名古屋の白ウサギ・1964年生・

自称、宗教家・宗教家は、職業ではなく「生き方」です。
職業・会社員

狸の置物

2015-01-31 | こだわり


我が家の狸

我が家の玄関には、狸が置いてあります。

この狸、私が30歳の頃、滋賀県の信楽まで
行って買ってきたものです。

あれから、20年の歳月が流れました。

私は、すっかりオヤジになってしまいましたが、
この狸の姿は、買ってきた時と
まったく変わりありません。

狸の置物は縁起物です。

狸の置物は「 他を抜く 」という意味で縁起が良いとされていますが、
実はもっと多くの深い意味を持っています。

狸の持つ8つの意味。

① 笠をかぶってる
( 火の粉が降りかからない)

② 目が大きい 
(他人をよく見て気配りできる)

③ 通帳をぶら下げている
(お金に対して几帳面で信用がある)

④ 徳利を抱えている
(飲み食いに困らない)

⑤ しっぽが大きい
(安定感していて、ピンチがあっても倒れない)


⑥ 腹が大きい
(何事もにも動揺せず、腹を据えて取り組める)


⑦ 顔に愛嬌がある
(幸運と安心感を振りまく)

⑧ …の玉袋 
(金袋。お金が貯まる)


毎日家を出る時、帰ったとき、
20年間必ずこの狸と顔を合せてきたのですが、
この狸のおかげでかなり得をしました。

とくに、必要に迫られ、止むを得ず、
危ない人とか、厄介な人に遭いに行くときは、

家を出る時、玄関の前で一瞬立ち止まり、
この狸を数秒間見つめます。

そして、「 狸になってやる・・・・ 」

と自分に言い聞かせてから家を出ます。

自分に危険がある場合、
強固になったり、
必死になったりすると、
かえって不利になるからです。

それよりも、狸みたいに
‘おめでたい‘ キャラクター
となったほうが断然有利。

利口になるより、バカになったほうが得なときは、
バカになったほうが「 賢い 」と思います。
危機的なとき、頭の中で狸の姿を思い浮かべると、
狸になれるのです。

「 柔弱は強固に勝つ 」

これが必勝の原則だと思います。

私の正体はウサギなのですが、
危機的なときには、狸に変身します。

強運を望むなら、狸の置物がお勧めです。
狸に限らず、丸っこいモノは、
ほとんどの場合、縁起が良い。

招き猫とか、布袋様とか、大黒様とか、ウサギとか・・・

丸みを帯びた置物は縁起がよいものばかり、
逆に、尖ったモノ、鋭利なモノはあまり良い風を発していない。

日本刀の模造品などを飾っている家は、
なぜか、不思議と変わり者が多い。

家に狸の置物を置くと運気が上昇します。
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水子の祟り などありません。

2015-01-28 | 宗教

・・・・厚木の男児白骨遺体・・・

神奈川県厚木市のアパート一室で、
5歳の男児が、白骨遺体で見つかった。

白骨遺体は死後、7年経過していた。

父親のトラック運転手の●●●●(36)を、
保護責任者遺棄致死容疑で逮捕。

●●容疑者は
05年ごろに妻が家を出た後、自分で面倒を見ていたが、
仕事で留守にしがちで、週1、2日しか帰らなった。

外出時は子供を部屋に閉じ込めていた。

亡くなる2カ月くらい前は仕事が非常に忙しくて、
子供は、がりがりにやせ細っていた。

●●容疑者の供述・・・・

「この状態が続くと死なせてしまうかもと思った」

「 立ち上がることもできず、か細い声で
『パパ、パパ』と呼んでいた。その場にいるのが怖くなり、
1時間も一緒にいられずに家を出た 」
・・・・・・・・
なんとも悲惨な事件です・・・

どれほど苦しかっただろう・・・
どれほど悲しかっただろう・・・・

放置され、餓死した子供のことを思うと、
あまりにも痛たまし事件です。

自分の子供に対して、このような事をする
父親の心境が理解できません。

こんな父親に対して、
瀕死の状態の子供が、「パパ、パパ、」
と呼んだ・・・・・

その状況を思い浮かべると、
涙が出てしまいます。

瀕死の状態において、
子供は、酷い父親に対して、
どういう感情を持っていたのだろう?

怒りとか、怨みを持っていたのだろうか?

そんな感情ではなかったはずです。

それ故、瀕死の状態でも、
「 パパ、パパ、」と呼んだのだろ・・・

これは、怨念を込めて発した言葉ではなく、

父親を頼る想いと、父親を慕う想い、
から出た言葉ではないだろうか・・・

本能的な部分で父親を慕い、すがり、頼った、
にもかかわらず、その思いは満たされなかった。

このときの想い(念)は
言葉を変えれば、「 悲しみ 」である。

「 悲しみ 」とは、

怨みとか・・・怨念とか・・・
そんな攻撃的な想い(念)ではない。

・・・・・・・・・・・・・・・

巷の、怪しげな霊能者とか、怪しい宗教の人間が

「 水子の祟り 」と云う意味不明な言葉を発する。

水子の祟り などありません!!!

水子の祟りなど、
私はいままで一度も見たことはありません。

ただ、闇から闇へと葬られた胎児は、
強烈な悲しみの念を発するでしょう・・・

例えて言えば・・・

もし、私が、自分の子供に殺されたとします。

殺された私は、あの世に行って、
何を思うか?
自分の子供に対して、

「 悔しい!!! 祟ってやる!!!
呪って不幸ににてやる!!! 」

そんなこと思うでしょうか?
そんなことは絶対にありえません。

それは、子を持つ親なら誰しも同じだと思います。

子供が更正してくれることを願うでしょう。
ただ、ただ、子供の幸福を願うでしょう。

親子の繋がりとは、根本の部分に於いては、
こういう事ではないでしょうか?

その反対で、「あの世」 に行った子供が、
自分の親を、
呪ったり、祟ったりする事などないのです。

ただ・・・

強い、「悲しみの念」だけは持つでしょう。

「 パパ・・・・パパ・・・ 」「 ママ・・・ママ・・・」

と、声無き声を発する。

これは、怒っているわけでも、呪っているわけでもない。
 
この世(現象界)と、あの世 (霊界)は
別の場所にある訳ではありません。

この世と、あの世は、同時進行しているのです。
表裏一体なのです。

自分と霊的な繋がりのある魂が、

「 あの世 」で悲しんでいると、
「 この世 」の自分も、悲しむ状態を引き寄せる。

自分と霊的な繋がりのある魂が、
「 あの世 」で苦しんでしんでいると、
「 この世 」の自分も、苦しいい状態を引き寄せる。

これは、人間の肉体に例えると、
心と、胃袋の関係みたいなものです。

自分の心が、強烈な悲しみの念や、
ストレスを持ったとします。

すると、
胃袋がそれに反応して、胃痛になったり、
食欲が無くなったりします。
慢性的にそれが続くと、胃潰瘍になるでしょう・・・

これは、自分の「 心 」が、
自分の 「 胃袋 」を痛めつけやろうと
思っているのではありません。

なぜなら、心も、胃袋も、別々の存在ではなく。
同じ「自分」だからです。

「 心 」 と  「 胃袋 」 は表裏一体で、
同時進行しているだけの事なのです。

「 この世 」 と 「 あの世 」との関係は
これとまったく同じなのです。

水子の祟りを恐れて供養するなどといった事は、
あの世の真実が分かっていない行為です。

祟ってもいない御霊に対して、
祟りを鎮める的な動機で、
供養したり、
訳の解からない霊能者に依頼したり・・・

もちろん供養は大切なことです。

でも、祟ってもいない御霊に対して
「 祟りが恐いから 」などという気持ちで、
供養することは、
供養になっていないという事です。

水子供養とは、
この世に生まれてくる事のできなかった
子供に対して、
愛情と、弔う気持ちを持つことです。

それが、自然に手を合せると行為になる。
そういった過程を経て初めて
供養となるのです。

この順番が大切なのです。

このとき、悲しんでいた御霊が、
安らかな気持ちになるのです。



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ラーメンの理想

2015-01-25 | グルメ 

よく雑誌やテレビなどで、
美味しいラーメン店の紹介を目にします。

ラーメンの上に
野菜とか・・・・
肉とか・・・・

これ見よがしに山盛りされていて、
レポーターがそれを食べて、

おいしい!!!!

と絶叫遊ばされる・・・

いつもこういう光景を見るとバカらしくなる。

あなた・・・・美味しいラーメンが食べたいのか?

それとも・・・山盛りの具材が食べたいか?

と聞きたくなってしまう。

麺の上に山盛りの具が乗っていたら、
具を食べているうちに麺が延びてしまう。

それ故、麺が美味しい訳がない。

先に麺だけを食べてしまえば、問題ないと思うが、
何故か、
そういったラーメンは大きい器に盛られていない。

麺を優先して食べ終えるまで、
山盛りの具材を避難させておくスペースがない。

もっと呆れるのは、
北海道の蟹ラーメーン

ラーメンの上に大きなズワイガニや毛蟹
が乗っている・・・

なんたることぞ????

これを美味しく食べる方法などあるはずない。

蟹が食べたければ、蟹を注文して、蟹に専念すればよい、
そのあと、ラーメンを食べるというなら理解できる。

何ゆえ、ラーメーンに蟹を乗せなければならないのか?
節操のない食べ方に思える。

昔、「ノーパンしゃぶしゃぶ 」
という飲食店が話題になった。

若い上半身裸の
ノーパンの女性が、ミニスカートをはいて、接客するいった
奇怪な「しゃぶしゃぶ料理」 の店だが、

こいう店に好んで行ったり・・・・、
官官接待に使ったり・・・

そういったお方に訊きたくなる。

「 あなた、ノーパン娘が見たいのか?
シャブシャブがたべたいのか、どちらなの?  」

ノーパン娘がどうことは思わない、
これは需要と供給の問題、

でも、それに 「シヤブシャブ料理 」
と合体させるなどといった
行為は、あまりもお粗末と思える。

これは饅頭を食べながら、ビールをのんでいるような
行為に思えてならない。

私が考案したラーメンの理想系・・・



栄養を考えれば麺と同量、若しくは麺以上の量の野菜を
一緒に食べるべきである。

ただ、麺の上にそれを乗せてしまったら結局
ラーメンがまずくなる。

これはインスタントラーメンですが、
特別大きな口径の大きい器を用意。

左半分は麺
右半分は野菜と具材

これぞラーメンのあるべき姿!!!!



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不思議な表情

2015-01-24 | 時事
会見終了後の不思議な表情

イスラム国に拘束され、
人質になっている後藤健二さんの母親が緊急会見。

ニュースなどで流されている編集された
映像を見ている限りは、

「我が子を殺さないでください」
「日本政府は動いてください 」

と訴える、親の姿であり、
別に違和感がありません。

でも、この会見の無編集の動画と、
全文を読んだのですが・・・

御本人は、この場を借りて、
何かを別の事を主張したかったご様子。


・    この方がこの場で述べた事を要約すると、

1・    憲法9条

2・    反原発

3・    地球のために頑張ります。

4・    人間が地球を傷つけた。

5・    アメリカによる原爆投下

6・    息子に子供ができたことを最近知った。

      ( 孫ができた事を知らなかった? )

7・    イスラムの子供を家に泊めたい


・・・・・・・・
この会見の全文を、編集なしで読んだ限り、

私の頭脳では、
この会見の趣旨がサッパリ理解できません。

この会見は
弁論大会だったのでしょうか?

「 息子を助けてほしい 」と述べる場面では、
台本を見ながら淡々と喋る。

次の瞬間、まったく台本を見ないで、

「 地球平和のため・・・」 「 教育が得意で・・・ 」

といったお言葉を発せられる。

私の気のせいかもしれませんが・・・

このお方の顔、
はじめは少し赤っぽい光が当たっていたのですが、
それが徐々に、緑っぽくなってきたような気がしました。

そして、カン高い声で下手糞な歌を歌う
女性が目に浮かんで来ました。

たぶんこの女性、日本在住の、
日本語がいつまでたっても上達しない
カナダ国籍アジア人の女性のような気がします。

拘束されたお方の救出は
重要なことだであることは
確かですが。

んんん・・・・・ です。


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自分の不幸を祈る行為

2015-01-23 | その他

金持ちで、裕福な生活をしている人がいたとします。

高級な車に乗り、
高価な装飾品を身に付け、
立派な豪邸に住み、
頻繁に海外旅行に出かけ、
美食家で贅沢な食生活、
交友関係も広く、いつもイキイキしている・・・

こういう人を見たとき、
何を感じるか?
何を思うか?

これで自分の運命が左右される。

「 あのひとは影できっとズルイ事を
してるんだ・・だからあんな金持ちになれたんだ・・」

このように思ってしまう人も多くいる。
これはある種の ねたみ、ひがみ、である。

この事に限らず、程度の差こそあれ、
人間誰しもこういった感情を抱く事がある。

これは、人間の性(サガ)とでも言おうか、
善良な、ごく普通の良識を持ったひとでも、
こういった ねたみ、ひがみ、の種を持っている。

ただ、この性(サガ)を抑制する技術を
身につけていないものは、
自分が不幸になる。

「 あのひとは影できっとズルイ事をしてるんだ」

と思う心の背景には何があるか?

こういう 「 思い 」 裏側には、

「 あの人に幸運が無ければよいのに 」

という恨み、ねたみ、から来る「 本音 」
が隠されている。

‘ 嫉み ‘ とは、
無意識のうちに 「人の不幸を願う」 感情なのです。
これを「 祈り 」と言い換えても間違いではない。

即ち、人の不幸を祈っている事になる。

強い祈りは実現する。

ただ、それは呪った相手にではなく、自分にである。
ここが一番重要な部分。

その結果、どうなるか?

自分の潜在意識
(表面意識には現われない深層部の意識)は、
「 自分と他者 」の区別ができない構造になっている。

おかしな話ではあるが、
このことを理解しないと、
複雑怪奇な人間の心の生態が
理解できない。

怨み、嫉妬、嫉み、などのが誘発する、
他人に対して、「 不幸になれ 」という本音( 祈り )
は、それを強く発した自分自身に作用する。

この祈りは確実に自分に
「 不幸な状況 」「 不幸になる選択 」を
引き寄せる。

仮に、これが正当性のある
恨み、嫉み、嫉妬であったとしても、
ことは同じ。

自分がある人にひどい目に遇わされた・・・
「あの野郎!!! 因果報応で必ず不幸になるだろ・・・・
そうじゃなければ、神も仏もあったものか!!! 」
と強く思い続けたとする。

この場合、このひとの心情は同感できる。
矛盾した事を思っているわけではない。

でも・・・

残念ながら・・・

この場合も、自分の潜在意識は
「 不幸になれ 」 という想い( 祈り )を
そのまま受け取ってしまう。

「 不幸になれ 」 という言葉( 祈り )は
それを強く発した本人の潜在意識が受け取ってしまう。

それ故、この場合も、相手が不幸になるわけではなく、
自分自身が、不幸になる為の選択を
無意識にしてしまうという結果になる。

キリストさんが仰った、
「 あなたの口から入るものは、あなたを害さないが、
口から出るものが、あなたを害す 」

という言葉は、この事を言っている。

「 くちから出るモノ 」
とは、言葉
言葉とは、言い換えれば 「 想い 」

「 想い 」とは、「 祈り 」

なんとも不条理なお話だが、
これが 心の法則、 運命の法則、

心の法則 ・ 運命の法則 は
善悪の問題とは別問題なのだ、


それ故、真面目で、正義感が強い人間ほど、
この落とし穴にはまりやすい。

生半可な宗教をかじっている人もこれと同様。。

人間は、何かを見て、何かを感じている限り、
それに対して、「想い」を発している。

ひとの幸運を本音の部分で嫉妬したり、妬んだりすることも
祈りなのだ。

ならば、幸福になる祈りとは?

「 喜ぶ 」ということ、

「喜ぶ」とは言葉を変えれば、

感謝の念

感謝の念とは?

「 ありがとう 」 という想い。

自分の潜在意識は「 ありがとう 」という念を発したら、
その言葉を、そのまま無条件に受け取る。

とにかく、バカになってすべての物に、人に、事に、
 「 ありがとう 」と念じれば、

潜在意識はその言葉を無条件に受け取る。

( 水に向かって‘ ありがとう‘ 
語りかけると、水の性質に科学的変化
が起きるといった類のインチキ科学とは別問題、
あれは、単なるマヤカシです。‘ガマの油売り‘
と同列です )

人間誰しも、膨大な量のマイナス感情(エネルギー)
を潜在意識に蓄積している。

その一つ一つを草むしりをするように
抜き取ろうと思っても不可能である。

これを打ち消す万能のエネルギーは

「 怨まない心 」

お釈迦様はいった・・・

「 怨み心をもって、怨み心を打ち消す事はできない。」
・       ( 法句経の一節 )

何が言いたい?
「 怨んでいる心は、怨んでいる 」
ということ?
当たり前じゃないか!!!
と思えてしまうような言葉ですが、

怨み心を打ち消す為には、
「 怨んでいない心 」 を持ってくる以外
方法はないということが仰りたかったのです。

これ即ち、
喜ぶ心
感謝する心


「怨んでいない心」 を発するとき、
自分にとって最も適切な思考が現われる。

この思考が、自分の行動に対して、
「 最も適切な判断 」 を実行させる。
「 最も適切な人・モノ・事 を引き寄せる 」

最も適切な判断が、最善の未来を築く。












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琵琶の演奏でフラダンス

2015-01-21 | グルメ 

今日はわたしの大好物
クレソンサラダ
造り方は至ってシンプル。
半分に切ったクレソンに
オリーブオイル、レモン果汁、砂糖、塩
を加えただけのシンプルなサラダ。

これを一度食べたら虜になる。
二度食べたら中毒になる。
三度食べたら、夢にまで出てくる。

クレソンの野趣あふれる風味こそ
旨さの原点。

今日はどうも気分が重い
こういうときこそ好きなものを食べるに限る。


アボカドの刺身

これまた美味。

これも癖になる風味だ。

アボカドをワサビ醤油で食べる。

口に入れた瞬間、
奇抜な映像が脳裏を過ぎる。

綺麗なお姉さんが、
琵琶の演奏をバックミュージックにして
フラダンスを踊っている・・・

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死にたくない!!!

2015-01-20 | 宗教

京都の某有名寺院に、
著名な僧侶がいました。

このお方は仏教界では信望が厚い
高僧でした。

このお方が死を迎えようとしているとき、
弟子の一人が高僧に懇願しました。

「 最後にひとことでいいから、死についての
真理をお聞かせ頂けないでしょうか?」

高僧は答えて
「 わかりました、明まで考えてお答え致しましょう 」

しかしながら、高僧は次の日も、その次の日も、
その約束を果しません。

弟子たちが尋ねても、

「 明日まで待ってください 」と言う。

何度催促しても、この調子で、
一週間の月日が流れてしまいました。

8日目になって、高僧はついに重い口を開きました。

「 きいてください。私は死にたくありません。
私はいままで、修行を積んで
悟ったつもりでいましたが、死にたくないのです。
これが私の最後の言葉です 」

弟子たちは唖然として、
以後この事はいっさい口にしなかったとのこと・・・

・・・・・・・・・・・・

このお話は、ほんとうにあったお話らしいです。

私は思います・・・

生きたい!!!

死にたくない!!!

こそが、人間のもつ究極の願望

これに難しい屁理屈を並べる必要などない。
これこそが「 生 」 に対する究極の真理
ではないだろうか。
 
ならば、なぜ自殺という行為があるのか?

焼身自殺を決行した人は、
自分の身体に火が着いた瞬間、必ず走り出すらしい。
なぜだろう?

死にたくないからだ。

生きたいからだ。

自殺をするからにはよほどの悩みがあるのだろう。

でも、この悩みとは、
自分の意識の表面の部分で起きていることであり、
意識の内面では、

死にたくない!!! 

と思っている。

それ故、自分で火を着けたにも関わらず、
無意識のうちになんとか助かろうと、
最後の力をふる絞って走り出す。

いのちがある限り、
生きなければならない。

他の生命を奪ってはいけない。

なぜなら、
すべての人間は
生きているのではなく、
大いなる力によって、生かされているからだ。


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鳥の唐揚げ定食・ご飯お替り自由

2015-01-18 | 出来事

今日は外食となった。

大好物の鳥の唐揚げ定食。

ご飯はセルフサービスでお替り自由。

若い頃は、5杯はお替りした。

鳥の唐揚げがあれば、
今でも4杯くらいは食べる事ができる。

でも・・・

悲しい事に・・・

肉体労働していない50男が、

そこまで食べたらダメだ。

結果的に自虐行為となってしまう。

欲求を際限なく満たす事は、

自分をイジメる事になる・・・

太りすぎる事は、これ即ち自己虐待・・・

自分を虐待するものに何ができよう。

そんな事を思いながら、唐揚げ定食を食べた。

ご飯は2杯目でストップした・・・


皮肉なもので・・・物資の乏しい国の人は、

「 腹いっぱい食べたい!!! 」

と願っているでしょう・・・

お気の毒です。

「 腹いっぱい食べてはいけない!!! 」

などと言っておられる事は、贅沢な状態なんだよね・・・

こういう現象に対して、自分の置かれた状況に

まず感謝する事が第一だと思うね。
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マズローの鶏

2015-01-17 | 思う事


アブラハム・ハロルド・マズロー
( 1908年4月1日 - 1970年6月8日)心理学者。

マズローは、アメリカに移住した
ユダヤ系ロシア人移民(貧困家庭)の長男。

マズローは、従来の心理学が避けてきた、
価値、美、自己実現、創造性、至高経験、倫理など、
人間的なものの研究に道を開いた

マズローは、ニワトリの飼育を
徹底的に観察しました。
たくさんのニワトリのなかに、
特に成長がが早く、大きいくなった
ニワトリがいました。

このニワトリを観察し、
普通のニワトリの違いを探しました。
そして、このニワトリが他のニワトリより、
成長が早い理由を発見しました。

このニワトリだけは、他のニワトリと比べると、
非常に合理的なエサの食べ方をしていたのです。

このニワトリのエサの食べ方を分析して、
他のニワトリにも同様なエサの
与え方をしたところ、
どのニワトリも成長が早くなった。

これは、
成長の遅いニワトリを観察し、分析するより、
成長の速いニワトリを観察、分析したほうが
有益だということです。

私は思います。

これを人間に当てはめて考えると、

他人の良いところ 
( 長所 ) に目を向けている人間と、

他人の悪いところ
 ( 短所 )に目を向けている人間。

この両者を比較したとき、
どちらが群をぬいてすぐれているか?

優秀な人間ほど、
人のよいところのみを見ている。

無能な人間ほど、
人の悪いところばかり見ている。

どんな人間でも、短所を持つ。

でも、

必ず一つや二つ、人より優れている部分がある。

優秀な人間は、その優れている部分
を観ることが出来る。

それ故、その部分を観察し、
吸収する事ができる。

これは、仕事や、学習の能力に対して
のみいえる事ではありません。

運命に於いても同じであると思う。

幸運な人をよく観察すると、
やはり、違いがある。

幸運なひとほど、
目の前にある良いこと、美しい事、
に目を向けることが出来る。

不運なひとほど、目の前にある悪い事、醜いこと、
に意識を向けている。

何に意識を向けているかで、
その人の運命はほとん決まってしまう。

「 悪と戦う!!! 」といつも力んでいる人間。

「 アッハッハー 」 と笑ってから対処する人間。

比較すると、どちらが幸運な生涯を送る事ができるか?
当然、後者である。

 愚痴ばかり言っている人間と、
些細な事でも喜ぶことができる人間とを
比較すると、
どちらが恵まれた環境が実現するか?

当然、後者です。
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ホテルでランチタイム

2015-01-12 | グルメ 

今日は駿河からステキな姉妹が名古屋に来てくれました。
名古屋国際ホテルのレストランでランチを頂くことになりました。


ホテルのレストランとなると、敷居が高そうですが、
ランチタイムはお手頃価格、ファミレスであれこれ注文するより、
ホンの少し値段が高いだけで、このほうが数段、満足感あり。


サラダ、デザート、飲み物はセルフサービスで、食べ放題。

育ちが悪い私は、ついつい欲が出て取り過ぎてしまう。

一番おいしかったのは、サラダバーにあった
「ブルーベリーのシロップ漬」
ブルーベリーは大きなガラスのドンブリのなかにふんだんに
用意されている。

その横には、ヨーグルトも用意されていて、
ブルーベリーをお玉ですくい、器に入れたあと、
その上にヨーグルトを乗せ、パンを砕いてカリカリにしたような
西洋風のフリカケみたいなものを乗せる。

これが美味しすぎる。
ブルーベリーの優しい甘みと、ヨーグルトの酸味が
絶妙な音色を奏でる。
そこに西洋のフリカケが加わると、
これが和音に変わる。

メインは 「ロールキャベツ」

ロールキャベツの上には辛いソーセージが添えられている。

この辛さは、薄味に仕上げられたロールキャベツと相性がよい、
ソーセージの辛さが、穏やかなロールキャベツに 
渇!! を与えているようだ。

たまには、
安い予算で、優雅にランチをいただく。
これも修行の一環でございます。

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ハエをつかまえるには・・・

2015-01-10 | その他


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信じられない光景を見た・・・

2015-01-07 | 出来事
●●●市に▲▲という古い集落があります。

わたしは、仕事の関係で、
ときどきこの集落を通り抜ける事があるのですが、
この集落に差し掛かると、いつも決まって、
何となく不愉快な気分になって来る。

過去にこの集落で不愉快な目に
あったことがある訳でもありません。

この集落の景観に異様なものが
存在しているわけでもありません。

にもかかわらず、
この集落に近づくと嫌な気分になってくる。
どうしてそうなるかは分かりませんでした。

今日、その原因が分かりました。

仕事の関係で今日もこの集落を通過したのですが、
信じられない光景を見てしまったのです。


忠魂碑の真正面に積み上げられたゴミの山
まるで、忠魂碑にゴミをお供えしているよかの如き光景
今日は、偶然、ペットボトル・不燃ゴミの
収集日だったのでしょう。

この集落では、この場所をゴミ収集場所に指定している御様子。

と云う事は・・・

この集落では毎月1回指定された日に
忠魂碑にゴミをお供えをしていることになります。。

▲▲▲■!!!!

忠魂碑(ちゅうこんひ)とは、
日清戦争や日露戦争の戦死者の供養のために、
建立した石碑です。

この集落の人たちは、この光景を見て何も感じないのでしょうか?

まったくもって信じられない光景です。
ひょっとしたら、
この村の人たちは、自分の家の仏壇の前を
ゴミの置き場所にしているかもしれません。

神様や、仏様や、御霊に対して、畏敬の念が微塵も感じられません。

忠魂碑にゴミをお供えするような行為は、
神・仏とかいう宗教的な要素を抜きにしても、
それ以前に、「 品性 」を疑ってしまう行為です。

ほかにどうしてもゴミを集める場所がなくて
止むを得ずこの場所を
収集場所としているのかも知れません。

仮に、もしそうだとしても・・
それならそれで、
慰霊碑の正面を避けてゴミを集積すれば
よいはず。

それだけでも、御霊に対して、
誠意と敬意を示している事になります。

なにもわざわざ慰霊碑の
真正面に積み上げる必要は無いはずです。

この忠魂碑に祭られている御霊は
悲しい思いをしておみえになります。

私がこの集落を通るたびに、
嫌な気分になった理由は、
このここにあったようです・・・
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雪を眺めながら思った・・

2015-01-01 | 出来事

2015年元旦。名古屋はうっすら雪化粧。
雪を眺めながら思った、
今年も更にバカを極めてみせましょう。
コメント (1)
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