老人雑記

生活の中で気づいた浮世の事

   観光案内、、、?

2019-02-13 09:38:35 | 俳句

    

 

 観光案内は苦手。

この庭園美術館は イサム・ノグチ氏が後世の石芸術家や研究者の為に自から選んだ建物を移築したアトリエを、できる限り生前の雰囲気を残し彼の遺志を公開している場所である。

イサム・ノグチの作った作品を展示している公園はとても素晴らしい場所だ。

櫂先生が「彫刻の場 宇宙的静けさ」と表現をしていたのが潜在的に心の隅にあったのか、石の群像の中に立つと、なぜか宇宙と交信をしている自分がいる。そこら辺に石の微粒子が舞っている。

楝の実が石材を積んでいる横にあった。

石も柳も楠の大木も、松も竹も梅も人の手が加わっている中で、なぜか自然のままにある春を待つ楝の木に心が和まされた。

       

 無造作に捨てられている犬にも羊にも見える彫りかけの石。よこには不安定な石燈籠が枯れ草の中に。

春が来て夏が来る。この楝の葉の繁りが待ちどうしい。枯れ草が繁るとこの辺りの景が涼しそうに一変をするであろう。

ノグチ氏は拠点はニューヨークにありここは仕事場として年に三か月ほど住んだらしい。

庭園美術館に入館をすると、石と語って下さい。考えて下さい。感じて下い。。。。と自由な散策が許される。大きい作品には圧倒されるばかり。急に「哲学者」になれと云われても凡人の私はメモ帳に季語を探して書くばかりだった。インスピレーションはわかなかった。残念と同時にあああああ、駄目だこれは、、、、、。

 

観光案内だと穴場の紹介もするが、ここは来てもらって空気を読み、日差しを身に受けてもらわなければならぬ。そんな庭園美術館だ。

 

牟礼町には、この「イサム・ノグチ庭園美術館」そして少し足を伸ばすと庵治町になる。ここには、私の最も好きな瀬戸内海が360度見え、彫刻作品をいたる所に設置している「竜王山公園」、「石の民俗博物館」遥か昔ライ病の島と呼ばれていた大島の見える海辺の「恋人の聖地、城岬公園」など、産地の庵治石を材料に作った石の彫刻作品をいたる所で鑑賞が出来る。

時間があれば「竜王山公園」がお勧めだけれど、小高い山の上にあり交通手段は自家用の車のみ。市が管理をしていて時間制限と休みがある。(夜中にクレーン車で来て盗る人がいるかも知れぬからかな~)

 

             美味さうな粒餡春の石の山

 

さて、昨日の余韻がまだ残っているようだ。

 

 

 

 

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     イサム、ノグチ庭園美術館

2019-02-13 00:00:46 | 俳句

予約をしていたイサム・ノグチの庭園美術館へ。

車で10分くらいの場所にある。

殿が生きている時、(以前屋島に住んでいた頃)よく散歩に来た所だ。

附近を散歩するだけであったが殿の想い出が沢山、残っている。

         

 

十数年ぶりに来た散歩径もずいぶんと様子が変わっていた。

世界からのノグチのファンが訪れる場所として綺麗に、あまりにも美しく整備されていて初めての場所の気がした。

作品の展示場所も、入園の方法も昔の記憶と様変わりが著しい。

 

       

 余りにも近くにあるから、いつでも来ることができると、いつか行こう、いつか行こうと思いつつずいぶんと月日が経った。

 nhkの番組の海の細道で、櫂先生がここを「 石の庭 」として放送をし、新聞の連載記事とsても載せている。

この時の経験から、もう一度この庭園で吟行句会、、との事。そのことから、今いちど庭園を見ておこうと、私は来たのであった。

 

       ☆     地球から石を伐り出す春の人    櫂

 

後ろの山から庵治石を伐り出す。伐られた山肌が白く寒々としている。

一度、この石切り場に案内をしてもらい見に行ったことがある。二十年も昔の事だ。俳句は休眠中の時。あの時の仲間は全国に散らばってしまった。元気かな?

 

 

句は拾えなかった。が印象が残っている間にとパソコンを開いてしまった。

           薄氷や天窓二十の酒の蔵

            無双窓芽柳揺らす風のあり

           石の梅はては椿か庭に散る

そう、報告俳句、ぼちぼちと推敲を重ねよう印象の薄れぬうちに。

    

 

 

 

 

 

 

    

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梅に舞う    鴨のシンクロナイズ

2019-02-10 11:04:00 | 俳句

 

公園の池で見かけた鴨の饗宴。

思わず足が止まった。

鴨たちのシンクロナイズシンクロの光景だ。      

            

 一羽の鴨が翔びたつ音に気が付いた。

しばらくするとこの池で繰り広げられる餌とりに眼を奪われる。

写真は前後をするが、よほどこの池には餌が豊富なのであろう。      

        

次々と鴨が水の中に顔を入れる。かいつぶりのように長い時間ではない。ほんの一瞬だ。

 

     

しかも同時に首を水の中に入れる。

一羽毎はひっきりなしだけれど、二羽、三羽となるとなかなかの事。

カメラの中には四羽入っている。、、、が一羽が遅れをなしてなかなか数が揃わない。潜るのが一瞬遅いのだ。

真鴨ばかりだとお尻の色が揃って綺麗だろうが、やっととれた写真には茶の雌鴨が混じっている。

あたかも公園は梅の盛り。

水面に紅梅が映えている。

      

かっての松平の殿さまは、この鴨瞰閣からこのような鴨のシンクロナイズを楽しんだだろうか?

 そんな事を考えていると狭い家の中で抱えている色んな悩みは全てこの景色の中では忘れ去っていることに思いいたる。

 

             入り交じり幾何学模様や鴨の水脈 

     

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ああー なんてこっちゃ!

2019-02-09 12:00:35 | 俳句

 

         

咄嗟に何がおこったのか解らなかった。

ほっぺたが痛い。触るとざらざらとする。右の唇も痛い。血は出ていない。

夫の用事で外出をする。夫が用事を済ませている間、始めての大型スーパーを待ち合わせの場所に選んだ。

初めての場所、辺りを観察しながらきょろきょろと歩いていたのであろう。

こけた! 転んだ! 前のめりに、、、! 足元に注意をしていなかったのだ。

足首も手首も痛い。後ろを振り返ると、車止めがある。それは15センチ位だろうか?駐車場なら、どこにでも設置をしているあれである。それに躓いて転んだと判断をした。

いつも横たわった状態から起き上がるのはなかなかに大変。しかしこの時は痛い手首に力を入れて、杖に力を込めて立つことが出来た。いわゆる火事場の馬鹿力である。

足の膝を擦りむいた感じ。擦り傷を作るときは履いているズボンに傷は無いが、身体に傷を負っていることが多い。

          

 待ち合わせていた夫が来る。転んだ事を告げると、

「アハハハハー杖を突いて歩いていながら何という事だ」、、、一笑をされた。

そうだ、でも鏡を見てゐないから、ほぺったのざらざら感はどうなっているか聞く。

「心配ないけど、打ち身が怖いよ。医者に行こうか? 」

その日は、よほど日が悪かったのだろう。夜はベッドに座ったつもりが蒲団ごと滑り落ちてしまった。お尻を打った。

肩、腰、手の腕、足の関節に貼り膏薬を塗って冷や冷やとする一夜であった。

 

幸いに昨日は公園の梅を見にいっても、足も腰もどうでもなかった。大した事にならなくてよかった。唇の辺りに痛みは少し残ってはいる。

 

讃岐かがりてまり。綺麗な色、素敵だ。商工奨励館に飾っているのに目をひかれた。

            空耳か母の唄へる手毬唄

            手毬つくひとよひとよにひとみごろ

    

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  亡くなっても一隅を照らす人 

2019-02-05 17:44:00 | 俳句

 亡くなった古い友人のブログを読む。

あっちへ逝ってしまわれてもう九年が経つ。

まさかこんなに早く亡くなるとは思ってもいなかったものだから、長いご無沙汰を決め込んでいた。

休んでいた俳句を再びやろうかと思い、連絡をとるが、電話もかからぬ、文も戻ってくる。

彼の所属をしていた結社をインターネットで調べるうちに、彼のブログを見付けることができた。

私の句をブログに取り上げてくださっていたことも驚きと、それが手がかりにもなった。

俳句を再開するにあたって彼に無沙汰のお詫びと又俳句の教えを乞うことが目的であったのに、ショックだった。

 

その彼のブログを時々覗く。

亡くなって長い時間が経っているのに彼のブログは毎日、訪問者が後を絶たない。

一種のバイブルのような存在になっているらしい。宗教家の域に達している。

今は、彼のブログは更新こそされないが、多くの読者がいるらしい。

 

私はちょっと心が折れた時とか人生に押し流されそうになった時に、彼のブログのページにお邪魔をする。

勿論、心が晴れてゆく。これでは私の考えは駄目だと彼の生き方から、勇気をもらい諭される。

亡くなって、こんな存在感のある人がいるだろか。決して有名でも無い(知らないのは私だけかも知れぬ)のに毎日、毎日、彼のブログで救われている人が多くいるらしいのだ。私と同様に。

身近にいる人だと、私が感じすぎていたのだろうか。

有名、著名な俳人の事はどうかは知らぬが、亡くなって今も彼の右に出て後輩を導いているのは彼をして他にいないと信じている。

 

    >    いつもご覧いただき、ありがとうございます。
   やはり癌には勝てず、二、三日中に入院し、病院で最期を迎える所存です。
   これまでのご厚誼を深く深く感謝申し上げます。

 

     >  明日、1月4日入院する予定です。


      一隅を灯しつづけよ竜の玉      季 己

 

 最後の二日間のブログはこんな綴りで、旅だってゆかれた。

 

 淋しい時、疲れた時、かれのブログを開く昨今だ。

 

 

 

 

 

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