初めに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
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これは新約聖書・ヨハネによる福音書1章
聖書に記された聖書の言葉です。
宗教とはまさに「 言葉 」であると思います。
目に見えない世界を表現し、人に伝える為には
「 言葉 」を使って人に伝える以外に方法はない。
それゆえ、聖書や、仏典などの経典がが存在する。
また、聖書・仏典などの他にも、
言葉をもつ人類の歴史の中で、
多くの偉人や教祖を輩出し、
その思想(教義)を 【言葉】に変換して後世に伝えた。
そなかには、
その言葉に触れたものを
不幸にする邪悪な言葉(経典)もあれば、
幸福をもたらすものもある。
人を不幸にする邪悪な経典の代表格は
マルクスの記した資本論である。
(共産主義も宗教である。)
古今東西、星の数ほどの
多種多様な言葉が乱立する。
世のなかには多くの宗教団体が存在するが、
一部の邪悪な集団は別問題として、
多くの場合、その表現方法の相違こそあれ、
釈迦やキリストに通じる素晴らしい
言葉(教義)を発している、
全ての宗教はその根源に於いて
「 ひとつ 」である。
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ならば、崇高な理念を有する、教義 (神の言葉)
を信じ、語る人間は、
限りなく神に近い存在なのか?
それを知らない人間より、「 上等 」なのか?
私は思う・・・・
語る「言葉」と、その人の人格とは別問題
自称「 偉いひと 」の中には、
高等な言葉(教義)を人に語ったり、
しているにも関わらず、
私の眼から見て「 内面はお粗末・・・お気の毒・・ 」
と思える人が多く存在する。
それ即ち、
その人の語る「 言葉 」のみでは、
その人の本質や内面をはかり知ることは不可能ということだ。
ここに、宗教の落とし穴・宗教団体の
愚かさが存在すると思える。
このような落とし穴に嵌ってしまった人間とは、
ワクチンに対して、抗体を持った
インフルエンザウイルスと同じで、
捉えどころがなく、対応方法もない。
「 煮ても焼いても食えない 」
とはこのことだと思う。
可哀そうな人達であると思える・・・・
宗教は諸刃の剣であり、
多くの人を幸福にする代わりに、愚かなる
「自称・偉い人」 「自称・徳を積んだ人」
を多く輩出する。
このような人達に振り回されたり、
利用されて餌食にならないよう、
「 疑う心 」( 冷静な分析 )が必要であると思う。
その上で、
こういう輩に近付かないという知恵が
生きて行くうえで大切な事だと思う。
立派な教義を宣うが、
中身は空っぽで、貪欲・傲慢の人間より、
難しい理屈など語らないが、
人として素直に・・
人として正直に・・・
人として慎ましく・・・
人として謙虚に・・・・
こう云うごく普通な人の方が、遥かに偉大であり、
神に近い存在であると思える。
宗教屋さんの好きな言葉
「 霊的なレベルが高い・低い 」
という奇怪な尺度を逆に使わせて頂くなら、
修行?した偉い人?
徳を積んだ偉い人?
こういった「 自称・徳が高い人 」よりも、
傲慢にならず、御立派な屁理屈を言わず・・
淡々と、謙虚に精一杯生きる、
ごく普通の人の方が遥かに
「 霊的レベルが高い 」と感じる。
だからと言って、
私は「 言葉 」(教義)を否定する積りはありません。
仏教の教えは偉大であり、
聖書の言葉は素晴らしい。
「 言葉 」が大切なことはたしかである。
ただし・・・・
「 言葉 」以前の問題として大切なことは、
道
であると思う。
「 道 」とは・・・
言葉や、音や、教義ではなく、
素直な心
自己に内在する良心
これを貫くことを「 道をつらぬく 」と云う。
【言葉】即ち・・【教義】とは、
「 道 」を補うための一つの手段であり、
厳密に言えば
初めに道あり・・・
ではなかろうか?
聖書の言葉は、心で読めば、
・・・・初めに言葉あり・・・とは、
「道」という意味も込めて記された
「言葉」であると思う。
「 道 をつらぬく 」とは、自分とは異なる考えの人間に対しても、
「 礼を尽くす 」事であり、
【 礼 】とは、「 礼儀 」を意味する。
この「 礼儀 」とは、
主義や主張の異なる相手が発する
【 言葉 】に対してではなく、
相手の内に宿る 「 神 」に対して
「 敬意を持つ 」
敬意は【礼】となり、
「 礼を尽くした上で、反撃する 」
これが「 道をつらぬく 」こと云うことだと思います。
これが出来ない人を、「 腐った宗教家 」と呼びます。
これは 面識はありませんが・・・・と
名乗る「言葉」(思想)は正しいが、「道」を踏み外した、
どこかのエライ人に申し上げたいことです。