名古屋の白ウサギ・1964年生・

自称、宗教家・宗教家は、職業ではなく「生き方」です。
職業・会社員

光あるのみ

2015-12-31 | その他

一年を振り返ると、
多くの出会いがありました。

その課程に於いて、
多くの奇跡を起こすことが出来ました。

多くの方に
「ありがとう、感謝してます」
と言っていただけました。

私の思いは、
喜んで下さってありがとうございます」
「感謝して頂いてありがとうございます」

これに尽きます


なかには、どうにもならない事もありました。

悲痛な思いで、
「チョット待って!!! お願いだから!!!」
と心のなかで叫んでも、通じない事もありました。

そういう時は胸が張り裂けそうになります。

「そんな状況は、あんたの主観による自演だ・・・
あんた、そんな自分に酔っているだけだろう・・・」

と言われるかもしれません。

そう言われてしまえばそれまでです。
もし、そのように思われたなら、否定しません。
沈黙するのみです。

それはそれで、宿命的な何かがあるのでしょう。

何人たりとも他人の運命を支配する事は出来ません。

他者が持っている因縁(課題)を、
念力や、神通力で捻じ曲げてはいけません。

必ず副作用があります。

ならば、なぜ私と合っただけで奇跡的なことが起きるのか?

それは、私が「信じている」からです。
「信じる」とは、生半可な気持ちでは出来ません。

全生命をそれに注ぐという事です。
これ、即ち「 バカを極める 」事なのです。

「バカを極める」とは、
「無意味を極める」覚悟を必要とします。

彼に宿る神性(神の姿)を全身全霊で信じるとき、
彼に宿る神が現われるのです。

神性とは、限定の枠を超えた無限の可能性なのです。

その姿こそが、彼にとっての「 最善 」なのです。
  
あくまで本人の自由意志こそが、
本人の運命を好転させたり、改善を行うのです。

他人に支配される事は、「運命の奴隷」です。

「運命の主人公」となる事こそ、
あらゆる課題を昇華させる為の絶対条件なのです。
全てが必然・・・偶然は必然・・・
どちらにせよ、
光あるのみ、光明一元
一寸先は光です。

ありがとうございます。

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何も持って行けない。

2015-12-29 | 出来事

年老いた母親が言った・・・

「あの世には何も持って行けないならねぇ・・
今のうちに好きなの持ってって・・・」




値打ちはあまりなさそうだが・・・
その言葉の裏に、
金銭に換算できない価値を観た・・
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横文字連発男

2015-12-27 | 宗教

全国各地の神社、寺院、パワースポット、を渡り歩き、
神仏を信じると自称するB君という男がいる。
  
不可解な呪いを信じ、
神通力があると人がいると云う噂を聞くと、
遭いに行く・・・
パワーグッツなるモノを集め、
何とかという横文字のセミナーに参加する。
 
愛だ、エバーだ、???だ・・・と横文字言葉を
必要以上に連発する。
 
その、B君がやって来て、
私に質問してきた・・
  
「どうしたら先祖からの悪因縁を絶つことが出来るのか?」

このかた、祖霊を、何だと思っているのだろう?

「 神仏、祖霊はいつもあなたの見方ですよ・・・」
と申し上げた。

意味がまったく通じていないようで、
すがるような口調で、更に懇願してきた・・・

「 何とか先祖の悪い因縁を絶って欲しい 」

静かな口調で申し上げました・・・
「あなた、信仰やめたら」と。
  
「あんたのような信心深い御立派な人間より、
無神論者のほうがよっぽどマシだ・・・」
 
と口まで出掛かった・・腹に留めた・・・
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サンタや星に願いをかけるよりも

2015-12-25 | 宗教

世間はクリスマスですが、
サンタや星に願いをかけるよりも、
本心に正直に、
ただただ明るく、
恩を感じて生きる

  
これは、仏教徒のある女性から
メールで頂いた言葉です。

シンプルで短い言葉のなかに
究極の真理が込められていると感じる。

この卓越した表現力、
その奥にある魂・・・

久々に感動してしまった・・・・



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生命は永遠です。

2015-12-24 | 宗教


今から34年前、私が16歳の時に買った荒井由実のLP・・・
このとき、荒井由実が将来、大物シンガーになるなどとは、
まったく想像していなかった。
レコードの時代は終わった・・
この2枚だけは・・どうしても捨てられない。

私が今生を終えて、あの世に行ったとき、
子供が、「 なんだこれ??」
と言ってポイと捨ててしまうだろう・・・

これは、悲しむべき事ではなく、喜ぶべき事だと思う。
死ぬ時は金も、物も、地位も、名誉も、
持ってゆくことは出来ない。

そのとき、持って行く事ができるのは、
自分が、最終的に
「 何を思い、何を行ったか 」という事実のみ。
その事実は、自分の魂のレコード盤に刻まれている。

これは、消し去る事も、捨て去る事もできない・・・
最終段階で、魔化しも、修正もできない・・

魂のレコード盤に刻印されている情報とは、
どんな経緯があろうとも、
どんな紆余曲折があろうとも・・・
失敗や罪悪があろうとも・・・

その事に対して、どういう心で向き合い、
どのような行動をしたのか?
その結果、そこから何を得たのか?
その情報は永久保存される。

これこそ、神が人間に与えた 
絶対的な‘ 平等 ‘
やがて、その情報を自分の子供が再生する。

そして、それに続く、子孫が再生する・・・
これは、確実な事だと思う。

自分に子供がいなかったとしても、
自分と霊的にに繋がる血縁者に反映する。

もし、仮に輪廻転生があるなら、
自分自身が、「 来世 」で、
そのレコードに刻印されている情報を、
新たなる、最新の再生機で再生するのでしょう。

その情報は、時、場所の要素によって
絶妙な補正が加えられて、
妙なるメロディー奏でるのかも知れません。

これは、死んでからしか分からない、事です・・・
人間死んでも死にません。
生命は永遠です。
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可哀想だ・・・とは思わない。

2015-12-22 | 宗教

苦しみ喘ぐ人がいる
不運・苦悩・病苦・・・・
可哀想だ・・・と感じる。
一瞬、涙が出そうになる。

・・可哀想だ・・・と感じる事は確かだ。
でも・・・可哀想だ・・・とは思わない。

可哀想だ・・・と思うことは、
その人に対しての軽蔑だ。

可哀想と思うことは、
「このひとは無力だ」
と思うことと同義であると思うからだ。

これこそ、相手に対する
最大の軽蔑ではなかろうか・・・
無力ではない。
可哀想だ・・・と一瞬感じたとしても、
その次にすべき事は、相手に対し、
その人の内に宿る‘ 神 ‘ を、
魂の底から、静かなる誠意をもって
極限の力を振り絞り、「信じる」ことである。

これこそが最大のエネルギー

奇跡は起きる。

同情からは何も得られない、
世のなかには・・
他人から同情される事を趣味にしている者もいる。
毎日の食事に関する不平不満を、得意げになって、
御丁寧にも写真付きで、
インターネットに載せている人を見たことがある。

面白半分にやっているのだろうが・・・
確実に蝕まれている。
こういう人は、例えどんなに善い人だろうが、
ホントウに可哀想なひとです。
どうぞご自由に・・ご愁傷様です。

誰しも、必ず自力で這い上がる力を内在する。
謙虚な気持ちで天を見上げる人の頭上には、
必ずや光が射す。
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ナンセンスな命題

2015-12-19 | 宗教

私が若い頃、社会に出て間もない頃だった。

私の就職した会社の職場に、口やかましくて、無愛想、冗談が通じず、
いつも険しい顔をしているKさんという上司がいた。

Kさんは多くの人に対して不親切な人だった。

ただ、この方は「裏表のない人」であった。

ひとを観て態度を変えたり、
自分の価値基準を物差しにして特定の人に対してのみ
バカにした態度をしたりする事はなかった。

しかしながら・・・
Kさんは大多数のひとから嫌われていた。
厳密に言えば、嫌われていたというより、
「Kさんは、良い人だ」と言う人は誰一人として存在しなかった。

人と人との関わり合いのなかに於いて、
その人の存在が周囲の雰囲気を暗くさせることは
ある意味、罪なことでもある。

    
私の今までの経験のなかで、
このケースと全く正反対なこともあった。

Wさんという人がいた・・・
Wさんは、愛想が良くいつもニコヤカ、礼儀正しく、親切で、
善意に溢れた言動をする人間であった。

しかしながら、この方は特定の少数の人間に対してのみ、
無愛想、不親切、意地悪、無礼な対応・・・
大多数の人に対しては、愛想よく挨拶するのだが、
ごく一部の人間に対しては、むこうから「おはようございます」
と挨拶してきても、横を向いて無視をする。

この方の特性は、大多数の人に対しては「良い人」であるが、
ごく少数の人に対しては、180度、態度を変える。

この方は、他者に対する独自の物差を持っていて、
何らかの理由で、「バカにしたい相手」に対しては、
他者の見ていない場面で、
徹底的にバカにした態度、対応をする。

こういう方を、「裏表がある人間」と言うのかも知れない。

人間誰しも、他者に対する好き嫌いと云うものがある。
だだし、嫌いな人間に対しても守るべ礼儀がある。

自分に対して牙を向けてくるような相手なら別であるが、
ただ、「アイツ気に食わない」という理由だけで、
無礼な態度をすることは、実にミットモナイ。

建て前だけでも最低限の「礼節」を守るべきであると思う。
これが守れるか、守れないかが、その人の「 品性 」を現す
バロメーターではないでしょうか。

(上記のお話は、あくまで事例をもとにした、
例え話であり、個々の事象をいって
いるのではありません。)

もし、Kさんと、Wさんを、
「 善・悪 」という二元的な視点で判別するなら
どちらが善で、どちらが悪なのか?

この御二方、どちらが徳を積んでいるのか、いないのか?

この問は、非常にナンセンスな問であると思う。

即ち、善行・悪行 の基準など相対的なものであり、
絶対的な事象ではないという事です・・・

徳を積む、積んでいない、などどという事は、
あくまで相対的な比較であり、絶対的なものではないと
いう事です。
    
ここに、人間の本質・運命の本質・因果の本質・仏法の真髄
を示唆する鍵があると思える。

親鸞聖人は、仏法の極地を凡人に説く為に、
究極の逆説を吐いた・・・

善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
・・・親鸞・・・

  訳  
善人でさえ浄土へ生まれることができる、
ましてや悪人は、なおさらだ。
それなのに世の人は、つねに言う。
悪人でさえ浄土へ往けるのだ、ましてや善人は、
なおさら往ける。





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初公開・ウサギヨガ・1メートル空中浮遊

2015-12-16 | 秘伝・・ウサギ・ヨガ
初公開・ウサギヨガ・
秘伝・・・1メートル空中浮遊

この術は、浮いたあと万有引力が作用して、床に叩きつけられる。
ミラクル白ウサギも、
万有引力の法則を捻じ曲げる事は不可能。

1m以上浮き上がる為には、かなりの高等技術を必要とするが、
それだけでは終わらない。

この術は、硬い床の上で行うと危険である。
もし着地に失敗したら大怪我をする。

浮き上がったあと、床に落ちなければならない。
床に着地する瞬間は、ある意味、宙に浮く事よりも
高等な技能を要する。

そのため、クッションの効いたベットのうえ以外では、やってはいけない。


       

約、1メートルの空中浮遊に成功!!!!
(この画像はトリック・合成などは一切行っていません)
     
もっと高く浮く事も可能だが、
これ以上、高く浮くと天井に頭をぶつける可能性がある。
その恐怖感が、浮き上がる瞬間に働いてしまい、
無意識にブレーキをかけてしまう。

ただ・・・残念ながら、着地に失敗・・・・
着地したあと、バランスを崩し壁に頭をぶつけてしまった・・

精進、精進、また精進・・・
修練、修練、また修練・・・・
やって出来ない事もある・・・・
やらずに出来る訳がない!!!

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白ウサギ三島に御邪魔しました。

2015-12-15 | 静岡遠征

静岡県三島市・白ウサギ初進出。




今回は13名様のお客様とお話しすることが出来ました。
またお会いできるのを楽しみにしております。
ありがとうございます。


万事好都合・・
一寸先は光です。

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絶対的因果

2015-12-03 | 宗教

仏教の説く因果報応
素晴らしい考え方であることは確かです。

世のなか全ての人が、このことを同じように信じて、
行えば、世のなか確実に良くなります。

しかしながら・・・
数千年まえ、お釈迦様が現われ、「因果の法則」を説いてからは、
人類は飛躍的に進化したのか?

仏教が説かれた以降、それまで人間が犯してきた愚かな行為は、
劇的に減少したのか?
仏教が伝来した地域は悪を犯さなくなったのか?
争いや略奪、殺人がなくなったのか?
病苦、離苦が消え去ったのか?

わたしが思うに・・・残念ながら・・・
人間の愚かな行為は、古今東西変わりなく、連鎖している。
人間を蝕む苦悩が根絶された訳ではない。

ならば釈迦の説いた仏法は机上の空論だったのか?

そんな筈はない!!!

釈迦の説いた理論は間違っていない、
釈迦の説いた仏法は、人類史上最高の英知であると思っています。

だだし、その伝え方に問題があったとしか思えない。

これは、あくまで例え話ですが・・・

A子さんがBさんに対して、
過去に何か悪い行いををたとします。

単純に「因果報応」を当てはめれば、
A子さんは、その「原因」に対する「結果」として、
Bさんから何らかの悪果を受ける事になる。

若しくは、Bさんとは関係ない人からその報いを受ける。

人間が関与しなくても、自然の摂理として、
不慮の事故、病、などの突発的不運となって帰ってくる。

逆に、良い行いを続ければ、
それはやがて、良い事が何らかのカタチで自分に帰ってくる。
・・・・・・
これは、人間関係を例にして、
因果報応の一部を語っているに過ぎませんが、

確かに、ある意味この法則は機能してる。
でも、この説明は完全で完璧ではない。

これは、仏教に限らず、
多くの宗教が説く決まり文句です。

しかしながら・・・・

多くの場合、ここで止まってしまうから、
生半可に宗教をかじると、結果的に虚無感に苛まれる事になる。

仮にA子さんの作った、悪因(種)の
「結果」として、A子さんに対し、Bさんが、何らかの害や苦痛を
及ぼす行為や影響力を発したとします。

となると、Bさんは、初めは被害者のですが、
Bさん自身も、悪い原因(種)を作ってしまうことになる。

ならば、Bさんもやがて、その結果(芽)を現す事になる。

そして、また次の人に同じ事が連鎖的に起きる。

そう考えれば、悪い原因(種)は、バトンタッチをしながら、
永遠に連鎖し続ける。

もし、これが真実なら、全ての人間はいつかダメになる。
善因も連鎖するが、悪因も連鎖し続けることになる。

人間が生きて行く上で、
どんなに努力しようとも、悪因を創り連鎖し続ける。
全ての人間が悪因をつくり続け、
やがては全ての人間が堕落して行くことになる。

これを「相対的因果」と呼ぶ。
相対因果は、何かとの比較を前提としている。

何々できないことは悪い事である。
何々してはダメだ・・・
とは「善」と「悪」との「対比」
「対比」を基準にする判断を「相対」と云う。

これは、ある意味、戒律的な‘善・悪‘を前提にした、
脅迫観念が後押しする行為や心のあり方である。

「相対因果」 で物事を見ることは、
あくまでも真理への入り口であり、終点ではない。

相対因果を超越したとき、「絶対因果」が見えて来る。

これを見つけるのが最大の課題である。

「悟り」とは、「 絶対因果 」を知ることが出来た
状態を意味するのではなかろうか?

1・悪いことをしてしまった

‘悪い種‘があったから悪い事をしてし
まったのであり、もうこれで因果は終決している。

2・ヒドイ目にあった。

悪い要素が現われたという事、
現われたとは、言葉を変えれば「悪い要素が消え去った」
もうこれで、因果は終決している。
          
「過去は無い」、
「ホントウにあるモノ」とは、現在と未来のみである。

無いものをあると思うと
「報いを受けて当然」という潜在意識が働く。

その結果、また悪い要素を作り出し、自分を処罰する。
無いものをあると思うが故に
苦悩・不幸・不調和・不完全を引き寄せる。
不幸の原因の多くは、
この「 自己処罰 」に他ならず。

「悪い行い」とは、自分が自分に課した「処罰」である。

皮肉な事に・・・心の優しい人、親切な人に限って、
苦悩や不遇な環境に晒されることが多い。

人生経験があり、世のなかのことを知ってい普通のひとなら、
この事は誰しも気付いている。

「 あなんな良い人がなぜ・・・ 」
という言葉は誰しもよく耳にしたり、思ったりする
言葉ではないでしょうか。

なぜ、このような矛盾が起きるのか?
「相対因果」を頂点だと信じているからです。
ホントウにあるモノを感じ見たとき、
相対因果の循環から脱出する。

これは、決して「反省するな、反省する必要はない」
という意味ではありません。

反省は大事です、ただ、それだけでは、
相対因果に振り回されるだけで、
その奥にある、「 絶対因果 」を見ることはできないという意味です。

「徳を積む」ことは大切な事です。
ただ、これに縛られると、その奥が見えてこない・・・

「 徳 」とは、積むものではなく 「 自分の善行を忘れる事 」

いままで、多くの人を洞察し、分析した結果気付いた事として、
深い意味で幸福なひとに共通する部分とは、

1・・自分の行った善行をホントウに忘れている。
2・善い行いをしようなどという意識はないが
結果的には、人に幸運を与えている。
3・・綺麗ごとを口にしないが、行為や結果は極めて綺麗である。


・・・・・・・
「ホントウに有るモノ」
を見ることが全てに通じる道である。
 
釈迦が説いた仏法の頂点は「絶対因果」
絶対因果とは・・・
ホントウにあるモノとは・・・
自己の内に宿る神・仏
他者の内に宿る神・仏
天地万物に宿る神・仏
これを見たとき、
「悪あがきはしません・・・素直な気持ちで、全てをお任せします」
という心境となる。
それを音ににしたのが、「南無阿弥陀仏」であり、
「南無妙法蓮華経」であり、「 アーメン 」なのです。

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メンドクサイ

2015-12-01 | その他

メンドクサイことは先にやる。
これ、私の生活信条。
仕事が終わって家に帰ると、とにかく早く風呂に入る。
(風呂が沸いていれば10分以内、)

なぜ急ぐ??

メンドクサイから・・・

セッカチな私にとって、風呂に入ることは、
かなりメンドクサイことなのです。

服を脱ぐのもメンドクサイ。
服を着るのもメンドクサイ。

だから先にやってしまう。

朝、家を出掛ける時の準備もメンドクサイ、
だから、次の日の朝の持ち物などの準備は、
家に帰ったと同時にすぐにやっしまう。

これに限らず、自分が「メンドクサイ」と思えることは、
家に帰ってきたと同時に、1分たりとも休まず、
一気にやってしまう。
決死の思いで先にやる。
その場でやってしまえばなんでもないことでも、
「後かやろう・・・」などと思って、後回しにすると、
時間が経過すればする程、「メンドクサイ事」になってしまう。
完結できることは、即座にやってしまえば、「メンドクサイ事」
の絶対量が減る。

「メンドクサイ事」とは、人それぞれで、千差万別であるが、
メンドクサイと思えることを後回しにして得することはほとんど無い。
メンドクサイ事を先にやれば、得することが多い。
メンドクサイ事を、常に後回しにしている人が吐く言葉・・・
「 いそがしい・・・・」

メンドクサイことを常に優先して行っていると、
「 忙しい・・・」という言葉を吐かなくなる。

「忙しい・・・」という言葉は、
「効率が悪い」という意味を含む。

メンドクサイ事を一気に、先にやってしまおうと想い、
必死になっていると、後ろから追い立てられるような
脅迫観念のようなものを感じる事がある。
この脅迫観念こそ、「余裕」の原点。
子供が楽しみにしている、クリスマスツリー
これを飾るのは、かなりメンドクサイ・・・
だから、可能な限り早い時期にやってしまう。

だかと言って、クリスマス前に片付けたりはしません・・・
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