名古屋の白ウサギ・1964年生

自称・宗教家・・宗教家とは職業ではなく「私の生き方」です。
職業・会社員、投資家  趣味・偽善事業

眼 耳 鼻 口 体 心 ・・・

2017-04-30 | 宗教

・・マザーテレサのお言葉・・

思考に気を付けなさい  それはいつか言葉になるから

言葉に気をつけなさい  それはいつか行動になるから

行動に気をつけなさい  それはいつか習慣になるから

習慣に気をつけなさい  それはいつか性格になるから

性格に気をつけなさい  それはいつか運命になるから

               

    六根清浄大祓 (ろっこんしょうじょう おほはらへ)

  天照皇大神の宣わく

眼に諸の不浄を見て心に諸の不浄を見ず

耳に諸の不浄を聞いて心に諸の不浄を聞かず

鼻に諸の不浄を嗅いで心に諸の不浄を嗅がず

口に諸の不浄を言いて心に諸の不浄を言わず

身に諸の不浄を触れて心に諸の不浄を触れず

意に諸の不浄を思うて心に諸の不浄を想わず
  
   此の時に清く潔き偈あり

  諸の法は影と像の如し 清く潔ければ

  仮にも穢るること無し
            
これは 日本古来の民族宗教 「神道」 の祝詞(のりと) 

「六根清浄の大祓」

六根清浄(ろっこんしょうじょう)の大祓の祝詞

この祝詞は人間に具わった六根

眼 耳 鼻 口 体 心 

を清らかにせよという事が書かれている。

マザーテレサの仰ることと、ほとんど同じ意味である。
                    
思考に気を付けなさい=  
意に諸の不浄を思うて心に諸の不浄を想わず

言葉に気をつけなさい= 
口に諸の不浄を言いて心に諸の不浄を言わず

行動に気をつけなさい= 
身に諸の不浄を触れて心に諸の不浄を触れず

習慣に気をつけなさい= 
眼に諸の不浄を見て心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞いて心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅いで心に諸の不浄を嗅がず

性格に気をつけなさい= 
此の時に清く潔き偈あり
諸の法は影と像の如し 清く潔けれ
仮にも穢るること無し 

           
どんな宗教も 根本はみな同じ

マザーテレサ様はカトリックの修道女
神道とは無縁です。

だけど・・・行き着く所は 同じ

キリスト教も 仏教も 神道も イスラム教も
本質においては皆同じ。

文化 民族 階級 によって
表現方法が違うだけです。

私は 仏教と神道を信ずる日本人です。
同時に、日本人であることに誇りを持つ愛国者です。

キリスト教の信者ではありません。
しかしながら・・・

マザーテレサ様のお言葉 、心に響きます。

同時に カトリック さん キリスト教 さん 
に対して大きな敬意を持っています。

マザーテレサ様のお言葉 ・・・

肝に銘じて精進します。
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魔物の正体

2017-04-21 | 宗教

ひとは、体験を通してのみ、
楽しさ、辛さ、喜び、苦しみ、
を知ることができる。

これ即ち・・・

「 ひとの苦しみ、悲しみが、判るはずがない。」
という事です。

その人にしか判らない苦しみ、悲しみが
あるのです。

ひとの苦しみ、悲しみを、判ったかのように、
「 ご最もな事 」を得意満面になって
高いところから見下ろすように、
演説して、優越感に浸るひともいます。

こう云うのを、「 傲慢 」というのでしょう。

いま思い返せば、私も若いころはそうでした。


 傲慢になるな!!! 

と、常に自分に言い聞かせてはいるけど、

重大な問題や、苦しみ悲しみを持つ人と接するとき、
思い(念)が通じない事もある。

ごく稀にではあるが、
攻撃的な態度で見下されたこともある。

プライドなどもっていない。
とっくの昔に捨てしまった。

ただ・・自分の非力さを実感すると、
申し訳ない・・・と思えてしまう。

思わず・・泣きたくなる・・・

そういう時は、
水戸黄門の歌を思い出す・・・

♪♪ 泣くのが嫌ならさあ歩け♪♪

・・・・・・・・・

こういう場合、相手の周りにバリアが
張られている事が多い。

「 バリア 」とは、念の塊り
のようなものですが、

悪霊や、妖怪、動物のような
魔物の姿となって見えることもあります。

ガマガエルのような姿をした魔物もいる。

(‘見える‘とは、映像が見えると云う意味ではなく、
‘感じる‘という意味です。 )

だだし・・・
それは、姿形のないエネルギーが
私の「 意識 」と云う翻訳機を通して変換され、
作り出された映像であり、
実在しないモノなのです。

これ即ち、科学の世界の話ではなく、
文学の世界の話なのです。

これを「 科学 」と言ってしまったら、
それは詐欺です。


「 感謝します 」
「 赦します 」
「 平和を祈ります 」
「 すべての人の幸福を祈ります 」

これは、間違った言葉ではありません。

崇高な境地であることは確かです。

ただ・・・
厄介なことに・・・
ここにも落とし穴が存在する。

強固なバリアを張った人間は、
その言葉を、「 呪文 」にしてしまっている。

魂の底から湧き上がる言葉ではなく、
後ろめたさを隠蔽する
バリアにしている。

この手のひとは、
常日頃、恥じらいなく、臭い言葉を連発する。

そういう人に限って、自分本位で、
利己主義な人であることが多い。

この呪文は、自己矛盾を自他に対して正当する、
「 免罪符 」となる。

これは、孤独感を埋める、代償としてであったり。

自分にだけ都合が良い
ドラマのシナリオであったり、演出であったりする。

これが厄介で、一番手ごわい魔物を創り出す。

・・・・

御利益や見返りのみを強く意識して、宗教をかじる者。

取引的な感覚で、善行を行う者。

宗教をかじる、権威主義の貪欲な野心家。

貪欲な利己主義者。

自分は神から選ばれた特別な人間であると思い込んでいる人。

あの人はマインドが低いとか、高いとか・・・
意味不明な分類をする人。

地球レベル、人類レベルの大きな話をするが、自分自身のことは
棚に上げるひと。

・・・・・・

こういう人が不幸にも、「 偉い先生 」になってしまうと厄介でる。
残念ながら、

宗教団体は多くの「可哀そうな偉い先生」を輩出する。

その弊害は甚大である。

この部分が、「 宗教団体の最大の危険性 」であると思う。

・・・・・・・

魔物
( 霊的な側面での、エネルギーのようなモノ )
を私の手で、剥ぎ取ってやろうと思うなら、、
ある程度出来るかもしれない。

しかしながら、
それを強引に剥ぎ取る事は、「 反則技 」である。

例えて云えば・・・
毛穴パックで、毛穴の中の不純物を強引に
引き抜いてしまうようなものです。

空いた空間に、更なる厄介な不純物が入り込む。

これをしたら、相手ばかりではなく、
自分の生命力( 霊的な )まで、
弱らせてしまう事になるのです。

だから、力任せに剥ぎ取る様な事はしません。

今まで危険な状態のひとをたくさん見て来た。
スピリチュアル世界に心酔しているひとは、特に危ない。

・・・・・・・・・・
こういう世界に足を突っ込むと、自分もダメになるし、
相手も「 依存症 」という厄介な状態に追い込んでしまう。
・・・・・・

「可哀そうな偉い先生」ではなく、
ごく普通の生活をする、善良な人のなかにも、

強力なバリア張る人には多く存在する。

こういう人と出会うと、

悲痛な想いになる・・・
何とかして差し上げたい・・・

こういう時は、
夜中にうなされて、奇声をあげたりする・・・
瞼がピクピク痙攣することもある・・・

これは、まだ自分が未熟な証拠だが、
その言葉の裏にも、落とし穴があるので
それ以上は考えない。

こういうときには、バカになる以外方法は無い、
バカボンのパパをイメージして、

「 これでイイのだ・・・」

と、心の中で呟く。

苦しみ、悲しみを分かち合う事は不可能だが・・・

「 喜び 」を分かち合う事は可能である。

不幸や苦悩の連続で、苦しみ悶える人に対し、
決して同情はしない。

分かるはずの無い、
その人の苦しみを分かったかのよな芝居や、
自己暗示をするようなこともしない。

唯一、私に出来る事は、
喜びを分かち合うこと。

これこそが、相手にに対する、
極限の誠意であると信じる。

・・・・・
喜びとは、この世に生まれて来たこと。
いま現に、
「 生きていること。」
「 生きてるだけで丸儲け 」なのです。

・・・・・
今現在、その人が苦しみ、悶えていても、
その奥に、
 完全で円満な本性が存在する。
それこそが「 人間のホントウの姿 」

不運、不完全、不調和とは、
本性を覆い隠す‘ 幻 ‘(まぼろし)なのです。

‘ まぼろし‘ を消す、唯一の方法は、
相手に対し「 ホントウの姿 」を見ること。

相手の内に宿る、ホントウの姿を喜ぶこと。

これを、霊的な視点で、
「 喜びを分かち合う 」と云う。

私が今まで起こした、奇跡の種明かしをすると・・・

同情するのではなく、
その人の「 ホントウの姿を喜ぶ 」

その私の熱い想い(念)が、相手の魂に共鳴したとき、
奇跡が起きる。

これは、理屈や、言葉ではない。
これをウサギ講では、 「 風 」と呼ぶ。

‘ ホントウの姿 ‘ とは、
全ての人間は、神の分霊であり、仏の化身
であると言う意味である。

それ即ち、魂の底から、
彼に宿る‘ 神 ‘を信じることです。

「 信じる 」 とは、 「 感じる 」こと。

いのちは一つ
「 私の‘いのち‘ 」は、
「 彼の‘いのち‘ 」と繋がっている。

だから、私の信念は、相手にも伝わるのです。

これをウサギ講では、
「 意識の共鳴 」
若しくは、
「 生命の共鳴 」と呼ぶ。

一寸先は、光です!!!
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怨みますまい この世の事は

2017-04-16 | 思う事

昭和の初期、ヒットした 

・・・明治一代女・・・

作詞・・・・藤田まさと
作曲・・・・大村能章

(一)

浮いた浮いたと 浜町河岸に
浮かれ柳の 恥かしや
人目しのんで 小舟を出せば
すねた夜風が 邪魔をする

(二)

怨みますまい この世の事は
仕掛け花火に 似た命
燃えて散る間に 舞台が変わる
まして女は なおさらに

(三)

意地も人情も 浮世にゃ勝てぬ
みんなはかない 水の泡沫(あわ)
泣いちゃならぬと 言いつつ泣いて
月に崩れる 影法師

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この歌を時々思い出す

ひとの心の奥深さ、
ひとの業の深さを感じる。

虚しさを感じたとき、
私は、鼻歌を歌う

♪・・・ 仕掛け花火に 似た命
燃えて散る間に 舞台が変わる・・・・・♪

いつか舞台が変わる日がくるだろう・・・・・

腹が立ったり、憎しみの想いが込みあげてきたとき
私は、鼻歌を歌う

♪・・・・意地も人情も 浮世にゃ勝てぬ
みんなはかない 水の泡沫(あわ)・・・・♪

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成功とは、

2017-04-15 | 思う事


ラルフ・ウォルドー・エマーソン曰く・・・

成功とは、
しばし笑うこと。
聡明な人達からの尊敬を得ること。

子供たちから愛情を得ること。

正直な批判を受け入れること。

ニセの友人の裏切りに耐えること。

美しいものがわかること。

他者の中に最も良い部分を見つけること。

庭をきれいにしたり、この社会を住みやすいところにして、
世界を少しばかり良くすること。

「 あなたが生きているから、私は生きるのが楽になった 」

と思ってくれる人が、
一人でもいい、
そう思う人がいることを知ること。
成功したというのは、そういうことだ。

・・・・・・・・・・・・・・・

ラルフ・ウォルドー・エマーソン
( 1803年 - 1882年 )

アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、
エッセイスト。無教会主義の先導者。
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私の好きな詩

2017-04-13 | 宗教


ただそれだけ 
    
........仏教詩人 坂村真民、作...............

宗教臭い人間になったら もうおしまいだ
仏教臭い人間になったら もうおしまいだ
詩人臭い人間になったら もうおしまいだ

人を救うんだ 人を助けるんだ 
そういうことを 
口にする人間になったら もうおしまいだ

花咲き 花散り ただそれだけ それでいいのだ

ただ黙っていても 心が結ばれていく 

そういう人間にならなければならぬ

・・・・・・・・・・・・・・・・・

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自分の運命に対して責任をもつ。

2017-04-11 | 思う事


ウサギ家・・・災害時の為の備え・・・


普段の生活で頻繁に飲む飲料・・・
常に2ケースを保有し、1ケース以下にしてはいけない。
2ケース保有の状態から、
消費して、残数1ケースとなった時、
新しく1ケース買って来る。
常に古いものから飲めば、賞味期限は伸び続ける。


ワカメは必ず常備すべし。
放射能・科学兵器に被爆したときは、
ワカメを食べることが、簡単かつ有効な対策である。








・・アメリカ軍の動向・・

アメリカ軍発表の情報によると・・

世界最大の原子力空母「カール・ビンソン」
(乗り組み員5,600人)は、
オーストラリアに移動する予定を変更し、
朝s半島周辺へ向かっている。

アメリカ海軍の原子力空母、
「ロナルド・レーガン」は、
日本の横須賀基地に配備済み。

主力原子力空母が2隻同時に、極東アジアに配置されるのは、
極めて異例な状態である。

いま、アメリカの鼻息は荒い。

ktTY軍が、少しでも戦闘行為を起こしたなら、
アメリカは10倍返しする積りだ。

雨ちゃんは、1発殴られたら、10発殴り返す。


日本も無関係ではない、

日本国内には大勢のktTY工作員が潜伏している。

ktTYは追い込まれたとき、
雨ちゃんの同盟国である日本にも、
爆弾テロや、化学兵器によるテロを仕掛けて来るだろう。

一番手っ取り早くて、有効なテロは、
浄水場・水道配水施設を狙った科学兵器攻撃。

浄水場を攻撃すれば、
全ての家庭に毒物攻撃が可能になる。

常に、危機を想定した上での、最低限の備えと準備が必要だ。

「取り越し苦労」 や「被害妄想」はよくない。

だが、取り越し苦労と、「 危機管理・危険予測 」は意味が違う。

起こり得る、最悪の事態を想定し、
それに対しての最低限の準備をすることは、

「 責任 」である。

自分の運命に対して責任をもつことが、
結果的に多くの人を幸福にすることになる。

人事を尽くしたあとは、天命に任せる。

暗い心で、悩み、心配し、危険を予測したら、
暗い未来しかやって来ない。
これを取り越し苦労と呼ぶ。

明るい心で、悩み、心配し、危険を予測すればよい。
これを「 危機回避 」と呼ぶ。

明るい心持てば、未来は明るい

備えをすれば、備えが無駄になる。
そして、「 これでいいのだ・・・」 
と思える。

備えをしなかったら、
「 備えが必要だった・・・」と嘆くこととなる。

起こり得る危機を
あらかじめ想定していれば、仮に備えが出来ていなくても、
最悪からは回避できる。

「 人事を尽くさず、天命に任せる者」を、
天は助けてくれない。

なぜなら、天は全ての人に対して平等だからだ。

その平等の上に
「 運命選択の自由 」
が乗っているだけだ。

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日ユ同祖論・・・信じていません。

2017-04-08 | 宗教

新興宗教の信者や、
スピリチュアル系の人間のなかに、
「 日ユ同祖論 」を信じている方が多く存在しています。

日猶同祖論、
(にちゆどうそろん)とは??

日本人(大和民族)と
ユダヤ人(古代イスラエル人)は
共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説。


私は、一切信じていません。

・・根拠・・1・・・

ユダヤ教は、一神教であり、八百万の神を信じる日本古来の
多神教とは、宗教としての根底が違っていて、
それは、類似どころか正反対である。

儀式や、風習が似ていたとしても、
根本的な部分で大きな違いがある。

希望的観測をもってすれば、
世界中のどんな宗教とも
形態・儀式・風習のなかに類似性を見つける事が
可能である。

・・根拠・・2・・・

日ユ同祖論の根拠として、
日本語の発音や単語と、ヘブライ語との類似点を
主張する者も存在する。

古代のヘブライ語の発音は、誰にも分からない。
発音記号などで古代の発音が伝承されていたの
なら話は分かるが、
現在のヘブライ語の発音と、
現在の日本語の発音を無理やり関連付けたとしても、
それは、単なる語呂合わせであり、洒落に過ぎない。
根拠としては余りにお粗末。

江戸時代に渡米したジョン万次郎が、日本に帰国後、
聞き覚えで習った英語を人に教えるとき、
What time is it now?を
「ほったいもいじるな」と教えたそうです。

近年、「ほったいもいじるな」
がニューヨークで通じるか実験したところ、
約半分くらいのアメリカ人がその意味を
察知したとの事です。

言葉の音や、リズムや音などは、その気になれば、
世界中の言語に対して、‘こじつける‘ 
ことが可能なのです。

・・・根拠・・3・・・

古代の日本に、もしユダヤ教が伝来していたなら、
古墳の埋葬品や、正倉院などのなかに
ヘブライ語の記されたものが残ってるハズであるが、
未だかって、
そのようなものが見つかったことは一度もない。、

・・・根拠・・4・・・

ユダヤ人とは、特定の民族を指す言葉でない。
ユダヤ人の定義は、
「ユダヤ教を信仰している人」であり、
現在のユダヤ人は、
古代イスラエル人に直接つながる民族ではない。

現在のユダヤ人は、
ユダヤ教徒に改宗した人やヨーロッパの
白人系の人たちの混血であり、
古代イスラエル人と血統的な繋がりはほとんどない。

・・・根拠・・5・・・

伊勢神宮の、参道(境内以外の一般道)
に建ち並んでいる灯篭には
ユダヤ教の紋章・「ダビデの星」
が刻まれている。

これを根拠にして、日ユ同祖論を主張す方も多い・・

これも、ナンセンスなお話で、
伊勢神宮庁は、このことに関して、

「民間の団体がやっている事で、一切関知しない」

と云う姿勢です。

これらの灯篭は、昭和初期に伊勢神宮とは
直接的な関係のない、
民間の団体が音頭を取り、
一般人から寄付を募って建てたものです。

その際、当時の石材業者の組合が話し合って、
あの紋章を刻むことに統一したという経緯があるそうです。

この背景には、日ユ同祖論を信じ、
それを布教したいと云う思惑のある組織や団体が
関与した可能性もあると感じます。

外部の有志団体の行う事に対して、伊勢神宮側としては、
「無関係」と云う立場を取り、
少なくても好意的ではないようです。

現に、私が伊勢神宮の神官の方に、
近くにある、外部団体の事を尋ねたら、

無表情で、ひと言・・・

「 神宮とは、まったく関係ありません 」

回答はそれだけでした。

・・・根拠・・6・・・

「日ユ同祖論」の起源は、意外と新しい。
最初に唱えた者は、日本人ではない。

明治8年、N・マックレオド(イギリス人)が提唱したのが
事の始まりであり、
それまでは、そのような説は日本国内にも存在しなかった。

昭和初期になって、酒井勝軍氏・山根キク女史らが
古代ユダヤとの関連を、竹内文書なる偽書を宣伝しながら、
日本古来の宗教と、ユダヤ教とを無理矢理な
関連付けをした奇怪な説(教義)を流布。

これが、日ユ同祖論の拡散の切っ掛けとなる。

因みに、現在、山根キク女史の孫に当たる人物が、
名古屋大学の研究員として
学術の世界で活躍しているが、
「祖母は虚言癖と、精神疾患があった」と告白している。



信じる信じないは個人の自由であり、信じたからと言って別に
害はないかもしれませんが・・・・

怪しい宗教団体や、カルト団体が、信者を勧誘するとき、
興味を引くネタとして、
このような奇怪な説を利用することが多い。

「竹内文書」
を持ち出してくる団体や、集団には要注意。

竹内文書は夢とロマン好奇心を奮い立たせる
SFチックな内容である。

実は、私も二十歳前の、若い頃は、少し信じていた。
・・と云うよりも、『信じたかった』が正解かも知れない。


かつて世を騒がせた、オーMも、
「 ひひいろがね 」と云う、
超合金が太古の日本に存在していた・・・云々・・

太古の日本には「天の浮舟」と
呼ばれる飛行機が存在していて、
天皇はそれに乗って世界を巡った・・・云々・・

などと言った、
竹内文書の荒唐無稽な記述を紹介して、
布教活動や、信者獲得の為に使っていた。

最近、急成長している、
ある新興団体の職員をしている、ある人物が、
竹内文書を題材にした最もらしい動画作り、ユーチュ等で、
発信しています。

「誰々は、誰々の生まれ変わり・・・」
などどいうカルトチックな話を除けば、
この団体は、ある意味、
理論的で、知的な団体だと思っていましたが、
こういう手法に対しては、疑問を感じてしまいます。

たぶん、このような説を宣伝している
御本人は、その事を信じていないと思うのですが・・・

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何もしなかったと嘆くより・・

2017-04-07 | 出来事
白ウサギ、東京での出来事・・・

池袋から品川に行くためJR中央線に乗ったときの出来事・・・

電車は、原宿駅に差し掛かった、
原宿駅のホームは若者の姿が多く見受けられた。

電車が停車して、ドアが開く・・・
若者が大勢乗り込んできた。

ドアが閉まるブザーが鳴り始めた。

ドアが閉まりかけた瞬間、
3人連れの20歳前後の若い娘が駆け込んできた。

強引ではあったが、3人の娘は辛うじて乗り込むことが出来た。

しかしながら・・・・

3人のうち、一番最後に乗り込んだ娘の
手提げカバンがドアに挟まれてしまった。

約30センチ四方で、長いショルダーベルトの付いたカバンだった。

ショルダーベルトが、閉じたドアに挟まり、
荷物が入った本体の部分だけが車外に出た状態だった。

発車寸前の最終確認で、駅員か車掌が発見して、
ドアを開けると思った。

それは甘い考えだった・・・

電車はそのまま発車した・・・

もしベルトに腕を通したいたなら、
ベルトから腕を抜く事ができない状態となってしまうだろう。

その状態で、
外に出ているカバンが何かに接触したら、
ベルトに引っ張られて腕を締め付けられてしまう。

幸いにも、そのような状態ではなかった。
・・・・・
カバンを挟まれた若い娘は、

信じられない・・・
どうしょう・・・
マジ???・・
超ムカつく・・・

今時の若い娘の発する独特のイントネーションで
言葉を発してはいるが、これも防衛機制であって、
彼女なりに、
心の動揺を必死に抑えている様子が伝わって来た。

「何かの事故に繋がったらどうしょう・・・」
と云う不安と恐怖で、
心のなかでは泣いてる・・・

 電車はカバン外に吊り下げた状態で、
そのまま走り続けた。

5分位で渋谷のホームに差し掛かる。

ホームで電車を待つ客は、
入って来た電車の異常な光景を顔で追うように注目していた。

幸いにも、同じホーム側のドアが開いた。

ドアが開いた瞬間、若い娘は、その視線から逃げるように、
カバンを抱え、電車の奥の方に向かって走って行った。

私は、思った・・・・

このことは、
確かに、無理な駆け込み乗車をした娘が悪い。

だからと言って・・・駅員、車掌、運転手は、
安全を確認する義務がない訳ではない。

もし仮に、腕が巻き込まれていたら、
走り出したあと、緊急ボタンを押したとしてもう遅い。
・・・・
これが、もし、
カバンではなく、挟まれた状態で、
外側に吊り下げられてしまった幼児だったり・・・
ベビーカーに乗った赤ちゃんだったら・・・
大惨事となる可能性が高い。

・・・・・だんだん腹が立ってきた・・・

電車から降りて、駅員を見つけて、
怒鳴ってやりたいと思った・・・

これは、人の生命に関わる重大なこと、
今回は運よく、挟まれていたものがカバンであったから良かったが、

この状態を黙認するなら、、いつか大きな事故につながる。

一人だったら躊躇わずに電車を降り、駅員を見つけて、
大声で抗議し、怒鳴り散らしてやるところだが、
そのとき、私には2人の女性の同行者がいた。

この2人に恥ずかしい思いをさせては申し訳ないので、
おとなしくしようと思っていた。

このとき、最近報道された事故の事が頭を過った・・・

・・・以下・・・産経ニュースより転記・・・

20代女性車掌はなぜ緊急ブレーキ
をかけられなかったのか・・・あわや大惨事

東京メトロ半蔵門線九段下駅で4日、
電車がドアにベビーカーを挟んだまま走行した事故があった。

子供は乗っていなかったが、
ベビーカーは約100メートルにわたってホームを引きずられ、
駅の端の柵にぶつかり大破した。幸いけが人はなかったが、
東京メトロは20代の女性車掌から当時の
事情を聴き原因究明作業を続けている。あわや大惨事という事故。
・・中略・・・
なぜ電車は止められなかったのか-。
・・中略・・
わずか80メートル先のベビーカーを見えず
窓から身を乗り出しての目視確認でも、
ホームは比較的見通しの良かったにもかかわらず、
車掌はドアに挟まっていたベビーカーを見つけられなかった。
車掌から見ると、4両先、わずか80メートル先を
引きずられているベビーカーが見えないのはどういうわけなのか。
東京メトロ広報も「通常なら気づくべきですが…」と首をひねる。

以上・・・2016.4.11 産経ニュースより転記・・・

私が思うに・・・
人件費削減、効率化、等の問題で、
十分な安全確認をせず発車することは、
暗黙の了解となっているのだと思う。

「 通常なら気づくべきですが… 」と・・
すっ呆けているが・・・

「 通常も危機感を持っていない 」
「 普段から徹底していない 」
が真相だと思う。

誰か大声を上げて抗議する者がいなければ、
また同じことを繰り返し、最後は悲惨となるだろう。

例え無駄であっても、

何もしなかったと嘆くより、
自分のバカさ加減を悔やむ方が、
よほどマシだと思う・・・


渋谷駅で停車した電車は、ドアを開けたまま、すぐに発車しなかった。
この駅では5分位の待機時間があるようだった。

そのとき、ホームを若い駅員が歩いているのが目に入った。

おとなしくしていようと思ってはいたもの・・・

子供や、赤ちゃんが挟まれていたらどうする積りだ!!!!

と、思った瞬間、もう黙ってはおられなくなった。
同行していた2人の女性には申し訳ないと思ったが、

♪もうどうにも止まらない♪

火が着いてしまった・・・
捨て身でバカ道まっしぐら・・・
利口でダメならバカになれ・・・・

こういう時は気迫を込めて、
大声で喋ることが作法と思っている。

中途半端は良くない。

ホーム中に響き渡る程の大声で駅員を呼び止めた。



「 おい!!! お前!! 駅員か??? 」

はい・・・

「 どういう積りだ!!! お姉チヤンの
カバンが挟まっるのに発車して、
外にぶら下った状態で、
原宿からここまで走ってきたんだぞ!!!」

はい・・・

「 カバンだから良いと云う問題ではないだろ!!! 」

申し訳ございません・・・

「 最終確認がお前らの義務だろ!!
原宿の駅に報告しておけ!!! 」

はっ、はい・・・・

「 いいか?!!! 分かったか!!! 」

はっ、はい・・・

そのあと、
電車の発車音が鳴ったので、引き下がった・・・

電車が品川に着いた、電車を降りようとしたら、

後ろから誰かが声を掛けて来た・・・

カバンを挟まれた若いお姉ちゃんだった・・・

「 どうも有難うございました・・・
すみませんでした・・・」

このときのお姉ちゃんの喋り方は、
素直な口調で、
癖のない好感の持てる謙虚な喋り方だった・・・

最近の若者は素直で、優秀だ・・・

私は、うつむき加減に、少し微笑んで、
何も答えずに、電車から降りた。

一緒にいた、X様と、Zちゃん・・・ごめんなさいm(__)m
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利口でダメなら、バカになれ。

2017-04-05 | 宗教

誰しも「 完全 」な世界を夢見て、
それをを求めています。

仕事に於いても
対人関係於いても、
家族関係、
夫婦関係、

人が苦しみ、悩むことの根源は、
「 完全 」を求める
潜在願望があるが故のことと思われます。

「 完全 」なる世界を嘱望するが故に、
そうでない、現状や、自分の姿に苛立ちや、
失望、憤りを感じるのです。

「 完全なるもの」
はこの世に存在しません。
完全なる善も存在しません。

人との関りに於いて、
ある筈のない「 完全・完璧 」 なる状態を夢見たなら、
死ぬまで、怒り、苦しみ、失望を
繰り返すのみで終わってしまう。

彼と自分は考え方や感じ方が違って当然。
それが友達であろうとも、
親子であろうとも、夫婦であろうとも。

夫婦であれば、
この「当然こと」が理解できないなら、
最後は離婚するしか方法はない。

あり得ない状態を夢見ているのだから、
再婚したとしたも、また同じ状況を呼び寄せ、
時と場所と人を変えて、
また違った舞台で、同じような状況を演じるのみ。


「完全な状態はあり得ない」

ならば・・・

不完全な状態を我慢するのか?
理想や希望を捨て、諦めるのか?

違う!!!

目に見えるものと、
その奥にある、目に見えなものをハッキリ区別する事だ。

目に見える世界(現象世界)には、完璧なモノなど何もない。

しかしながら、現象世界の背後には、目に見えない世界がある。

これを「 実相世界 」と呼ぶ。

実相とは、「 ホントウの姿 」と云う意味です。

自分の子供が、殴りかかって来たとします。
実の子供とはいえ、頭を小突かれたら、
腹が立つでしょう・・・

バカ野郎!!!! 
このクソガキが!!!
と言って真剣に怒るでしょう・・・

この反応は「 現象 」です。

でも、その奥に 「 実相 」が存在する。

子供に対して、強烈に腹が立ち、怒り狂っていたとしても、
子供が危険に晒されたり、子供が苦しんでいる時は、
当然の如く手を差し伸べ、子供をを守ろうとする。

なぜだろう・・・

子供の 「 ホントウの姿 」を観て感じているからだ。

無意識のうちの、
「 現象 」と 「 実相 」をハッキリ区別しているから、
如何に現象が不完全であろうとも、
決して見捨てたり突き落したり、決別したりはしない。

親子関係なら、
「 ホントウの姿 」を観ることは大きな努力は必要としない。

ただ、血の繋がりのない相手、即ち、
夫婦関係、対人関係に対しては、「 努力 」が必要なのだ。

「 現象は不完全であって当然 」
と認識したうえで、

その奥にある 「 実相を観る 」
これこそが最大の課題である。

この認識が曖昧だと、
「 こんな事は赦せない」 「 こんな状態は我慢できない 」
と思えて来る。

「 現象 」から逃げれば、
また良いチャンスがやって来ると思ってしまう。

努力とは、「 訓練 」という意味も含む。

傲慢・貪欲を捨て去り、素直で謙虚な心になったとき、
相手の 「 実相 」が見える。

これは、理屈ではない、駆け引きでもない。

何かを得たい・・
欠くあるべきだ・・・
欠くあらねばならぬ・・・

という鎧を脱ぎ捨て、

プライドを捨て、バカになることだ。

バカになるとは?

今自分に与えられているものみを観て、
それに感謝する事だ。

欲しい・・ 得たい・・・・
という事ばかりに心を向けていると、
もし、仮にそれを得ることができたとしても、
その得たものの代わりに、
何か大事なものを失う事も多くある。

他者の内に宿る 
「 実相 」を観て感じたとき、
有難い・・・嬉しい・・と感じるだろう。

これこそが、
ほんとうの意味での修行であり、
解決の道なのです。

全ての人間の実相(ホントウの姿)は、
神の分霊であり・仏の化身であり、
完全・円満なのです。

我々が信ずべきものは、
「あり得ない現象世界」を夢見て、信じることではなく。

その奥にある、実相(本当にあるもの)を信じることなのです。

本当にあるもの(実相)を自覚した時、現象も変わる。

この逆はあり得ない。
それ故、いくら呪いや祈祷をしても、根本的解決にはならない。

むしろ、それによるしっぺ返しのほうが怖い。

ホントウの姿を実感した時、奇跡が起きる。

この奇跡の正体は「必然」なのです。
望まずしても最善の状態が押し寄せて来る。

現状から脱皮するチャンスが必ずやって来る。

一寸先は光です!!!





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ラクダが針の穴を通る??

2017-04-02 | 宗教

2人の人間がいる。

Aさんは 真面目で、勤勉で、人に魅惑をかける事もせず
当たり障りのない人間 友達も多く、
人望があり誰からも好かれている。

敵も少なく 他人と争う事もまずない。

経済的にも裕福。

ただ・・・あることで 

身内、親族との対立があり、Aさんの一族は円満とは言い難い状態。

Bさんは けっこういい加減な所があり、勤勉さがなく、
性格的にも一癖ある 他人から好かれるタイプではない。

どちらかと言えば 嫌われ者、
経済的に豊かとは言い難い。

貧乏である。

でも、身内、親族との関係は極めて良好。

家族、親戚 一族全員が争うことなく、対立するこよなく
お互い助け合いながら、
円満にやっている


Aさんと Bさん を比較して、
どちらが、長い目で見て幸福になれるか?

私はBさんであると思う。

これは私が経験的に思った事ですが・・・・

対外的な評価、人望、実績 がいくらあっても

根本である、「自分の身内」 (家族、兄弟、親)

との関係が良好でない人間は、
仮に今は絶好調だとしても、

長い目で見て 幸運であり続けることは不可能だと
思えるのです。

ひとの事情は千差万別であり、
Aさんそれなりの事情があっての事だとは思う。

Aさん理不尽な事をされて、
ついに怒ってしまったのかもしれない。

でも、Aさんが良い、悪い、 そんな事
問題ではないと思う。

「身内同士が争っている」

という 結果 のみが 大きなマイナスになる。

事の 善・悪 とは無関係に
絶対原則として、親兄弟や身内と争いや対立を起こす事は
当人にとって計り知れないマイナスとなる。

自動車を運転していて、子供が物影から突然飛び出してきた、
ブレーキを掛けたが間に合わず
子供を引いてしまった。

この場合、完全に自動車の運転手が悪い。

自動車と人間がぶつかれば 理由はどうあれ自動車が悪い。

「 いきなり飛び出したほうが悪い!!! 」

といくら主張してもそれは通らない。

自動車を運転する者に責任が問われる。

結果がすべてなのだ。

交差点で車と車が接触事故を起こした・・・

この場合、どちらも悪い。

いくら自分のほうが優先道路であっても、
相手が信号無視であっても、
基本的には 過失は 五分五分 

ぶつかれば どちらも悪い  が原則

身内同士の対立は これと同じだと思う。

原因や 善・悪 などに関係ない。

善・悪の基準など実に曖昧であり、
時と、人と、場所によって簡単にひっくり返ってしまう
儚い水の泡。

対立したら 絶対に得する事はない。

対立したら、理由はどうあれ
自己破壊行為であると思う。

兄弟が相続で対立し 
最後は法廷闘争になってしまったとかいう
話はよく耳にする。

裁判で勝って 
遺産を多く手にしたところで何か得する事があるのだろうか?

金銭には換算できない計り知れない 
損失 が発生したに過ぎない。

実に浅ましい行為と思える

キリストが言った

「富める者が天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るよりなお難しい」

とは こう言う事を言っているのではないかと思う。

なにもキリストは 「金持ちは良くない 富む事は悪い事だ」 と言っている
訳ではないと思う。

富があるほど 更に欲が出る。

何もない者は 何も無いのだから ムキになって
親兄弟を敵に廻してまでも 権利を主張したり 争ったりしない。

だからといって、貧乏が尊いと言いたいのではない。
貧乏であれ、金持ちであれ、
大切なものを見失ってはいけないという事が言いたいだけである。

「貧しいもの」は、一歩間違うと、卑屈になり、

「富める者」は 一歩間違うと傲慢になり、貪欲になる。

「貧乏な者」より、「富める者」のほうが、傲慢になりやすい。

人間を蝕む恐ろしい魔物とは
「 傲慢 」であると思う。
 
金持や、富める者ほど、
傲慢に片寄る危険を多く孕んでいるのではなかろうか・・・

キリストの言いたかったことは そう言う事だと思える。


私の場合、親族との関係は極めて円満、
もし仮に 万が一 相続権などの
問題が起きそうになったとしても、
親 兄弟 に対しては
いくら理不尽な話であったとしても、
10歩でも 100歩でも譲る覚悟はある。

勿論 話し合いは必要だが、
どうにも平行線になった場合、

計り知れない大きな損失を出してまで 
権利を主張しようとは思わない。


話がだいぶん反れてしまいました・・・・・・ 

Aさん 真面目で良い人、人からも好かれている。

Bさん 他人からは嫌われている 人望も低い。

にもかかわらず 将来的に見て、
Bさんのほうがトータル的に有利であり、
安泰であるとは、
理不尽に思える・・・・・

でも やはり Bさんのほうが いい人生を送る事が出来るはず。

この例は、極端なたとえ話ではある。
このたとえ話に似た実例を私は今まで多く見てきた。

この例え話が、あらゆる方面で通用するような気がする。

その要因は何か?

なぜそうなるか?

人望や 人格や 社会的実績 人柄

は、その人の運命に対して絶対的な因果関係はない

絶対的因果関係が有るのは、

 その人 一族の状態・関係

 その人のもつ 親・兄弟・親族・家族 に対する意識。

 その人の 先祖 に対する姿勢・思い。

 その人の 先祖 がどうであったか。

これらの要素はその人の 
人生、環境、運勢、生活、を絶対的に支配する。

親子の関係が円満である人は必然的に先祖との関係も良好、

家庭が円満なら、先祖は 
あの世で 良い思い をしている(成仏している)

家庭が不和なら、
先祖は あの世で 苦しんでいる(成仏していない)

 親子の縁を切っても新興宗教に命を掛ける・・・
と言う人も世の中にいる

 本末顛倒

まるでオカシナお話だ。

その人が 真の信仰者なら、
「何よりも、親子の縁が重要だ」
というべきだ

これには  理屈も 理論も ヘッタ暮れもない。

先祖の存在、視線を意識して、敬意を抱き、親に感謝する。

これこそが 人間の根本であり、基本であると思う。


先祖供養(感謝)は 宗教 ではない。

これは人間の 「義務」です。

親に感謝は 道徳ではない

人間の 「義務」

この人間としてあたり前なことが出来ない者は、
少なくても、人の上に立ち、人を指導する器ではない。

この二つができていない人はいくら 「立派な人」
 と賞賛されていようとも、

社会的に成功していょうとも、金があろうとも、
真の勝利者ではない、真の幸福を得る事あたわず。
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