名古屋の白ウサギ・1964年生・

自称、宗教家・宗教家は、職業ではなく「生き方」です。
職業・会社員

現人神(あらひとがみ)

2015-04-28 | 思う事
【KSM】日本人が知らない天皇陛下の権威 実は世界最強の権威です Ver 2


更に言わせていただくなら、
天皇陛下は 
現人神(あらひとがみ)です。

・・・・・・・

皇者  神尓之坐者  真木<乃>立  荒山中尓  海成可聞

大君は 神にしませば 真木の立つ 
荒山中に 海を成すかも 

おおきみは  かみにしませば  まきのたつ
あらやまなかに うみをなすかも


万葉集241:柿本人麻呂


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不利な選択

2015-04-20 | 思う事



先回は、、フロイトの 
「 花瓶を割った医者の話 」
から、かなり横道に逸れてしまいました・・・・

話を、「 人間の深層心理 」に戻します。

人間には、表面意識には自覚することができない、
「 無意識 」 が存在していて、
その 「無意識」 が、
その人の行為、思考、判断、に影響を与えている。

「 花瓶を割った医者の話 」は、フロイトが発見した
 「 深層部の意識 」を分かりやすく説明した
事例であると思います。

「 不幸になりたい 」
と思って生きている人間は一人もいません。

しかしながら・・・これは、

表面意識の部分での事であり、
深層心理では、
「 幸福になってはいけない 」
という逆の意識を持っていることもあり得るのです。

人間を苦しめる、
苦悩や、不幸の原因は、
多くの場合、ここにあるのです。

人間を蝕む、
不幸、不調和、不完全 は、
神が人間に与えた処罰ではありません。

ならば、それを作り出したのは何なのか?

自分自身です。

自分自身の深層心理が、
自分に対して、処罰をしているのです。

他人を騙したり、苦しめたりすることで、
得することは、絶対にありません・・・・

他人を馬鹿にしたり、
人の悪口を言って得することなど、ひとつもありません・・・

泥棒をして、得することなど、絶対にありません・・・

無意味に人を傷つけたり、殺したりして
得することなどひとつもありません・・・・

不平不満ばかり言っていて、現状を打破する事はできません・・・

努力もせず、楽して、怠けていて、
お金が儲かることなど絶対にありません・・・・

こんな事をしたら、最終的に自分が破滅することは
誰でも分かっています。

にもかかわらず、惰性で、無意識のうちに、
そういった行為をするひとがいます。

これを 「 自己処罰 」というのです。
即ち、
「無意識のうちに自分にとって不利な選択を行い、
マイナスとなる要素を自らが引き寄せているのです。

悪い行い → 悪い結果

善い行い → 善い結果

これ即ち、因果報応

すべての人間は、奥底では、
そのことを知っている。

それなのに、なぜ、無意識のうちに、

悪因 → 悪果 

を選択する人がいるのか?

もし、過去に過ちを犯したことがあったとしても、
今現在、善因をつくり、
悪因 → 悪果 の連鎖を止めさえすれば、
それ以降は、善因 → 善果 の連鎖が始まる。

にも関わらず、
負の連鎖を無意識のうちに選択してしまう。

ギャンブルで財産を築くことは不可能です。
なのに、「 儲かる 」と信じている人が存在します。

際限なく、酒を飲み続けたら、病気になります。
それでも、過剰摂取がやめられない人がいます。

食べたいものを食べたいだけ食べ続ければ肥満になり、
苦しみます。それでも自制できない人がいます。

高速道路で、車間距離を取らずに走っている車は、
前の車が急ブレーキを踏んだとき追突します。
誰でも分かる簡単な物理法則です。
にも関わらず、前の車にへばり付て走行しています。

まったくもって「 損なお話 」

何ゆえ、そのような不利な選択をするのか?

これこそが、「 自己処罰 」

自分が自分に罰を与えているということです。

ならば、どうすればいい???

自分に宿る「 神 」を観ることです。

そのとき 初めて「 罪 」は消えるのです。


すべての人間の本質は、  神であり、仏なのです。

すべての人間は、神の分霊 ・ 仏の化身


これを自覚す事が、
この世に生を受けた者の使命なのです。

自分の内に宿る神を見たとき、
自分以外のすべての人間も、
神の分霊であることを知る事が出来るのです。


これを自覚したとき、
必然的に、自分にとって 最善な判断が出来るのです。

自分にとって、最善な運命が展開するのです。
 
これこそが、絶対的な真理なのです。

これを説く事が、宗教の本領なのです。

人間の本質は、

善であり、義であり、宇宙の英知 、なのです。

神は人間を裁かない。

自分を裁くのは、自分の深層意識。

本当の自分は 

‘ 神の分霊 ‘

‘ 仏の化身 ‘

本当の自分を欺くことはできない。

「 本当の自分 」 に反する事をすると、

表面の意識はそれを忘れてしまっていても、

深層心理に刻印される。

そして、その帳尻を合わせようとする。

それが 「 自己処罰 」という名の苦しみや、不幸の源。

仮に、自分が悪いことをしていなくても、
過度の罪悪感をもつと、
これまた 「 自己処罰 」 を開始する。

罪悪感を昇華させる方法は、
「 感謝の念 」
感謝の念は、闇を消し去る万能エネルギー

他者が喜ぶと、自分も嬉しくなる。

意義ある善行をすれば、自分の魂が納得して、
それが、深層心理に刻印さる。

それ故、自分に不利な選択や行いなど、
出来るはずが無い。










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無意識の領域

2015-04-17 | 思う事


フロイトは、
人の意識に無意識( 潜在意識 ) 
の領域が存在していていることを発見しました。

フロイトは人間の意識( 心 )は、
3重構造になっていると考えました。

(1) 意識 ・・・・  
意識が自覚できる領域

(2) 前意識 ・・・・ 
思い出そうと意識すれば思い出すことが出来る領域( 記憶 )。

(3) 無意識 ・・・・  
意識の奥底に潜んでいる、実体が掴みにくい隠れた領域。

フロイトは、「(3)無意識 」の部分のなかには、
「 (1)意識 」が認めたくない部分が存在していると考えたのです。

フロイトの記した 「 花瓶のお話 」が実話なのか、
それとも、フロイトが創作した例え話なのか・・・

今となっては、それを検証する術がありません。

もし、仮にこの話が、フロイトの創作、若しくは脚色であったとしても、
そんなことは、この際関係が無いように思われます。

フロイトの理論は、何でも「性欲」に結びつけ、
非常に暗く、ドンヨリしたものです。

弟子のユングも最後はフロイトと、対立する事となりました。

フロイト理論は、極論過ぎる部分も多々あるような気がしますが、
フロイトが、人間の無意識の領域の重い扉を開いたことにより、
その後の心理学の骨格が出来上がったことも確かです。

そういう意味で、やはりフロイトの功績は甚大であると感じます。

フロイトの「 花瓶の話 」は、人間の運命のメカニズム
を解明するうえで、重要なお話であると、
前回申し上げました。

私がいままで、多くの人を観察し、
人間洞察をしてきて感じました事は、
世間的にみて、「 いい人 」「 嫌な人 」
の違いと、、
その人の幸運・不運との因果関係は無いということです。

真面目で、正直で、正義感が強い人間が、
生涯を通して、理不尽な運命を背負わされたり、

優しく、思いやりがあり、親切な人が、
とことん不運な目にあったり・・・

そんな事例は数えきれないほどあります。

人として正しく生きる。

人としての優しさをもつ。

他人様に迷惑をかけない。

親切と思いやりを持つ。

こういったことは、ごくごく当然のことであり、
普通の人間なら、意識したり、努力したりするまでも無く、
誰でも自然にやっている事です。

うちから湧き上がる 「 善意 」こそ、
「 ホンモノの自分 」なのです。

なかには、例外的にこういった事が出来ない、
異常な人間がいることも確かですが、
こういう人間は、特殊であるが故に目立つだけであり、
ごく少数派でしかありません。

ここような、「少数派の異常な人間」は、
論外とするしかありません。

現実に、現在、私に近寄ってくる人間はに、
救いようの無い異常な人は一人もいません。

フロイトの最大の欠点・弱点は、
異常な人格、異常な行為、異常な心理
のみに意識を向けたことだと思います。

・・・・・・・・・・・・

善・悪の基準すら、曖昧すぎます。

私は過去に約30年間、会社勤めをした経験があります。

その経験のなかで思ったことは、

善い人 ・ 悪い人 の判断など
たやすくできるものではないということです。。

同じ会社の人間のなかには、
ものすごく優しく、親切で、愛嬌のある人間が、
肝心なところで、多くの害悪を発生させたり。

「 あいつ嫌な奴だ・・・ 」
「 あいつは、悪い奴だ・・・ 」

と、影で囁かれている嫌われ者が、
じつは、重要な部分で、
「 粋な行い 」
をしていたり・・・

人の運命・ひとの本質・を語る上で、
このような人間の持つ多種多様の
複雑怪奇な要素を無視して、

ひとつの原理、のみで、
バッサリ斬ることは、
非常に浅はかであると思えるのです。

この現象世界は、
「 ワルを演じる 」事も、
時には必要な事があるのです。

「 人から嫌われる 」ことも、
ときには必要なのです。

うわべだけの安っぽい人情話は、
聞いているだけで溜息が出てしまします。

何よりも肝心なのは、
「 自分の本質 」 「 人間の本質 」
を理解することなのです。

残念ながら・・・
宗教家 熱心な信仰者 ほど、
「 宝刀 」を振り回す単純な人間が多い。

私も自称・宗教家であるから、
偉そうに、他人のことは批判できませんが・・・






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フロイトの 「花瓶の話」

2015-04-16 | 思う事

オーストリアの精神分析学者。
ジークムント・フロイト1856年~ 1939年。
無意識研究、精神分析神経症研究、自由連想法、に没頭。
最終的には、精神力動論の構築に至る。

フロイトの提唱した理論は、
後世の心理学、精神医学、の基礎となる。

後に、
文学、芸術、人間洞察など、幅広い分野に影響をもたらした。

私は、フロイトが嫌いです。
なぜ嫌いなのか?

その理由は複雑です。

私が抱くフロイトの人間像のなかに、
「 自分 」 と重なる部分があるからかも知れません。

「 フロイトが嫌い 」
と思う自分の深層部には、
「 同類 」というエネルギーあり、
磁石の同極が反発し合っているような作用が
自分の内部で起きているのかも知れません。

それはさておき・・・

フロイトの一番の功績は、

「 潜在意識 の発見 」


フロイトは、
人の意識に無意識( 潜在意識) 
の領域があことを突き止めたのです。

フロイトは人間の意識( 心 )は、
3重構造になっていると考えました。

(1) 意識 ・・・・  
意識が自覚できる領域

(2) 前意識 ・・・・ 
思い出そうと意識すれば思い出すことが出来る領域( 記憶 )。

(3) 無意識 ・・・・  
意識の奥底に潜んでいる、実体が掴みにくい隠れた領域。

フロイトは、「(3)無意識 」の部分のなかには、
「 (1)意識 」が認めたくない部分が存在していると考えたのです。

フロイトの著書のなかに、
「 花瓶のお話 」があります。

・・・・・・・・・・・・・・・

ある医者が、自分が治療していた
患者の女性から、多くの贈り物を受け取りました。

のちに、この患者が精神病であることが判明。

医者は、精神錯乱状態で差し出された物品を
自分の物にしてしまう事は、医者として、正当ではないと判断。

医者は、この患者から受け取ったすべての贈り物を返却する。

・・・・・・・・

ここまでは、ごく常識的なお話ですが、

ここからが興味深いところです・・・

この医者は、患者からもらった多くの
贈り物をすべて返却したのですが、
実は、ひとつだけ、返却しなかったものがあるのです。

それは、「 美しい花瓶 」でした。

医者は、内心では、良心がとがめていました。
また、それと同時に、
その自分の行為を、「 自分の良心 」に対して、
正当化しようとする意識が働きました。

「 荷造りが困難だから返せない 」

「 この花瓶は高価な物ではない、わざわざ返すまでもない」

と、思うことによって、自分の良心を誤魔化したのです。

医者は、やがて、
自分のした横領行為が、
発覚した場合のことを考えるようになりました。
不安になって来たのです。

しかしながら、今さらどうする事もできない・・・・

そんなある日の出来事・・・

医者が、花瓶の水を取り替えようとしました、
そのとき・・・・
医者の手が、無意識のうちに、不自然な動きをしたのです。

花瓶を机の上から落下させてしまう。

花瓶は割れて飛び散る。

咄嗟に、その破片を拾い集め、継ぎ合わせようと試みる。

継ぎ合わせれ修復可能であることが分かった瞬間、

また偶然が起きる・・・・

2つの破片を、床に落としてしう。

落とした破片は粉々になった・・・・

もう、完全に修復不可能。

なぜ、こうなったのか?

フロイトの理論を当てはめれば、
これは偶然ではない。

これは、
「 不当に入手した花瓶から、開放されたい 」
という意識が働いたのです。

もちろん、それは、「 無意識 」の領域での事です。

その「無意識」 が、
「自分の行為」となって姿を現したのです。


決して、意図的に花瓶を割った訳ではないのです。

・・・・・・・・・・

フロイトが記した、この「 花瓶の話 」は、
「 人間の運命 」のカラクリを解明する
大きな糸口であるのです。・・・・




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私の瞑想

2015-04-12 | 宗教

執着を超越した世界。
それは、戒律や誓いだけによっても、
また博学によっても、
また瞑想をしても、
またひとり離れて臥すことによっても、
得られないものである。

『法句経』(ほっくぎょう)271 272

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

若き日の白ウサギ


私は若い頃、
瞑想もした、
断食もした、
滝行もした、
ヨガの修行もした、
武道もかじった。

でも・・・
私の場合、
そこから得られたものなど何一つなかった。

宗教病、予備軍に入ってしまっただけかも知れない。

現在の、私は瞑想は絶対に行わない。

私は想う・・・・

瞑想とは、目の前にある仕事を精一杯行う事、

瞑想とは、自分がやるべきことを、
一心不乱になって行う事。

瞑想とは、仕事で、疲労困憊ししたとき、ビールを飲んで寝る事。

瞑想とは、家族や友達の喜ぶ姿を見るために、
一心不乱になって、鳥の唐揚を揚げ続ける事。

瞑想とは、自分にとって何の利益にもならない事を、
利害を忘れて、バカになって業じること。

瞑想とは、結果に執着せず、動く事。

瞑想とは、「結果」を意識せず、その過程である「現在」を
夢中になって生きること。

瞑想とは、人が喜ぶ姿、微笑む姿を見たとき
ホッとした気分になること。

瞑想とは、最終電車に乗り遅れた時、タクシーに乗らず、下を向いて
家までトボトボ歩く事。

瞑想とは、仕事の業績を上げるため、我を忘れて働く事。

瞑想とは、自分の幸福、他人の幸福を素直に喜ぶ事。

瞑想とは、仕事に疲れ家に帰ったとき、一瞬、ボーとする事。、


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人の幸運は蜜の味

2015-04-10 | 出来事



「 棚からボタ餅 」

という言葉がありますが・・・

友達のアヤヤに突如、大きな幸運が舞い込みました。

アヤヤと知り合いになったのは、ごく最近の事です。

4ヶ月位前に、kさんから紹介されて知り合いになりました。

熱田神宮の境内で待ち合わせして、
そこで初めて対面したのですが。

彼女とは、初めて合った瞬間から意気投合してしまいました。
すぐに 
「 アヤヤ!!! 」・・・「 ウサギさん!!!」
と呼び合うようになりました。

彼女は多芸多才な女性で、
あるときは ジャズダンサー、
あるときは、ジャズダンスの先生
ヨガのインストラクター 
またあるときは、エアロビのインストラクター
西洋のカード占い師・・・
現在はその面影はまったくありませんが、
以前、ボディービルのチャンピオンになった経験もおありです。

なんともステキな女性です。

偶然か? 必然か?

私と知り合ってから、4ヶ月の間に、
彼女の運命は凄まじい速さで動き出しました。

彼女の前に、思っても見ない幸運が
舞い込んできたのです。

詳しくは書けませんが・・・

願ったり叶ったりの、ビックチヤンスです。

彼女の幸運に便乗して、ハワイ料理、御馳走になってしまいました。

アヤヤと私は、終始ホクホク顔
笑いが止まらないとはこの事です・・・
嬉しい楽しいアッ ハッ ハァー

初めて食べるハワイ料理、
ハワイのフライドポテトは、
ほんのり甘い味付けでした。

アヤヤの幸せな微笑みを眺めながら食べるフライドポテトは
これまた格別。
「 人の幸運は蜜の味 」でございます・・・
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プロレスラーになりたい。

2015-04-04 | 思う事



若い頃、プロレスが大嫌いでした。

あれは、強さを競う格闘技ではなく。
あくまでショーであり、勝ち負けは
初めから決まっている。

あとは、それを如何にもっともらしく、
演じるているだけ、
それを真剣な顔をして、
誰々が勝った、負けたなどといって
興奮するのはあまりにも大人気ない。
若い頃は、そう思っていました。

でも、今はプロレスに対する険悪感はありません。
プロレスは面白いと感じます。

わざわざテレビ中継を見たり、興業を見にいったりはしませんが、
ときどき、暇な時、youtubeで、見たりしています。

プロレスラーと呼ばれる人間は、ほんとうに強いのか?

わたしが思うに、「 ほんとうに強い 」

「 ほんとうに強い 」
人間でなければ、あれほどの演技は出来ないからです。

彼らは、
普段プロとしてかなり過酷な訓練を積んでいるはずです。
ろくに訓練もしない生半可な人間が、
もし、リングに上がって対戦したら、、
それがたとえ筋書きのあるショーだとしても、
大怪我をしてしまいます。

あのような、バカバカしい、
臭い技や、
笑えてしまうようなパフォーマンスを
継続的に、余裕をもって演じる続ける為には、
有り余る技量(強さ)と、強い精神力が無ければ
不可能です。

プロレスラーも、
時には真剣勝負をしなくてはならない時もあります。

最近下火になっていますが、

k-1 とか、 プライド とか・・・

真剣勝負の異種格闘技戦などに参戦する場合、
その相手は、
極真空手とか、タイ式ボクシング、ブラジル柔術などです。

こういう方々は、
本来、娯楽のショーを目的としていない
「 格闘家 」です。

修験者のような態度で、
常に真剣勝負をしている。

プロレスラーは、時には、
こういう筋金入りの闘家と対戦し、
圧倒的に弱い訳ではなく、ほぼ、互角に戦っています。

( こういう対戦が100%八百長なしの
真剣勝負であるとは限りませんが、
8割位は真剣勝負のような気がします。)

プロレスラーは、
日々努力を続け、それなりの実力がありながら、
普段は、いかにも、インチキ臭そうな、
笑えるようなショーを真剣になって演じている。

わたしは、プロレスラーのこういうところに、
好感を感じるのです。

これは、
プロレスラーの持つ プロとしての
「 余裕 」と「 貫禄 」です。

自分がプロレスラーになる事は不可能ですが・・・

こういう、プロレスラーが持つ
「 味のあるキャラクター 」
に憧れてしまします。

プロレスラーは、
需要と、必要性次第では、
その要望に答え、誰がどう見ても
バカバカしい技を真剣になって披露する。

 この姿は、余裕が発する貫禄だと感じます。

カッコイイ!!! と感じます。

わたしも、腕十字固めと、
バックドロップ ・ ブレンバスター
の練習をしなければなりません。

最終目標は、
ヒクソン・グレーシーとの決戦。

ローキックで倒し、
寝技に持ち込んだ瞬間、
得意の「 脳天逆立 」ちでヒクソンを攪乱させ、
その隙に、
「 腕十字固め 」でギブアップさせる。

でも、残念ながら・・・・

練習相手がいません・・・





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