
現代文明は永い人類の歴史のなかで試行錯誤を繰り返し、
培ってきた「 人類の英知の集大成 」であると思う。
産業構造 市場経済 金融システム
など、現在機能する大規模なシステムは、
人間の欲望と 対立 搾取 の象徴であり、
自然の原理と対立する
人間の愚かさが築いた虚像であるかの如く
冷笑する 知識人 も多く存在する。
「 競争や対立がない世界がいつかは実現する・・」
漠然とではあるが 大真面目に思っておみえの人もいるが、
このような人は、
文明に対して悪魔的イメージをもって
おみえのような気がする。
競争 があれば 対立 も起きる。
人類がこの地球上に存在するかぎり、
競争と対立は絶対に無くならない。
そういった 基本的な大前提を十分踏まえたうえで
その先、どうあるべきか、どうすべきかを、
突き詰めて考える必要がある。
それに指針を与えるのが、宗教
ではないだろうか。

縄文、弥生時代の遺跡から発掘される人骨を良く調べると
左側の頭部が砕けた人骨がよくみつかる
なぜか・・・
右手で武器を持ち相手を殴ると、
相手の左側面に当たるからである。
すなわち、縄文、弥生の時代から抗争や対立、戦争はあった。
縄文、弥生時代には
貨幣などない貨幣が無くても争いは起きた。
それは、縄張りであったり・・・
食料確保の利権だったり・・・
色恋沙汰だったり・・・
文明社会をもたない彼らでさえ、
対立、闘争、戦争 は避けられなかった。
対立、戦争 を 文明のせいにするのはオカシイ。
経済のせいにするのはオカシイ。
「 国があるから戦争が起きるのだ 」
といった人がいた
ならば、国が無くなれば戦争はなくなるのか?
無くならない
国が無くなれば争いはさらに増えるだろう。
あちらこちらで親分が現れ規律も秩序もない、
泥沼合戦のような状態が世界規模でおきるだろう。
無秩序な争いは、
いままで人類が培ってきた技術や文化を破壊するだけで
新しいモノを創造する事は無い。
愛国心があるから戦争が起きると誰かがいった。
縄文、弥生時代に「 国 」 はまだ誕生していなかった。
そんな時代でも
集落の周りに堀を作ったり敵を寄せ付けない為の
柵や見張り台が設置されたいた。
人間は一人では生活できない。
古今東西、どんな時代も人間は必ず集落をつくり
寄り添って生活してきた。
一人で生活する 仙人 のような特殊な人もいるだろうが
そういう人は、例外的な人間である。
こういった 人間の特性 は絶対に変わることはない。
国が無くなれば、秩序がなくなるだけであり、
無秩序な争いが増えるだけである。
世界中、どの国の人間も自国に対する
愛国心をもつことが最善の状態であるとおもう。
愛国心 が戦争を起こすのではなく、
人間の 業 (ごう)が戦争を起こす
自分の生まれた国が好きになれないというのなら、
それはその人の自由である。
人の心の中は何人たりとも支配できない
ただ、その前提として、
「 異国の人間や文化、思想に対して敬意と礼節をもつ 」
これが絶対に必要であると思う。