失っても、懸命に働けば取り戻せます。
信用は、一度失ったら二度と取り戻すことはできません。
これは「処世術」であり、
高等な精神論とか、道徳論とは別問題、
「処世術」とは・・「損得の問題」です。
信用を失う事は「大損」です。
偉くなくても誠実に生きてゆきたい・・
損得勘定で生きています。