・・誰かが問うた・・
神仏を信じ、信仰深い人は事故に遭わないか?
・・白ウサギ仙人答えて曰く・・
神仏を信じていても、信じていなくても、事故に遭います。
事故に遭う、遭わないは、
「危機管理」が出来ているか?・・出来ていないか?
ただそれだけの差です。
しかしながら・・
「危機管理」をしていても事故に遭う事があります。
それは、「悪運」です。
ならば、「悪運」とは何か?
1・確率的要因。
2・心の方向性による、無意識の選択。
3・自己否定感による自己破壊。
4・祖霊との関連性に起因する連鎖的弊害。
5・周期的な要因。
・・問・・
神仏を信じ、信仰深い人は病気にならないか?
・・ウサギ仙人答えて曰く・・
神仏を信じていても、信じていなくても、病気になります。
・・問・・・
神仏に願えば、難関な試験に合格するか?
・・白ウサギ仙人答えて曰く・・
素質と、努力の成果が合否を決めます。
合否は、願掛けとは無関係です。
・・問・・
ならば、祈願・祈祷・お守り・・・
これらは無意味???
・・ウサギ仙人答えて曰く・・
はい、無意味です。
但し・・・それは「ご利益」という打算に対して
「無意味」と申しているだけです。
「けじめ」「区切り」「節目」「作法」「憶念」
「神社仏閣の維持ための寄付」
という意味に於いては有意義。
これは「文化」であり、「文化を重んじる」という事が
「信仰」の意義でり「品性」である。
それ故に、蒲鉾の板に下手糞な字で神様の名前を
勝手に書いて神札を作ってはいけない。
蒲鉾の板は無意味でも、
この行為は「神への冒涜」
神を信じる・・
神を信じんじない・・
神を信じる振りをする・・
それは個人の自由であるが、
「冒涜」は赦されない。
・・問・・
信仰深く慈悲深い人が事業を
はじめた場合、必ず成功するか?
・・白ウサギ仙人答えて曰く・・
信仰深い人であっても、潰れるときは潰れます。
・・問・・・
ならば???
「 神仏を信ても信じなくても、結果は同じ 」
という事では?・・・・
・・白ウサギ仙人答えて曰く・・・
はい、仰る通りです。
人間、死ぬ時は死にます。
病気になるときは病気になります。
交通事故に遭うこともあります。
家庭不和に悩む事もあります。
対人関係に悩むこともあります。
事業に失敗することもあります。
ただ・・ここからが肝心です。
「既に起きたこと」
「これから起きそうなこと」
これに対して、どのように捉え、
どのように感じ、
どのように対処するか、
そして、そこから何を学び、何を掴み取るか?
これこそが、宗教の存在意義なのです。
・・問・・・
それな事なら・・
神仏を信じ、信仰したりする必要など無いと言う事に
なってしまうんじゃないですか???
・・白ウサギ仙人答えて曰く・・・
はい、仰る通りです。
別に神仏を信仰する必要などありません。
神仏を信じることより、
「謙虚な心」と「畏敬の念」、この二つのほうが
遥かに大切なのです。
・・問・・・
アンタそれでも宗教家ですか???
・・白ウサギ仙人答えて曰く答えて・・・
はい、私は宗教臭い宗教が大嫌いな、自称・宗教家です。
信仰深さと、人格との絶対的な因果関係はありません。
思想や信念に対しても人格との相関関係はありません。
これを混同すると痛い目に遭います。
現に、ヤクザさんの事務所には、
立派過ぎるほど立派な神棚が必ずあります。
ヤクザ屋さんは、一流?であればあるほど、
正月、節分、その他の神事などの、
作法を徹底しています。
「信心深い人は、みな立派な人だ」
というなら、
ヤクザ屋さんは、
徳の高い高貴な方々であるという事になります。
これは、宗教団体の信仰深い活動家や、
「偉い先生」に対しても同じことが言えます。
ヤクザ屋さんと、宗教団体の自称・エライ先生とは
ある意味、類似しています。
「自分は徳を積んで、他人より高い位にいる」
などと思いあがっている
腐った信仰者や、指導者より、
特に信仰を持たない、謙虚な一般人のほうが霊的にみて、
立派であり、遥かに勝る事が多い。
偉い人になる必要などない。
肝心なのは、
その人が、何を持つかではなく
「 何であるか 」ただそれだけです。
何を行い
何を考え
苦しみから何を学んだか
喜びから何を創造したか
ただそれだけです。
神様は、別にお願いされなくても、
全てを知っているのです。
神様は、言われるまでもなく、それを基準にして、
粋な計らいをしてださるのです。
一寸先は光です