仏教の説く因果報応
素晴らしい考え方であることは確かです。
世のなか全ての人が、このことを同じように信じて、
行えば、世のなか確実に良くなります。
しかしながら・・・
数千年まえ、お釈迦様が現われ、「因果の法則」を説いてからは、
人類は飛躍的に進化したのか?
仏教が説かれた以降、それまで人間が犯してきた愚かな行為は、
劇的に減少したのか?
仏教が伝来した地域は悪を犯さなくなったのか?
争いや略奪、殺人がなくなったのか?
病苦、離苦が消え去ったのか?
わたしが思うに・・・残念ながら・・・
人間の愚かな行為は、古今東西変わりなく、連鎖している。
人間を蝕む苦悩が根絶された訳ではない。
ならば釈迦の説いた仏法は机上の空論だったのか?
そんな筈はない!!!
釈迦の説いた理論は間違っていない、
釈迦の説いた仏法は、人類史上最高の英知であると思っています。
だだし、その伝え方に問題があったとしか思えない。
これは、あくまで例え話ですが・・・
A子さんがBさんに対して、
過去に何か悪い行いををたとします。
単純に「因果報応」を当てはめれば、
A子さんは、その「原因」に対する「結果」として、
Bさんから何らかの悪果を受ける事になる。
若しくは、Bさんとは関係ない人からその報いを受ける。
人間が関与しなくても、自然の摂理として、
不慮の事故、病、などの突発的不運となって帰ってくる。
逆に、良い行いを続ければ、
それはやがて、良い事が何らかのカタチで自分に帰ってくる。
・・・・・・
これは、人間関係を例にして、
因果報応の一部を語っているに過ぎませんが、
確かに、ある意味この法則は機能してる。
でも、この説明は完全で完璧ではない。
これは、仏教に限らず、
多くの宗教が説く決まり文句です。
しかしながら・・・・
多くの場合、ここで止まってしまうから、
生半可に宗教をかじると、結果的に虚無感に苛まれる事になる。
仮にA子さんの作った、悪因(種)の
「結果」として、A子さんに対し、Bさんが、何らかの害や苦痛を
及ぼす行為や影響力を発したとします。
となると、Bさんは、初めは被害者のですが、
Bさん自身も、悪い原因(種)を作ってしまうことになる。
ならば、Bさんもやがて、その結果(芽)を現す事になる。
そして、また次の人に同じ事が連鎖的に起きる。
そう考えれば、悪い原因(種)は、バトンタッチをしながら、
永遠に連鎖し続ける。
もし、これが真実なら、全ての人間はいつかダメになる。
善因も連鎖するが、悪因も連鎖し続けることになる。
人間が生きて行く上で、
どんなに努力しようとも、悪因を創り連鎖し続ける。
全ての人間が悪因をつくり続け、
やがては全ての人間が堕落して行くことになる。
これを「相対的因果」と呼ぶ。
相対因果は、何かとの比較を前提としている。
何々できないことは悪い事である。
何々してはダメだ・・・
とは「善」と「悪」との「対比」
「対比」を基準にする判断を「相対」と云う。
これは、ある意味、戒律的な‘善・悪‘を前提にした、
脅迫観念が後押しする行為や心のあり方である。
「相対因果」 で物事を見ることは、
あくまでも真理への入り口であり、終点ではない。
相対因果を超越したとき、「絶対因果」が見えて来る。
これを見つけるのが最大の課題である。
「悟り」とは、「 絶対因果 」を知ることが出来た
状態を意味するのではなかろうか?
1・悪いことをしてしまった
↓
‘悪い種‘があったから悪い事をしてし
まったのであり、もうこれで因果は終決している。
2・ヒドイ目にあった。
↓
悪い要素が現われたという事、
現われたとは、言葉を変えれば「悪い要素が消え去った」
もうこれで、因果は終決している。
「過去は無い」、
「ホントウにあるモノ」とは、現在と未来のみである。
無いものをあると思うと
「報いを受けて当然」という潜在意識が働く。
その結果、また悪い要素を作り出し、自分を処罰する。
無いものをあると思うが故に
苦悩・不幸・不調和・不完全を引き寄せる。
不幸の原因の多くは、
この「 自己処罰 」に他ならず。
「悪い行い」とは、自分が自分に課した「処罰」である。
皮肉な事に・・・心の優しい人、親切な人に限って、
苦悩や不遇な環境に晒されることが多い。
人生経験があり、世のなかのことを知ってい普通のひとなら、
この事は誰しも気付いている。
「 あなんな良い人がなぜ・・・ 」
という言葉は誰しもよく耳にしたり、思ったりする
言葉ではないでしょうか。
なぜ、このような矛盾が起きるのか?
「相対因果」を頂点だと信じているからです。
ホントウにあるモノを感じ見たとき、
相対因果の循環から脱出する。
これは、決して「反省するな、反省する必要はない」
という意味ではありません。
反省は大事です、ただ、それだけでは、
相対因果に振り回されるだけで、
その奥にある、「 絶対因果 」を見ることはできないという意味です。
「徳を積む」ことは大切な事です。
ただ、これに縛られると、その奥が見えてこない・・・
「 徳 」とは、積むものではなく 「 自分の善行を忘れる事 」
いままで、多くの人を洞察し、分析した結果気付いた事として、
深い意味で幸福なひとに共通する部分とは、
1・・自分の行った善行をホントウに忘れている。
2・善い行いをしようなどという意識はないが
結果的には、人に幸運を与えている。
3・・綺麗ごとを口にしないが、行為や結果は極めて綺麗である。
・・・・・・・
「ホントウに有るモノ」
を見ることが全てに通じる道である。
釈迦が説いた仏法の頂点は「絶対因果」
絶対因果とは・・・
ホントウにあるモノとは・・・
自己の内に宿る神・仏
他者の内に宿る神・仏
天地万物に宿る神・仏
これを見たとき、
「悪あがきはしません・・・素直な気持ちで、全てをお任せします」
という心境となる。
それを音ににしたのが、「南無阿弥陀仏」であり、
「南無妙法蓮華経」であり、「 アーメン 」なのです。